9.名誉挽回
午後のティータイムの用意が始まるころ、ラシェルは再び厨房を訪れていた。
やはり昼食をキャンセルしていたディルクに、何か軽食でもとジータがサンドイッチを用意しているところだった。
「ジータ、私にも何か、手伝えることない?」
珍しく、しおらしい態度のラシェルに、ジータが苦笑いで返す。
「ディルクさんにまた、何か作ってやりたいのか?」
こくん、と頷く。
何というか、朝のリベンジがしたかった。味見をしてみて、あそこまで酷いものしか作れなかった自分が、やっぱり許せなかったのだ。病気の彼にも却って気を遣わせてしまい、ほとほと情けない。前世から言えば十四年のブランク、今生では料理未経験の自分が挑むには、揚げ物はハードルが高すぎた。
「じゃあ、お嬢。リンゴを摩り下ろして、ジュースを作ってもらえるかい?」
ジータの提案に、顔を綻ばせて頷く。それくらいなら、何とか上手く出来そうだ。
リンゴを洗って、八等分する。ヘタを取る時に誤ってナイフで少し指を切ったが、包丁に比べれば扱いやすい。おろし金で丁寧に皮ごと摩り下ろして、布巾に包み、コップに絞り出す。今度こそ、絶対おいしい。
「お、なかなか上手にできたじゃないか」
これを失敗する人間の方が少ないだろうという工程だが、今は素直にジータの褒め言葉が身に染みる。
「悪いけどお嬢、ディルクさんに届けてくれないか?」
蓋つきの籐籠に、サンドイッチとジュースを入れて渡される。一応これも彼なりの気遣いと分かり、笑顔で受け取った。
勝手口から外に出て、庭の噴水を横目に離れへと向かう。歩きながら、何となくディルクのことに思いを馳せた。今度こそ、本当に心から美味しいと言わせたくて厨房を訪れたわけだが、良く考えてみれば自分は彼のことを何一つ知らない。まぁ、出会って数時間で婚約、彼と向き合った時間にしても、正味でいえば二十四時間にも満たない。当たり前といえば当たり前だが、これから結婚に向けて、お互い知らなくていいことまで知っていく間柄にきっとなるわけで、人間性とか、趣味とか、一応ある程度は理解しておいた方がいいように思った。その反面、自分は幼くて、結婚生活なんて前世も含めてしたことなどないから分からないが、政略結婚なんてそんなもの何も必要ないのかもしれない、とも同時に思う。
取りとめもないことに頭を巡らせているうち、離れに着いた。
さすがに領内でも屈指の腕利きとして名高い大工が施工しただけあって、離れの中は趣ある内装に手直しがされていた。
とはいえこの世界の文明では電気がまだないため、奥に行けば行くほど薄暗く、しかもあの風貌の男が一人住んでいるという現状も相まって、最奥にある彼の部屋の前は一種異様な雰囲気を漂わせていた。
自分の家の敷地内だというのに、緊張する。ノックをしようと腕を上げた瞬間、突如、扉が開かれた。にゅっ、と目の前に現れたディルクの顔に、思わず仰け反る。
「ぎゃあぁあぁあぁああああ!!!」
驚きのあまり、後ずさりしきれず躓いた。気合で持っていた籐籠だけは死守したが、代わりに尻餅をついた。めちゃくちゃ痛い。ジュースは蓋付きのカップにしてもらっておいて良かった。
「あ、ごめん」
悪びれもせず、ディルクが詫びる。
「だ、大丈夫です……」
全然大丈夫じゃないが、貴方の顔に驚きましたとも言えず、一応そう返した。
「何か用?」
「これ……」
尋ねる彼に、籐籠を差し出す。ふぅん、と受け取り蓋を開け、中を一瞥してからディルクはそれを部屋の中に持って入る。テーブルの上に置いた後、再び扉まで戻って、
「まだ何か?」
と、聞いてきた。てっきり中へ誘われるものとばかり思って、彼が食べる姿を見届ける気でいたラシェルは肩透かしを食らう。
「いえ、別に……」
「だったら、どいてくれる? トイレ行きたいんだけど」
ラシェルは庭にあるコテージで一人、音を立てて紅茶を啜った。誰がどう見ても下品な飲み方は、デボラに見つかれば一発レッドカードだが、今は一人だし、この忌々しい気持ちをどう処理すべきか、そちらの方が優先順位は上だった。
これまでの彼――ディルクの態度、物言い、言葉の数々から、彼は相当マイペースで、デリカシーのない男だという事が分かった。
罪悪感とか病人への配慮とか、そんなもの一切要らない人だ。
よく言って、前世の中学時代にクラスメイトでいた男子と同じレベル。…………まぁ、庶民の男なんてこんなもんか。
