魔女は死体にキスをする
ほとんど光のない、闇に包まれた部屋だった。ひんやりとした石造りの冷たさが背や足を伝い、体の芯から凍えさせてくる。それらを紛らわすように、闇の中、少女は鎖の巻きついた裸足を擦り合わせて「ねぇ、」と口を開いた。
「建国神話は知ってる?」
「――もちろん」
わずかに間を置いて声が返ってきた。闇の向こうから、ひっそりと。年若い青年の声だったが、纏う雰囲気はどこか老成したものを感じさせた。
この部屋にいる、もう一人の人物。今は暗すぎて顔を見ることはできないが、昼間だとその危うげな美貌がはっきりと視認できただろう。月のようなきらきらと輝く銀色の髪に、水面のように揺れる碧の瞳。正確な年齢も名前も知らない同居人は、少女が今までに見てきた人々の中で一番美しかった。彼女の祖母はかつて国一番の美姫と呼ばれていたらしく、その当時の絵姿も見たことがあるが、それすら敵わないと思えるほど。
――リナリア。
声が、した。早くに亡くなった両親の代わりに、膨大な執務のかたわら育ててくれた、大好きな祖母の声。懐かしくて、切なくなって、そっと目を閉じる。白髪混じりの蜂蜜色の髪と深い青の瞳が脳裡に浮かんだ。
会いたい。会って、抱きしめてもらって、たっぷりとキスを浴びせてほしい。それが、それだけが、今の少女の――リナリアの望みだった。
「……どうかした?」
しんしんと降る雪のような声に、ハッと我に返った。いつの間にか遠い遠い過去――実際はそれほどではないだろうが、リナリアにとってはそうだった――に囚われてしまっていた。慌てて首を振る。「何でもないわ」
そっと、体を丸めた。すがりつくように自らの体をかき抱く。
(おばあさま……)
――さみしい。早く、迎えに来てほしい。
そんなことを思いつつも、感情を胸の奥底へ追いやる。自分は次の〝魔女〟なのだから、そんなことを思ってはいけない。祖母のようにいつも毅然としていなければ。
深呼吸をして気持ちを落ち着けると、リナリアは「あのね」と口を開いた。途中だった話を続ける。
「建国神話って、本当なんだけど嘘なんだって」
「……どういうこと?」
首を傾げるような雰囲気が漂ってきた。かつて自分も同じ反応をしていたことを思い出し、そっと目を伏せる。またもや懐かしさが溢れてきた。どうしようもないほどの愛しさと、さみしさが。混ざり合って。
パチリ、と暖炉の中で火の爆ぜる音がした。側近も排した、二人きりの部屋。暖炉のそばにあるソファーで、小さなリナリアは祖母と並んで座っていた。窓の外でちらちらと雪片が舞うのが視界の隅に映った。
リナリアは祖母の言葉に耳を傾ける。
かつてこの半島にはあまたの小国が存在していて、常に戦争を続けていた。それを憂いたのがのちに英雄王と呼ばれる一人の青年で、彼は宰相、将軍、魔女らを率いて各国を統一し、そして広大な国を築き上げた。
それが神国。神の国。そう名づけたくなるくらい、戦争に疲弊していた当時の者たちにとって、この国の成立は希望そのものだったのだ。
しかし英雄王が没すると神国は分裂することになる。三人の側近が次期王にと推す英雄王の子供が、それぞれ異なっていたのだ。そうして、この地域は再度戦火に見舞われることとなった――
それが建国神話。
そしてその戦争は千年経った今でも続いていて。
――建国神話で英雄王のそばにいたのは、宰相と将軍、そして私たち魔女よ。
「建国神話で英雄王のそばにいたのは、宰相と将軍、そして魔女」
リナリアは、記憶にある祖母の言葉をほとんどなぞるようにして言葉を紡ぐ。そうするとさみしさがわずかに薄れて、心がほんの少しだけ温かくなった。
――だけどね、
「だけどね、本当は違って――」
祖母の声に身を委ねてリナリアは続ける。
だからこそ気づかなかった。闇の向こうの気配が固くなっていることに。
そうとは知らず、続きを口にする。
「もうひとり、英雄王に付き従う者がいたんだって。しかも、一番信頼されていた人が」
――その言葉が、のちに半島全体を巻き込む戦争を引き起こすとは、当時のリナリアには思ってもみないことだった。
「リナリア様! どこですか、リナリア様!」
教育係の声が聞こえて、森の中、リナリアはさっ、と茂みに身を隠した。さすがに次代の〝魔女〟がこんなところで草にまみれているとは彼も思わないだろう。
思わず笑みをこぼした、そのとき。別の方向から彼のものとは違う声がした。
「ま〜た脱走か。あんなのが次の〝魔女〟でいいのかね」
「見た目こそ昔の魔女様に瓜二つらしいが、中身はてんでダメだな」
「本当に。まだ側近も見つかってないんだろ? そりゃあ、あんな〝出来損ない〟に誰が好き好んで仕えるかってな」
