77.邂逅
その日は突然、訪れた。
つぅ、とラシェルの頬を一筋の涙が伝う。
朝、目が覚めたラシェルはそのまま嗚咽を堪え、自室のベッドで一人、声を殺して泣いた。
昨夜のことだった。
消灯後、自室に戻ったニーナがパジャマに着替え、ラシェルの寝所に潜り込んで来た。
ラシェルの私室は、部屋の隅にある控え室を挟んでニーナの私室と一続きになっている。勿論それぞれに扉を設え、ある程度のプライベートは守られているが、有事の際は勿論のこと、細々とした日常の務めがスムーズに果たせるような造りになっていた。
どうしたのと訊くと、眠れないから付き合ってと、金曜の夜ということもあり、久しぶりのガールズトークに誘われた。
最近、ランドルの店が軌道に乗り始め、会いに行っても仕事が忙しくてあまり構ってもらえないらしい。
ディルクを気に入っていたニーナの父に、自分の価値も認めてもらいたいとランドルが躍起になっているようで、店の経営が順調なのは良いことではあるものの全然婚約者らしい時間を持てないと溜息を零す。
溜まっていた愚痴を一頻り吐き出し、ニーナが淹れてくれたハーブティーも冷め切ったところで、そろそろお開きかという雰囲気の中、不意に彼女に切り出された。
「ねぇ、ラシェル……」
「なぁに?」
「前にも聞いたけど、私、もう一度ラシェルに聞きたいことがあって」
「えっ……」
「二度と訊かないって約束するから、もう一回だけ、質問してもいい?」
ニーナが自分に何を聞きたいのか、全く見当もつかなかったが、真っ直ぐにこちらを見据える彼女にラシェルは頷いた。
「ディルクのこと、どう思ってる……?」
「えっ」
途端、体中の熱が上がり、顔が火照ったように真っ赤になる。
「あ、の……。えと……」
手近にあった枕を掴み、お腹の前に持ってきて、はわわと沸騰する頭を埋めながら抱え込む。
「…………すき……」
抱えた枕に向かって言ったら、くぐもった声が夜の静寂に包まれた部屋に小さく響いた。
「私、ディルクのことが……好き………」
今度は顔を上げ、ニーナの目を見ながら、バクバクと煩い胸の振動に揺れる視界と震える唇で告げる。
突然聞かれたため、心の整理もつかないままに動揺の方が大きく、纏まりのない返事となってしまったが、いつかニーナには、きちんと伝えたいと思っていた。
とはいえ、いざ実際に放ってみれば、あまりの恥ずかしさに心が狼狽える。思わず俯き、ぎゅっと目を瞑って、震える指先で枕を掴んでいたらポンポンと頭を撫でられた。
チラと見上げると、優しい眼差しでこちらを見つめるニーナと目が合う。
「ごめんね。急に、こんなこと聞いて」
「ううん。私こそ、鈍感と言うか……自覚したのも、本当に最近で」
「そっか……」
「けど色々考えてみたら、多分、かなり前から好き……だったんだと思う」
「うん……」
一気に思いの丈を話して、それからラシェルは熱の篭った溜め息を吐いた。
いつの間に、…………一体、いつから。
自分はこんなにも、彼のことを好きになっていたのだろう。
そんなことを考えていたら、何処かくすぐったいような気恥ずかしさを覚え、ラシェルは再び目線を下に落とす。
この気持ちに線引きは難しいけれど、きっかけは、多分あれだとラシェルは思った。
一番初めに作った料理、ドロドロの失敗作。
それを彼は、美味しいと言って食べてくれた。
本当かどうか分からないし、あれは確かに酷い出来だったけれど、今までで一番ラシェルが時間をかけ、間違いなく一番苦労して作った物だった。
不器用ながらも、一生懸命頑張ったことが無駄ではなかったと思った瞬間、種のようなものが自分の中で芽吹いた気がした。
その後、何度も踏まれ、枯れそうになった時もあったけれど、その度に諦めたくないと思ったのも確かだった。それは多分、単純に、そんな苦い思いを凌いで余りあるくらい、ディルクと一緒に過ごす時間が楽しかったからだと思う。
ぶっきらぼうだけど率直で、真っ直ぐに一人の人間として向き合ってくれたことが、何より嬉しかった。
彼の経歴とか見た目とかそういうことではなく、彼自身のことをもっと知りたいと思った。
もっと話したい。声を聴きたい。
一緒に笑い、腕によりをかけて作るから、一緒にごはんを食べて、ワクワクするようなことをもっと沢山、一緒にチャレンジしたい。
そう思った。
ダイエットにあれだけ自分が固執した本当の理由も、今なら分かる気がする。
少しでもディルクの理想に近付いて、将来、一人の女性としてきちんと彼に見初められたかった。
彼の、本当のお嫁さんになりたかった。
もっと自分を見てほしい。
