76.お目覚め➁
「あれ? 二人、居たの?」
休憩室を出て、クロードと執務室へ向かうと、もういつものメンバーが揃っていた。
「ああ。ちょっと向こうで、ラシェルと打ち合わせを」
「ふぅん。向こうって、休憩室?」
アルフレッドが珍しく突っ込む。
「そうですが……」
「電気が点いてなかったから、誰もいないと思ってた」
そう言われて初めて、ラシェルはすぐに出るからと電気を付けず部屋へ入ったのを思い出した。途中で目が慣れたためカーテンも開けず、薄暗いままでいたことに気付き、令嬢としての嗜みとは、と青ざめる。
だが当のクロードは気にする様子もなく、アルフレッドも「目が悪くなるから節電とか気にせず、電気くらい付けなよ~」と笑いながらバスバス背中を叩いて遣り過ごしてくれたので、ラシェルはホッと胸を撫で下ろした。背中はしこたま痛かったけど。
「そうだ、俺も来学期の体育祭のことで、ちょうどクロードに訊きたいことがあったんだった……」
言いながら資料を開くアルフレッドに呼ばれたクロードが、ラシェルに背を向ける。
ふと見上げた彼の襟元からタイが覗いているのに気付き、クロード様、とラシェルは呼び止めた。
「何だ?」
「少し屈んでいただけますか。後ろ襟から少しタイが見えてますので……」
「すまない」
暗がりで分からなかったが、寝ている時に乱れたのかもと思いつつ直してあげると、クロードはラシェルにはにかんだ笑みを浮かべてから、再びアルフレッドの元へ向かう。ラシェルも持っていたファイルをデスクに置き、お茶の用意をするため給湯室へ踵を返したところで不意に後ろから手首を掴まれた。
「あ、アンリ様……?」
「一緒に、お茶の準備しよう?」
何故かちょっと迫力のある笑みで、小首を傾げながらアンリがラシェルを窺う。
「お茶の準備、しよう?」
もう一度同じ事を口にして、ずい、と今度は覆い被さるように詰め寄られた。
「は、はい……」
その凄みのある笑顔に抗う術もなく、ラシェルは彼と共に給湯室へ向かうことにする。
このところ、何故かアンリは矢鱈とラシェルのことを構うようになっていた。
今までは人を顎で使うことしか考えてなかったような彼が、こうして率先してお茶の用意を手伝うと言ってきたり、タイプライターの用紙が少なくなったのを見て補充しようか、とか、肩が凝ってるならマッサージするよ、等。何かにつけてラシェルに絡んで来る。
ゲームファンからワンコの称号を授かっているだけあって、生来持ち合わせている他人への細かな気遣いや、用紙の補給はラシェルが苦手としていることなので助かってはいるのだが、何処か胡散臭いと言うか。これまでのラシェルに対する彼の言動から、全く信用出来ない。
とはいえ、やはり立場上あからさまに無碍にも出来ず、侯爵令息の気まぐれに付き合っているという感じだ。
今も湯を沸かそうと、ケトルを火にかけたところで手を取られる。そのまま後ろから、ラシェルの身体を包み込むように回り込まれた。
「あの……」
「うん?」
ラシェルの背中と、彼の胸がほんの数センチという、体温が伝わりそうな距離にある。
頭の上から息を吹き掛けるように、「なぁに」と猫撫で声で聞き返された。
ワンコキャラなのに猫撫で声って、犬なのか猫なのかハッキリしてほしい……なんて馬鹿なことを考えている間にも、アンリは左腕をラシェルの腰に回してガスの火を止める。
ホールドされたような体勢に、ラシェルは抗議の声を上げた。
「これでは、お茶の用意が出来ないのですが……」
「うん」
「いや、あの。『うん』じゃなくて……!」
勢いのまま振り向こうとしたら、バランスを崩して転けそうになった。
それを、「危ないなぁ」と抱き留めてアンリが笑う。
「かっ、からかわないで下さい」
「からかってなんかないよ。最近暑いから、冷蔵庫にアイスティーを用意しておいたんだ。こうすれば、ラシェルちゃんも楽だろ?」
えっ、と思いながら冷蔵庫を開けると、確かに紅茶ポットが入っていた。
「あ……、ありがとうございます」
ありがたいけど、だったら最初から言ってほしい。
とはいえ相変わらずの、この気の回しようには勝てないなという気持ちで、何となく意見しづらくなった。
抱きかかえられた時からずっと密着しっぱなしの体勢も、どう言って離れてもらおうか思案する。
が、すぐに面倒くさくなって、取り敢えずこのままの姿勢でも出来ることはあるなと、カップやお茶請け等の用意を進めることにした。
抵抗を諦めたラシェルに満足したのか、アンリが楽しそうに鼻歌交じりでラシェルの髪を弄りだす。
まぁ、髪くらいいいやと、以前クロードに触らせたこともあるため気にせず引き出しからティースプーンを人数分取り出し、トレイに並べた。
横髪は纏めているが、結わずにそのまま流していたラシェルの後ろ髪にアンリが指を差し込み、そっと肩口へ梳く。
項に空気が触れ、ひやっとしたと思った瞬間、「んっ?!」という彼の声がラシェルの耳に入った。と同時に、胸元の第一ボタンと第二ボタンが鮮やかな手口であっという間に外される。
「ひゃっ?! ぇっ、え……っ?!」
突然のことでパニックを起こし、恥ずかしさにラシェルが胸元を手で覆ったら、今度はアンリに後ろから襟元を引っ張り上げられた。
ぐえっ、というカエルが潰れたような声が思わず出る。
幸い、すぐ解放されたが、その場にへたり込んでラシェルはゲホゲホと咳き込んだ。突然、圧迫された喉が焼け付くように痛い。
殺す気か、と涙交じりの目を向けたら
「…………あンの、ムッツリ童貞スケベ野郎が……ッ!」
何処からそんな声が、というほどドスの効いた低い声で顔面蒼白にアンリが呟いた。そのままドスドスと音を立てて執務室へ戻る。
何なんだ、いったい……?
一言言ってやろうと思っていたラシェルだが、彼の様子に毒気を抜かれてしまい、言葉を失う。
「兄さん、ちょっと!!」
暗い表情から一転して、アンリは烈火の如く激昂し、兄を呼びつけた。
着崩れていた服を直し、ラシェルも遅れて執務室へ行くと、弟のただ事でない剣幕に気圧された様のクロードが、廊下へ連行されているところだった。
扉を閉められ、廊下側から小競り合いのような押し問答が聞こえるも、細かいところまでは聞き取れない。
一体全体、何なんだ?
そう思いつつ、けれど他のメンバーが「またいつもの兄弟喧嘩が始まったか」くらいにしか取り合っていない様子から、ラシェルもこれ以上立ち入るのは止めることにした。
気にならなくもないが、薮蛇な気がする。
あの、気難しい兄弟のこと。血の繋がった者同士にしか分からない世界もあるのだろう。
それに巻き込まれたこっちは、いい迷惑だ。これ以上は御免被る。
取り敢えず途中止めになっていたお茶の用意に再び取りかかることにして、ラシェルは給湯室へそそくさと逃げ戻った。