その、言葉に。
リナリアはそっと目を伏せた。幼いころからの癖で、自らの体をかき抱く。カサリ、と、周囲を取り囲んでいた草が鳴った。
(どうせ、わたしは出来損ないよ……)
膝の間に顔を埋める。どれだけ頑張っても、リナリアはなかなか人並みのことができるようにならなかった。そんなことだから大好きな祖母に見放されたくなくて、最初からやらないことにする。そうすれば評価はつけられないから。
けれど次の〝魔女〟だから、いくら逃れたところでやらなければならないと、わかっていた。わかっていたけれど――怖い。祖母に軽蔑されるのが。実力で、出来損ないの烙印を押されることが。やらないのなら、大丈夫。それは実力から認められなかったわけでも、否定されたわけでもないから。だから、いつも逃げ出して――
「――見つけましたよ、リナリア様」
そう、すぐ近くから声が降ってきた。慌てて顔を上げれば、いつの間にか二十ほどの男性――教育係のフィニアスが目の前に立っていた。紺色の髪に、美しい碧の双眸。――彼と同じ。
かつて〝将軍の国〟の牢に囚われていたときのことを思い出し、リナリアは首を横に振った。闇の中。ある日を境に忽然と姿を消した、名前も知らない同居人。あのときのことは秘されているため早くリナリアも忘れなければならないが――五年経った今でもふとしたときに思い出してしまう。
それくらい、あの期間は特別だったのだ。祖母と離れることになってさみしくて、劣悪な環境に何度も泣きたくなったけれど、それでも。
――どうしてだか、あの日々はリナリアの心の中で輝き続けていた。祖母との思い出と同じくらい、まばゆく。
「リナリア様?」
「……なん、でもないわ」
少しだけ言葉をつまらせながら、リナリアはフィニアスの呼びかけに応じた。そっと立ち上がれば、すぐに彼が草まみれになったドレスをはたいてはたいてくれる。
彼は。碧の瞳を持つフィニアスは。
「……あなたが、わたしの側近になれればいいのに」
そう、リナリアが思わず呟けば、ちょうど太ももあたりの汚れをたたき落としていた彼は、悲しげに顔を歪めた。「無理ですよ」と、淡々とした――しかし複雑な感情がちらちらと見え隠れしている声。「私にはそれだけの権力がございませんから」
「権力、ね……」
口の中で呟く。この国の建国された歴史から王族と同等――もしくはそれ以上の権力を要する〝魔女〟の側近となる者には、莫大な栄誉が与えられる。そのため権力がなければたとえ側近となったとしても不名誉な噂を立てられてその座を追われたり、暗殺をされたりする危険があった。だから、彼はなれない。悲しいことに。
「……でも、あなたくらいじゃない。わたしを〝魔女〟だと認めてくれているの。だから――」
「それでも、です。……わかりましたか、リナリア様?」
そう言って悲痛な面持ちでこちらを見上げてくる彼に、思わず顔を歪める。リナリア自身に〝魔女〟としての器がなく、軽視されていようとも、次代の〝魔女〟というだけで多くのことが制限される。それが苦しかった。
それでも迷惑をかけまいと感情を呑み込んで小さく頷けば、彼は苦笑した。リナリアの気持ちを察しているのかもしれなかった。
「では、屋敷に戻りましょうか。……実はですね、魔女様が城からお戻りなのです」
「おばあさまが!?」
その言葉を聞いて、リナリアは先ほどまでとは打って変わって目を輝かせた。祖母は〝魔女〟としての仕事があるため、普段はなかなか城から戻ることがないのだ。王都の外れにある代々〝魔女〟が受け継いできた屋敷までは一時間ほどしかかからないのに。
だから、ひどく嬉しくて。憂鬱な気分なんか吹き飛んでしまうほどで。
「早く戻りましょう!」
ぐいっとフィニアスの手を引っ張る。
彼はクスクスと笑うと、大人しくリナリアのされるがままに走ってくれた。
高鳴る胸のままに駆け出して、屋敷へと戻る。走る二人を見て屋敷の者たちは顔を顰めたけれど、そんなの些細なことだった。興味ない。祖母が帰って来てくれたのだから!
「おばあさま!」
祖母の執務室につけば、彼女の側近たちが屋敷の者と同じように不快げに顔を歪めた。それでも大丈夫。いつだって祖母はそんな自分を抱きしめて、たっぷりとキスを浴びせてくれるのだから。そして耳元で優しく「リナリア」と呼んでくれて――
けれど、その日は違った。
祖母は何故か悲しげな表情を浮かべた。「リナリア」と呼ぶ声はいつもとは違い、冷たいもので。
様子のおかしい祖母にリナリアは困惑する。「どうしたの、おばあさま?」その問いかけに、祖母は顔を伏せ、答えてくれた。
「もっとしっかりしなさい、リナリア。あなたは――もうすぐ〝魔女〟になるのだから」