いたい、いたい、いたい
「偉大なる神は、人に愛を与えたもうた。愚かなる人は、愛に意味を与えてしまった」
「神書第一章。宣教師にでもなりたいのか、若造」
「序文を覚えただけでそんなものになれるなら、私はこんなところで酒を飲みませんよ」
金髪青眼の青年は老人にそう言って、くすんだグラスを傾けた。とろりと流れる、麦を煮詰めただけの安酒にわざとらしく顔をしかめる。カウンター席に並んで腰かける老人も、向かいでグラスを磨く壮年の店主も。そんな彼には一瞥しか与えない。
老人は青年と同じ酒を、味わうように口に含む。荒削りにした樹木のような顔、一つに束ねられたごわごわの白髪。その背に棺を背負う彼は、狭い店内においてひときわの存在感を放つ。
場末の酒場、ギフテッド。時代の変化の一つや二つなぞ当たり前に経験してきたことを、壁や調度品の飴色と床にまばらな種々のしみが語っていた。当然、常連客達の間には排他的な絆と暗黙の了解があるのだ。
新参者の青年は今、それを侵そうとしていることに気付かない。
「それにしても。随分と憎らしげに、我らが教典の名を口にするのですね」
「……我らが、と言ったか?」
「えぇ、言いましたとも」
声を低めて返事をする老人に、彼はきょとんとした顔をする。
神書は他でもないエーゲイプ教の教典。そして、数年前にエーゲイプ聖教国に敗戦したこのエルム王国においては、やってきたばかりの国教。だからこそ青年は戸惑うのだが、それを遮るものがある。
棺だ。
酒の席につきながらも背に負い続けていた棺を、老人が下ろしたのだ。まるで、青年との間に衝立を立てるように。虚ろな音が空恐ろしい。黒塗りの棺を下ろした老人は、一回り大きくなったように感ぜられるのだろう。青年は怯みを見せつつも、言葉を繋ぐ。
「まぁ、いいです。あなたに声をかけたのは他でもない。その棺が気になったのです」
「儂の仕事道具だ。お前なんぞに何を語る気も、何を見せてやる気もないわ」
「まぁまぁ、そう言わず。私、聖教国の出身でしてね?」
その刹那、店内の視線が彼を襲ったわけだが、好奇心から饒舌になった彼は気付かない。
「この国の文化は私の国とは大きく異なっていて、非常に興味深く思うのです。何より、死生観が違う。あなたはきっと、その最たる例なのでしょう?」
老人は横目に青年を見やった。その瞳は深く、底に沈殿しているものを見せず。
「あなた、遺体遣いですよね」
がんっ、グラスがカウンターを叩きつける。
青年は本能で身体を小さく跳ねさせ、理性で口をきつく結んだ。店主が呆れて見つめる先、老人がグラスを握りしめている。その手は、飛び散った麦酒に濡れながら、確かに震えていた。
「帰れ」
身体全体に響かせて、言葉を発している。そんな声色だった。
「帰れと言っている」
「はいっ!」
二度言われて、青年はやっと動き出した。冷や汗を垂らしながらそそくさと帰ろうとする彼の背を、失笑が追いかけていた。
□
「いったいいつから、この店には小金虫が湧くようになった?」
「ケイマンの爺さん。申し訳ないが、うちじゃあ金さえ払えば虫も客なんでね」
不満を漏らす老人、ケイマンに、店主は受け取った硬貨を指で弄びながら返した。そして、空いた方の手でケイマンに布巾を放る。お前の親父が生きてた頃はなんて言いつつ、彼は自分の撥ねかした酒を渋々とふき取っていく。
「しかし、さっきのやつじゃないけどよ。爺さん、いつまで遺体遣いをやるんだい?」
「なんじゃ、時代遅れと言うのか」
「言いたかないが、その通りだろ? いまや取り締まりの対象じゃないか」
「ふん、この前まで鼻を垂らしていた小僧が生意気な」
「老人の感覚の『この前』を持ち出されちゃあな」
わざとらしく肩をすくめる店主に、ケイマンはもう一度鼻を鳴らした。
ケイマンは棺を背負いなおす。使い古されたそれは、彼の人生の相棒だった。しかし、今はその中に遺体が、彼の武器がない。背に乗った棺を、彼はもどかしそうに一度揺する。やがて代わりの酒を店主から受け取ると、一口に煽り、泡を乱雑にぬぐった。
「……それでも、亡霊狩りは遺体遣いがやるべきじゃ。死者は死者、生者は生者。生者が死者を殺すなど、あってはならぬ」
「だがな。死者をも愛するエーゲイプ教じゃあ、遺体を操る遺体遣いは生きていけない。実際、死体を遺体に仕立てる遺体売りもほぼいないし、だから棺が空っぽなんだろ。俺たちの信仰は、もはや異端なんだ」
ケイマンは店主の言葉を黙って聞き、グラスの中を滑り落ちていく泡を眺めていた。壁面にこびりつこうとするも、重力に負け、滑り落ち、やがて。
「今日も、亡霊狩りの依頼はないのか」
「あぁ、ないね。どうしても遺体遣いを続けるなら、国の目の届かない辺境を自分で歩いて回るしかない」
