79.開幕②
「ありゃ先客……って、ラシェルちゃん?」
そこで突然、声が掛けられた。
伏せていた顔を上げると、不思議そうにこちらを見つめる人物と目が合う。
「アンリ様……」
「珍しいね。最近、昼は来てなかったのに」
「はい。今日は偶々、時間が出来たので。すぐにお茶、用意しますね」
ラシェルは一旦、この取り留めない思考を打ち切る、良い切欠ができたと席を立つ。
けれど、すかさずアンリがそれを制して「いいんだ」と断った。「今日は寝に来ただけだから」
気分転換にもなると思ったのに、こういう時に限って遠慮される。
彼とはどうにも、タイミングが合わない。
眉を顰めずにはいられない自分に余裕のなさを感じつつも、ラシェルはアンリの言葉に従い腰を下ろした……ところで、思わず目を剥く。
伸びをしながら欠伸を噛み殺すアンリの姿に、そのまま休憩室へ行くものとばかり思っていたら、ラシェルの斜め向かいにある応接用のソファーへと体を転がしたのだ。
「そこで寝るのは、ちょっと……」
落ち着かないのですが、という言葉は呑み込む。
「いいの、いいの。少しの間、仮眠するだけだし」と、やはりラシェルの言葉を自分への気遣いと取った彼が、見当違いの返答をする。「ここでラシェルちゃんの仕事ぶりを見ながら寝たいから」
よく分からない理屈を並べられて閉口するも、これ以上は時間と労力の無駄と諦め、ラシェルは取り敢えず原稿に手を伸ばした。再びタイピング作業に打ち込むけれど、やはり視界の端に嫌でも入る昼寝男の横顔が忌々しくて仕様がない。
そもそもこの男にしても、ゲームでプレイした時の印象とは、やっぱり全然違う気がする。
過去の議事録に目を落としたまま、ラシェルは思った。
以前も違和感を覚えたことがあったけれど、目の前の彼は明け透けで、表裏の差が少ない。もちろん、こんな横柄で不遜なセクハラモンスターでもなかったけれど。
この世界はラシェルが知っているゲームと同じような顔をして、けれどやはり何処か少しずつ異なっているような気がする。
今までは単なる自分の思い過ごしや記憶違いかもとやり過ごしてきたが、ここに来てラシェルは、そのことがとても気になっていた。
もしそうであるならば……と、ラシェルは自分に都合のいい未来を期待しそうになって、しかしすぐさま頭を振る。
たとえそうだとしても、ディルクがリサのことを好きにならないという保証は何処にもない。寧ろ、そうであるならば、ディルクとリサが想いを通じ合わせる未来さえあり得るということになる。
眩暈がした。
ざわざわと胸の奥から悍ましい何かがせり上がってくるような、焦燥感とも吐き気ともつかない妙な嫌悪感が自分の中に湧き上がるのを目を瞑って堪える。
ただでさえ、人の心は移ろい易いもの。
リサと出会い、恋に落ちた途端、彼の世界が一変することだって考えられる。
そうなれば、ラシェルとの婚約を後悔し、領政にかまける時間すら惜しいと感じるようになり、仲間と過ごした日々さえ色褪せてしまうことも、可能性としては否定できない。
『もしも時間を戻せるなら、やり直せるなら、婚約者のあの女よりずっと前に君と出会えていたら……こんな選択、しなかったのに』
ディスプレイに映るディルクの顔が悔し気に歪められ、忌々しげに言い放たれた言葉が、ラシェルの脳裏を掠める。
『絶対に君を選んでいた』
胸の奥が抉られるような痛みに、思わずラシェルは手にしていた原稿を、ぐしゃりと握りしめていた。
彼はまた、リサが自分を選ぶなら『全てを捨ててもいい』と言った。リサとの出会いは『かけがえのないものだった』、唯一の『俺の希望そのものだった』とも。
もしかすると、ディルクがリサと出会ってしまったら、その瞬間から過去も未来も全てひっくるめて、彼の心は全て彼女に奪われてしまうのかも知れない。
であるならば、どんなに足掻こうとも、自分が今までしてきたこと、今しようとしていることは、リサへの気持ち一つで簡単に捨ててしまえる程度の物なのかと打ちのめされる。
一応これでも、彼に見初められたくて、自分に自信をつけたくて、ダイエットやメイクで小手先の小綺麗さは身に付いたと自負している。
けれどリサが、見る者全てを魅了する美貌の持ち主であることは揺るぎようのない真実だ。
だって、取説表紙の煽り文句にも、そう書いてあった。
デビュタントで実際に見た彼女は、輝かんばかりの美貌を誇っていた。
あんな、化け物みたいなハイスペ女性が存在する限り、元デブの自分の頑張りなど、吹けば飛ぶような塵芥ほどのものですらないだろう。
ラシェルは俯き、唇を噛む。
多分、自分は思い上がっていた。
努力が実り、痩せたことでやっと普通の女の子らしいオシャレが出来るようになって、調子に乗っていたのだ。彼が本来持つ優しさを自分だけの特別と、はき違えていた。
タイプライターに掛けた指が、急に鉛のように重く感じる。全身、言いようのない倦怠感に襲われた。
ニーナに促され、ディルクに自分の想いを告白しようと考えていたけれど、それは止めておこうとラシェルは固く心に誓う。受け容れてもらえないのが分かっていて、わざわざ傷つきに行く必要などないと、もう既に心の奥が泣いている。
ラシェルはタイプする手を休め、目の前に鎮座している過去の議事録の山をぼんやりと眺めた。
この、レイラから課された仕事にしても、義務感だけでこなすには、そろそろ限界かもしれない。
燃え尽きる寸前の面持ちで仕事に向き合いながら、また溜息が零れそうになったところで唐突に横から明るく声が掛けられた。