出来ればその手に、その指に触れたい。そして髪を梳き、頬を撫でて欲しい。抱き締めて、唇を寄せ、もっと、もっと……恋人として、触れられたい。
次々と溢れ出る想いを、気付けば全て、ニーナに話していた。
それを彼女は、ただじっと、穏やかな表情で聞いてくれる。
「アイツは本当に、こんなにもラシェルに想われて幸せ者ね」
よしよしとラシェルの頭を撫でながら、苦笑交じりにニーナが零す。
「そう……かしら…………?」
「そうよ。あんなヤツでも一応幼馴染だから、これでも心配してたのよ?」
ま、アイツからしたら余計なお世話だって嫌な顔されそうだけどねと苦笑いして肩を竦める。
「ラシェルには悪いけど、あんな不細工で偏屈な幼馴染、絶対一生独り身だと思ってたから」
「そんなことないわ。顔だって、最初は正直、ちょっと怖いなって思ってたけど、今は、その……すごく私好みっていうか……、カッコ良いと思うし」
「そうかなぁ……?」
言いながら顔が熱くなるのを感じるラシェルとは対称的に、ニーナはちょっと怪訝な表情を見せてから、まぁ、人の好みは千差万別っていうしねと返す。
これは後で、ディルクが如何に将来有望な顔立ちをしているかを説いて聞かせねば、という使命感に燃えたところで、何よりとニーナが続けた。
「何よりラシェル、うちの幼馴染みのこと……こんなにも好きになってくれて、本当にありがとう」
ラシェルの気持ちを聞いたからには、私もそろそろ腹を括らなきゃね、と最後にニーナが小さく零す。
「えっ……」
「何でもないわ、気にしないで」
ベッドから降り、二人分の空になったカップを手にラシェルを顧みて力なく彼女が微笑む。その表情は何処か意味深にも思えたが、彼女の雰囲気から今はまだ訊く時ではないと感じて、おやすみなさいとラシェルは返すに留めた。
その晩、ラシェルは遠く懐かしい夢を見た。
それは前世の記憶、思い出の一場面だったのかもしれない。
けれど夢の中で、ラシェルはリサだった。
きっとラシェルの前世である里沙が、小学生の頃に『天蓋の虹』をプレイしていた時の記憶だろう。幼さ故に、当時はまだ架空の世界との親和性が高く、主人公のリサになりきってプレイしていた。
そのリサが、学院に編入学したての頃、まだ右も左も分からず不安を抱えていた時に、折に触れて優しく声をかけてくれるクラスメイトの男の子がいた。
「格技場なら、あっちだよ」
「第二王子を探してるの? そういえば、さっき校庭の方へ行く姿を見かけたけど……」
「今度のグループワーク、良かったら俺たちと一緒に組まない?」
外見は黒髪に細面で、長い前髪に隠れて瞳が描かれないという、地味なサポートキャラ。
そうだ。
出会いは確か、王子殿下からの誘いを断って街へ散策に出掛けた時。
つい、好奇心から路地裏にある露店商を周っていたらゴロツキに絡まれ、そこをたまたま通りかかった彼に救ってもらったんだった。
なんでも友人の店が近くにあるとかで、その帰りに学園で見かけた顔が裏路地へ入るのを見て、心配して見守ってくれていたんだと。
そこから顔見知りになって、以後も色々と助けてもらっていた。
あの頃の私は、彼と過ごす時間の居心地が良くて、とても好きだった。
興味がなければスルーすることだって出来たものの、好んで彼と遭遇しそうな場所やイベントを選んでは足を運んだ。
「やっぱり、疲れた時は甘いモノに限るわ」
「ホント、君はここのクッキー、好きだよね」
「ええ、独特のハーブの香りが病みつきになるの」
「アウローテでは見ないけど、俺の母国では有名な香草なんだ。多すぎても少なすぎてもマズいから、配合が難しいらしい」
「これ、前に言ってた、あなたの友人のお店で作ってるのよね?」
「ああ。こんなもので良ければ、いくらでもまた買って来てあげるよ」
「ありがとう。けど友達にもあげたいから、是非お店を紹介して欲しいな」
ふふ、と笑っておねだりする。
いつものように、学院の中庭にあるベンチで彼と何気ない会話に興じていた。
そんな時だった。
「おーい」
友人に呼ばれた彼が、後ろを振り返る。
「そんなところで油売ってないで、教室に戻った方がいいぞ。お前んトコのお嬢さんが、またお呼びだってさ」
「分かった、すぐ行く。教えてくれて、ありがとう」
バツの悪そうな表情を浮かべてから立ち上がり、彼は後ろ頭を掻くと、ごめんと言って謝った。
「あの『お嬢さん』っていうの……俺の婚約者なんだ」
リサも彼に倣い立ち上がったところで、えっ、と目を向ける。
「といっても親同士が勝手に決めたフィアンセで、向こうの身分が上だから、俺が逆らえないのをいいことに、こうして彼女のワガママに気安く使われてばっかだけど」