「そうか」
席を立ち上がるケイマンは、くたびれた上着から硬貨を取り出す。店主がそれをしまう頃には、ケイマンは踵を返していた。彼の後姿は、棺が一人で歩いてるようにも見える。
「風俗街に行ってみな。戦闘には堪えないが、娼館向けの遺体のマーケットがこの後開かれるはずだ」
ケイマンは背中で店主の言葉を受けた。返事は、木戸の軋みだけ。外に出るなり吹き付けた夜風に襟を寄せつつ、ケイマンは歩き始めた。石畳にうっすらと積もった雪がさくりと鳴る。
「しかし、娼館向けか」
皮肉なことに、死者を操ることは咎められても、操られた死者とまぐわることは咎められない。故に娼館は職を失った遺体遣いが流れ着く先であり、故にケイマンの嫌うものである。
ケイマンが一つ路地を曲がると、陰鬱な空気が押し寄せた。浮浪者がうずくまり、やせ細った娼婦が客を路地裏へ呼ぶ。遺体に職を奪われた彼女らは、ケイマンのような老人にも声をかけた。また、路地裏を覗けば、雪をまぶされた死体がある。遺体売りと思しき人間たちがそれらを物色しては、端へと投げ捨てる。彼はその様子に舌打ちをするが、だからといって何を言うでもなかった。
そうして歩き続けたケイマンが、ふと足を止める。
彼は、まばらな人影の向こう側、道端に並んでうずくまる者たちを見つけた。父親と息子、娘の家族に見えないこともないが、ぼろきれを纏った少女を除き、全裸だ。ただの死体が二つ、少女と並んでいるはずがない。『うります』と書かれた木切れを首から下げるそれらは、遺体だった。ケイマンの探していたものである。
少女の前にケイマンがやって来ると、彼女はゆるやかに視線を上げた。
「おい、遺体を売っているのか」
「うん、おにいちゃんと、おとうさん」
彼女は消え入りそうに細い声で言った。伸ばしっぱなしの亜麻色の髪に隠れた顔はこけて、薄汚れている。灰色の瞳は、いまいちどこを見ているかはっきりしない。
ケイマンは彼女の言葉に眉をひそめたが、ひそめただけだった。
「とりあえず、遺体を見せてもらうぞ」
ケイマンはぶっきらぼうにそう言って、遺体に手を伸ばす。
実際のところ、ケイマンは全くと言って出来に期待していなかった。いくら風俗街とはいえ、人目につくところで遺体を売買することには危険が伴う。路上で売られる時点で、碌なものではない。
けれど、遺体を調べるにつれ、ケイマンの表情に喜色が浮かぶ。
腐臭はなく、潤いを残した肌。腹部の縫合痕は一見わからぬほどであり、ケイマンが触れると不自然にへこんだ。腑抜きがなされているのだ。仕込みこそないが、不要物の一切を斬り捨てたそれはまさに――
「戦闘用の遺体……」
ケイマンは目を見開き、少女を見やる。
「お前、この遺体を仕立てたのは誰だ」
「わたし」
「お前が? その年で?」
「うん。おとうさんにおそわったの」
少女はケイマンの触れている遺体を指さしお父さんと言った。ただ淡々と事実を告げた。そこに一切の感情はない。対して、ケイマンは唸る。とても信じられることではないが、ケイマンには目の前の少女が嘘をつく理由も思い当たらない。
熟考の末、彼は少女の言葉を信じることにした。
「なぁ、お前、名は何という」
「なまえ? なまえはノエル」
「ノエルか。……ノエル、お前、儂の専属にならないか?」
「せんぞく?」
少女はこてんと首を傾げた。遺体と並んで座る彼女がそうするのは滑稽であったが、ケイマンはいたって真摯に続けた。
「儂の遺体を作るのを仕事にするってことじゃ」
「うーん、それは、ごはんをたべれる?」
「もちろん、お前の食事は儂が面倒を見よう」
「じゃあやる!」
少女は純粋な笑顔を見せて、弾けるように言った。ケイマンはその急変に面くらいつつも、手を差し出した。そのまま戸惑う少女の手を引いて、握手を交わす。少女は未知の物体と出会った赤子がするように、その手を握り返した。
「ただ、一つ聞かねばならんことがある」
「なぁに? なんでもきいて」
少女はまだ手をにぎにぎとしている。無邪気な彼女を、ケイマンは怪訝に見つめる。
「なぁ、お前」
その声には厳しさが見えて。
「どうして、肉親を殺して遺体にした」
遺体の首には、傷跡があった。遺体売りが、遺体を作るために人を殺した時につく傷だ。それはつまり、少女が家族を殺したということ。
少女は一度視線をどこかへやって、考えるような仕草をする。答えが出るのはすぐだった。
「だって、わたしはいたいうりだもの。おなかがすいたら、いたいをうるのよ」
ケイマンはその発言の真意を見るように、少女の瞳を覗き込む。その瞳はどこまでも灰色で、どこまでも底がなく。
「ねぇ、それってふつうでしょ」