ふぅ、と溜息交じりに紅茶に息を吹きかける。と同時に、偏見などない気でいた自分が、相当貴族社会に毒されていることにも気付かされた。
前世でだって殆ど男子と会話した経験なんてないのだから実際のところはよく分からないけれど、でもやっぱり、こんなものだったんじゃないかなと苦笑する。良くも悪くも、彼は普通ということだ。ぶっきらぼうで、女の子の扱いも知らない、男の子はいつまでも少年だと言われる典型のようなタイプ。学院にいる時みたいに、変に気を張って背伸びしなくていい分、気楽といえば気楽かもしれない。
そう考えることにしたら、腹立たしさも自然と落ち着いた。
気持ちを切り替えて、一口サイズに切り分けられたフルーツサンドを口に運ぶ。
「ん~、美味しい。ジータはやっぱり料理上手よね」
イチゴとキウィの酸味と、甘い生クリームとのバランスが絶妙で、思わずそう零す。至福のひと時を味わいながら、しかし次の瞬間、口元から胸元に落ちたクリームを拭こうと俯き目にした自らの三段腹に、現実を突きつけられる。
自分のことを棚に上げ、散々ディルクを悪しざまに心の中で貶してきたが、そろそろダイエットを再開させないとヤバい。
馬術部の先輩とともに丸々二ヶ月取り組んできたシゴキのダイエットメニューだが、期待外れというか予想通りというか、ラシェルの体は旧態依然として球体だった。
体力は、付いたと思う。特に持久力。馬場の外回りを五周ランニングするくらいなら、息が切れることもなくなった。腹筋やスクワットも、十五回くらいまでなら難なくできる。が、もともと太り過ぎのため、この程度では変動なしも同然だった。夏休み前、一学期最後の部活では週刊少年誌読んでハナクソ飛ばしながら「痩せねーな。オラ、もう一周走って来い」と先輩に檄を飛ばされたことを思い出す。あ、貴族でも小3男子いたわ、ここに。
早々にティータイムを切り上げたラシェルは、軽装に着替えて準備運動した後、軽く庭をジョギングする。走りながら、うちにも馬がいたことを思い出して厩舎に向かうことにした。
「お嬢、どうしました?」
厩舎に着くと、世話係のピートに声を掛けられる。
「えっと、……何て言うか。ちょっと、乗ってみたいなー、なんて」
えへへ、と頭を掻いて見せるラシェルに、ピートが目を剥く。
「えっ!? お嬢、乗馬の経験ありましたっけ?」
「ない。……んだけど、馬術部に入ったから、休み中はウチで練習できないかなと思って」
「部に入ってるのに、馬に乗ったことないんですか?」
的を射た質問だが、何だか心抉られる。
ニコニコと目だけ笑って、自分の三段腹を摩っていたら、ピートが察したようにビクッと肩を震わせ、口を噤んだ。
まぁ、ウチの馬を潰して使い物にならなくさせてもいけないので、せめてもう少し痩せてから再度挑戦することにしよう。
夜は、夜食に野菜を小さく刻んで少量のもち麦と一緒に煮たトマトスープをジータと作り、再び離れに持って行った。部屋をノックする前、廊下に出されていた籐籠に気づいて中を覗き見る。ジュースを入れていたカップだけ空で、サンドイッチはそのまま残っていた。
ジュース、飲んでくれたんだ……。
リベンジ成功とばかりに、クツクツと肩を揺らす。
ふいに扉が開いて、ディルクが出て来た。
「あ、ごめんなさい。トイレ?」
手洗いへ行くのに、また道を塞いではいけないと身を躱す。
「いや、違う。……気配がしたから」
今度はトイレじゃないのか。気配って、私そんなに足音させて歩いてたかな。
身体が重い分、普通の人より足音も大きいのかもしれない。今度から気を付けようと心に誓いつつ、手にしていたトレイを差し出した。
「良かったら、夜食にどうぞ。今度はちゃんとジータに教わって作ったから、今朝みたいな出来じゃないと思うわ」
「また君が、作ったのか?」
トレイを受け取りながら、ディルクがラシェルの包帯だらけの指を見て尋ねる。
「そうよ。今、言ったでしょう? 悪い?」
何だかバツが悪くなって、トレイを渡すとすかさず両手を後ろに隠した。
「これ、持って帰るから」
気恥ずかしさにすぐさま踵を返し、籐籠を手に取って逃げるように離れを後にした。
ぐぉー! 恥ずか死ぬ! だって、仕方ないじゃないか。ラシェルにとっては今日が初挑戦の料理。女としてはダメダメかもしんないが、このホータイは私にとっての勲章じゃいっ!!
女として、料理の一つもできない自分を心から恥じつつ、全力ダッシュでその気持ちを払拭した。