猫耳任侠道 ~開かずの社に住まう君~
猫耳神社を知っている人はいるだろうか?
知らないのも無理はない。知っているなら嘘をつくな。
なぜならそれは、我々のような妖怪ネコマタにだけ開陳される、秘密の神社であるからだ。
「マサムネちゃん、ちょっと来て」
鈴を転がすような声が聞こえる。社からだ。
私は若葉に突っ込んでいた顔を上げた。ひらりひらりと、鼻に桜の花びらが落ちてくる。
そういえば、もうそんな季節であった。
「早く来ないと、ここらを大雨にしちゃうわよ」
まったく。主のせっかちには呆れる。
あくびの無礼も、まだ遠くにいるうちはいいだろう。
私は四本の足を順々に伸ばした。左右の爪をなめ、黒い毛ツヤを全身にわたり確かめ、最後に尻尾を見る。妖怪ネコマタのあかし、二股に分かれた尻尾だ。
「ただいま、参ります!」
桜から跳び降りる。
境内は静まり返っていた。まるで時間にさえ忘れられたかのようだ。
石畳に、桜の小枝が落ちていた。主への土産に咥えていく。
手水舎を通ると、水鏡に黒猫の姿。私だ。左頬に大きな傷があり、右耳は欠けている。
はぁっ、とため息が落ちる。
この顔では、愛されるなど、夢のまた夢。時折、世の愛くるしい飼い猫と、己とを比べ、何日も水を飲んでいないような気持ちになる。
ばしゃばしゃと顔を洗う。
社に着いた時、主の機嫌はすでに傾いていた。
「遅いわね」
きっと顔をしかめているに違いない。社は閉ざされ、姿は見えないが。
仕えて十年になるが、主を目にしたことはなかった。
私は気むずかしき主を呼んだ。
「猫耳様」
いつの頃からか、それが通称になっていた。
このお方もまたネコマタだが、私よりもよほど大物だ。尻尾は二股どころか七つにも八つにも分かれているらしい。
「神社に絵馬が届いたわ」
賽銭箱の裏から、紙細工の人形がトコトコと絵馬を運んでくる。猫耳様の式神だろう。
私は首をひねった。
「絵馬?」
ひょうと寂しい風が吹いた。
「……誰からです?」
「あら、不思議かしら」
一応は神様なんだよ!
言葉で、社の中でふんぞり返っているのはわかった。
「いえ……しかし猫耳様、ここに参拝者が来た覚えなどありませんが」
私は何気なく見上げた。
ここの屋根は変わっている。二つの出窓がついているのだ。かや葺きを突き破って存在する二つの出窓は、遠目からだとまるで猫耳のようだ。
その窓が片方開き、紙人形が大空へと飛んでいく。
「……式神?」
「ぬふふ」
「猫耳様。あなた、まさか」
「他所からネコババしちゃった♪」
息を吐く私に構わず、猫耳様は吹聴した。
「だってぇ! ねぇマサムネちゃん、世の中にどれだけ絵馬があると思うのよ。日本人だけでも大変だってのに、今じゃ外国からもじゃんじゃか来るじゃない? 見てらんないのよ、余所の神様だけじゃ! この猫耳様が適当に見繕って、叶えてくれなそうな絵馬の敗者復活戦やったって、ぜんぜん問題ないじゃん?」
猫耳様はよく喋る。
「ね、そうでしょ? そう思うでしょ?」
そして共感を求めてくる。
私は頭を振って、まずは絵馬を読むことにした。左端には畏れ多くも川崎の有名神社の名があり、私はお目こぼしを願った。
肝心の絵馬には、こうあった。
――いちおくまん馬券当てたい!