苦笑いする彼に対し、首を横に振って返す。
「そんな……。でも、婚約者がいる殿方とこうして二人きりでいるのは良くなかったわよね。こちらこそごめんなさい、配慮が足りなくて……」
「いや、それはいいんだ。親が決めた政略結婚で、お互い干渉せずにいようっていう、割り切った仲だし」
慌てて彼が内情を話す。
内容が内容だけに、どう切り返したらいいか戸惑っていたら、けど、と表情を変えて彼が呟いた。
「……もしも時間を戻せるなら、やり直せるなら、婚約者のあの女よりずっと前に君と出会えていたら……こんな選択、しなかったのに。絶対に君を選んでいた」
心底、悔しげな声を絞り出しながら目を落とす。
まるでプロポーズのような告白をする彼に、思わず呆然とした。
決して、嫌な感情からというわけではない。
嬉しいという気持ちが、沸き起こってしまったから。
けれど、リサには第二王子という心に決めた人がいる。
彼の言葉を借りるなら、里沙自身もまた王子に会う以前に彼と出会えていたらと、思わずにはいられなかった。
しかして現実は、容赦なく若者たちを引き裂く。
リサは既にこの時、多くの大人も巻き込んで第二王子の婚約者最有力候補に上がっていたし、彼もまた、親に逆らい婚約破棄などできる立場ではない。
子どもたちの力だけではどうしようにもできない現実を突きつけられ、二人はその場に立ち尽くす。
「……なんて、今さら言ったところで、何もかも手遅れだよな。ごめん、変なこと言って」
気弱な笑みを浮かべ、じゃあと踵を返す彼の背中を見て、リサは咄嗟に手を伸ばした。
「待って、ディルク君……!」
引き留めるも、その声を聞き入れてもらえないまま、彼は急ぎ足で友人の元へ……婚約者の元へと立ち去ってしまう。
そして瞬き程の間もなく、場面はいきなり卒業式当日の誰もいない校舎裏、リサとディルクの二人、別れを惜しむシーンへ飛んだ。
胸のあたりを掻きむしる仕草で、苦痛に表情を歪めたディルクが真剣な目で訴える。
「もしも君が俺を選んでくれるなら、何もかも……俺は全てを捨ててもいい」
その瞳は苦しみに満ちた、痛切な色を滲ませていた。
「……けどこれが、叶わぬ願いだということは分かってる。第二王子の隣にいることが、君にとって最善だということも」
「ごめんなさい……」
「ううん、謝らないで。ただ、許されるなら、これだけは信じてほしい。俺にとって君との出会いは、かけがえのないものだったということを」
俯けていた顔を上げて、彼が微笑む。
「今までずっと、ありがとう。君はこの暗い学院生活に光を与えてくれた唯一つの、俺の希望そのものだった――――……」
そこでゆっくりと、ラシェルは泣き濡れた瞳を開ける。
――――――貴方、こんなところにいたのね…………ディルク。
朝の眩しい光に包まれ、ラシェルは徐に重たい半身を起こして項垂れる。
――――――――見つけた。……見つけて、しまった…………。
はたはたと、頬から零れた雫がシーツに染みを作る。
気付けばいつの間にか、ボロボロとラシェルは涙を流して泣いていた。
思い出した……ラシェルは、思い出してしまったと、溢れる涙を手の甲で拭う。
そう。
ディルク・ウェーバーとは、リサに片思いする…………隠しキャラの一人だったのだ。
どうして、と両手で顔を覆わずにはいられなかった。
どうしてこのタイミングで、どうして今更……!
とめどなく流れ落ちる涙を、何度も、何度も拭って泣きじゃくる。
やっと……やっと自分の想いと正直に向き合って、この恋心を確信できたのに。幸せな結婚を、現実のものに出来るかもと喜んだのに。なのに何故。その次の日の朝には、これが叶わぬ恋と知ってしまうだなんて……。
再びベッドに身を投げて、止めどなく溢れる涙はそのままに、声を殺して嗚咽する。
心のまま大声で泣いたら、きっとニーナに気付かれると思ったから。
今、泣き叫べば朝の支度に忙しい手を止めてでも、ニーナは飛んできてくれるだろう。なのに理由は話せない。前世のゲームで……なんて奇天烈なこと、不器用な自分には、とてもじゃないけど上手く説明するなんて出来ない。そうなれば、ただただ泣きじゃくることしか出来ない。あんなにも自分の恋を応援してくれた親友を、困らせることしか出来ない。
それが分かるから、ニーナに気取られてはいけないと思った。
ラシェルはベッドの中で、溺れるように咽び泣く。
泣いて泣いて、ただただ泣いた。
一頻り泣いた後は気を取り直し、ラシェルは腫れぼったい瞼をメイクで隠す。
それに気付いたニーナには、寝不足と偽り、何食わぬ顔で登校した。