なるほど。これはどんな神様も無視するな。
「しかし……厳密には、これは盗難でして」
口がもにゃもにゃ空転する。
猫耳様には口で勝てない。
どうしたものかと悩む。式神が爪先のような手で、ちょちょんと桜の小枝を指してくれた。
「ああ」
気づいた。そういえば、渡すのを忘れていた。
「猫耳様」
「ん~?」
「こちらを」
「見えない」
「今、持って行かせますので」
式神が枝を抱えて、社に入っていく。開かずの社にも、彼らだけが通れる秘密の抜け道があった。
私の迫力不足は、主の不遇と無縁ではない。まるで囚われ姫ではないか。
「……きれいね」
「もうそんな季節になりました」
つかの間、温かい風が吹いた気がした。
「長いおつきあいになりましたが、今年も、きちんと春がやってきたということです」
猫耳様は社から出ることはできない。これは、掟だ。
「今年こそ、猫耳様を迎えにきてくださる方を、探しましょう」
神社に辿り着いた人間が、社を開ける。猫の嫁入りと言われ、ここらではちょいとした伝承となっている。
社を開けた人間は、猫耳様の飼い主となり、以後、そのご利益を受ける栄誉に浴すのだ。
猫耳様が絵馬を取ってきた理由も、頷ける。要は絵馬を奉納する人間に的を絞り、神社を訪れるよう、そして社の扉を開けるよう、営業をかけろと言われているのだ。
私は、己の飼い猫時代を思い出した。
猫耳様には、いつか、温かい手で背を撫でられる感覚を知ってもらいたいものだ。
「ねぇ、マサムネちゃん」
猫耳様にしては、その声は湿っていた。
「これ、見て?」
式神が何かを持ってきた。
雑誌である。幸せそうな人間の男女が笑いかけていた。
「……うぇでぃんぐ?」
「ええ」
猫耳様は、続けた。
「ネコマタだけど……もし、もしだよ?」
「はい」
「私とあなたでも、こういう服って、似合うかな?」
ま、あなたはすでに『黒』だけど。
そう付け加えて、猫耳様はニャハハと笑った。
私は首を傾げた。ほとんど一回転する勢いで傾げた。
猫耳様は、ときどき、こういうおかしなことを言う。
周囲の式神が、いっせいにこちらへ向いた。小さな手足で、必死になんらかのエールを送ってくる。
「猫耳様」
私は身を低くした。
「不肖マサムネ、あなたのお姿を拝見したことはございません。ですが、お声、お力、その他もろもろから、お美しい猫であることは間違いないと思っております」
「ま」
ただ、と私は付け加えた。
「ただ……あの時の盃に誓って、申さねばならぬことがあります」
猫耳様には、危ない所を匿ってもらった恩がある。多摩川の雌猫集団タマゾネスや、イチョウの代紋を背負う東都猫組など、野良には敵が多いのだ。
主はつまらなそうに言った。
「あのミルク、まだ気にしてたのね」
「ミルクの小皿とはいえ、誓いの盃ゆえ」
かつての飼い主は言ったものだ。
盃を交わして家族となるは、子猫か任侠だけである、と。
ならば私は、任侠でありたい。守られる子猫ではなく、誰かを守る任侠に。
ゆえに、主を正すこともまた私の役割である。
「猫耳様」
いつか飼い猫となった時のため、己への認識は、正しく持たねば。
私は使命感に燃えた。
「なぁに?」
「写真の白きお洋服も、たいへん美しい。が、難点がございます。人間用ということ」
猫耳様を悪く言うつもりはない。あくまで、装束との『相性』が悪いのだ。
「つまり!」
私は見た。刮目して見た。
写真のいわゆるドレスは、どれも白い。そして女性の胸や腰といった柔らかな線が出る。そこに、イキモノとしての差異が生じる。
つまるところ、猫は猫なのだ。
「乳が八つあるあなたでは、似合わぬと思います」
私は背筋を伸ばした。
式神達が震えていた。
長い静寂があった。なにか鼻に当たったと思ったら、それは大粒の雨だった。
「そうね」
がっしゃーん、と遠くで雷音がする。どこかの神様が、怒ったようである。
◆
大変なことになってしまった。
――いちおくまん馬券当てたい!
猫耳様は、この願いを必ず叶えることを厳命したばかりか、『しくじったらコロス!』とまで付け加えたのだ。
なぜあれほど怒ったのだろう。
式神に次々とものを投げられ、後ろ指を豪雨のように浴びながら、私は神社を叩き出された。
とぼとぼと惑う。森を抜けると、雨が降り続いていた。
しかし、雨粒は私を打たなかった。
黒い着物の女性が、私に傘を差していたからだ。釣り目で、つやつやした唇がいやらしい弧を描いている。
「ひどい雨だね。君、しくじったな?」
私はじろりと睨み上げた。
「カラスには関係のないことだ」
この化けカラスは、多くの猫からカァさんの愛称で親しまれている。わざわざ人間の姿をしているのは、長生きしたカラスの神通力を見せびらかしたいだけだろう。
「うひひひ」
カァさんはにやにや笑って、隣のベンチを指した。煙草を取り出し、慣れた動作で火をつける。着物の裾をひらひらと揺らして見せた。
「飛べなくなったぜ」
「むぅ」
「守役なら、主の機嫌をとりたまえよ」
この大雨も猫耳様のせいだろう。そこは言い訳のしようもないので、私は素直に謝った。
私が一部始終を話すと、カァさんは目を細めた。
「その本ってなに?」
「これだ」
神社の外には、石だの柄杓だの、式神が投げつけたものが散乱していた。雨でふやけた雑誌を見せると、カァさんは目を丸くした。
「……こりゃ怒るよ。だって、この本は」
「なんだ」
「ウェディングドレスの本だぜ」
私は首を傾けた。
「君は意味が分からぬのか」
「……うむ」
「彼女は、つまり君とだね……ハァ、もういい」
カァさんは何か言いたげにこちらを見る。
私は絵馬を咥え、もういくことにした。人間のところへ顔を出すなら、私も姿を変えねばならぬ。
「その絵馬」
カァさんは煙と共に付け加えた。
「たぶん、箱船のオヤジだよ。書いた人」
そう教えられた時、記憶が掘り返された。





