54.箸とタイプライター
自宅に戻り、早速倉庫を漁っていたら「こんな所にいたのか」と欠伸をしながらディルクが顔を覗かせた。
「今、お目覚め?」
「ああ……」
夜に弱いラシェルは午前様を迎えたところで帰宅したが、ディルクはあの後も友人たちと飲み明かし、カフェでそのまま朝食まで彼らと済ませて帰って来た。
「ねぇ、このタイプライター、私が使ってもいいかしら?」
「ん……前も言ったが、其処に眠ってるものは好きに使ってくれて構わない」
また一つ、欠伸を噛み殺しながらディルクが言う。まだ眠そうに目を擦る彼に、ありがとうと返して奥に転がっていたロール紙も拾い上げた。
「それ、大きさの割に重いだろ。インクの補充もして、すぐ使えるようにしてやるから代わりに何か軽く食べる物でも作ってくれないか?」
いつの間にか傍に来て、ラシェルの手からロール紙を奪うと反対の手にタイプライターを担ぎ、ラシェルの部屋へ向かう。
私、まだ返事してないんだけどなと思いつつも、寝起きのディルクらしい少しボケた様子に一人苦笑を漏らしてラシェルも倉庫を後にした。
厨房に入ると、ちょうどこれから夕食の準備に取り掛かるところだったらしく、ラシェルは使用人たちに声をかけて今夜は自分とディルク二人の量をいつもより控えてもらうよう頼む。
それから自分専用のキッチンに立ち、さて何を作ろうかと頭にメニューを巡らせた。制服の上に着るときは前掛けだが、今は私服なのでエプロンを手に取る。髪を後ろで一つに束ねながら、今日借りて来たレシピ本におぼろ豆腐があったなと思い付いた。小振りな土鍋が目の端に留まり、よしと頷く。
先日、イネス港にカイルラスからの定期船、第一便が就航した。
カイルラスの首都にヤーランドのアンテナショップを置く店主はサービス精神旺盛で、前回も鰹節削り器や干油揚げの試食を入れてくれていたが、それに対するお礼文に次回から油揚げの定期購入とジータが使えるようにもう一つ鰹節削り器の追加購入をお願いしたら、今度はこの土鍋と梅干の試食が同梱されてきた。そのうえ記念にと、夫婦茶碗と箸を二膳も贈ってくれている。
さらにミョウガの球根と栽培方法が書かれたメモも入っていて、配送用の木箱をそのままプランター代わりに早速植えてみた。上手くいけば来年から収穫出来るそうなので、こちらはその日が来るのを楽しみに待とうと思う。
にがりは両親が王都に着いたその日に、ジータからの預かりものと母の侍女から手渡されていた。以前ラシェルが作ったのを覚えていたらしく、ヤーランドの調味料が手に入ったことで、それを豆腐にかけて前菜で出したら両親共に甚くお気に召したとのこと。以来、ジータも頻繁に豆腐作りをするようになったらしい。味が淡白でアレンジもきくと重宝しているようだ。ラシェルの方も、王都の擁する湾は小さく船舶の出入りが激しいため、排水で汚染されていることから身近ににがりを手に入れることが困難だったので、このお土産は嬉しかった。
「まずは、ご飯かな」
腕まくりして、調理に取り掛かる。
あまり時間もかけられないので、まずは小鍋に少量の水を入れて火にかけ、ぬるま湯を作った。次に米を研いで、その作ったぬるま湯に浸す。食器類と調理器具の用意を整えてから、ご飯を仕掛けた。その間を利用して、薬味を採りに行く。厨房の勝手口を出たところに料理長がハーブ畑を作っているが、流石に浅葱はないので代わりにチャイブを失敬することにした。キッチンに戻ったところで、ご飯を炊く鍋から勢いよく吹き出す湯気を見て弱火にする。チャイブを軽く洗ったら細かく刻んで小皿に取り分け、次は梅鰹を作ろうと種を取った梅干と鰹節を合わせて包丁で叩いた。あと、本ワサビはないけれどホースラディッシュで代用しようと思い付く。旬は過ぎているが、厨房の大型冷凍庫に保存用のものを見つけていたので少し分けて貰っていた。凍ったまま摩り下ろして、それも小皿に移す。小振りなマグカップサイズでガラス製のピッチャーに鰹節と昆布を一片入れたらそこに醤油を注ぎ、出汁醤油を作った。絞ったレモン果汁も添え、好みでポン酢風にしても食べられるようにする。さらにカウンターの隅で寝かせておいた糠床を引っ張り出し、掘り起こした中から糠漬け第一号となる蕪を取り出した。以前から精米時に出る糠が勿体ないと思っていたところに昆布が手に入ったことで、ヤーランドのレシピ本を片手にラシェルは先日から糠床作りに挑戦していた。ちょうどタイミングよく、蓋と取っ手付きの壺を料理長から貰い受けていたこともあり、それを甕の代わりに使ってみた。捨て漬けを終え、昨日の朝から蕪を漬けているため、そろそろ食べ頃ではあると思うが、何せ初挑戦の代物なので恐々味見する。
「良かった、ちゃんと糠漬けだ……!」
くふふと成功の味に笑みを零し、スライスして皿に並べる。葉の部分も同時に漬けていたので、こちらも刻んで一緒に付けた。
二口コンロの使ってない方で海苔を軽く焙り、梅干しが入っていた容器の底に少し溜まっていた梅酢は別皿に取る。ちょうどそこでご飯が炊けたので、最後に強火でおこげを作って火から降ろした。代わりに今度は土鍋に豆乳を注ぎ入れ、火にかける。必要な時にすぐ使えるよう、届いたその日に目止めを済ませておいて良かったと振り返りつつ、時折ゆっくりと木べらで豆乳を掻き混ぜた。周りが小さく沸々としてきたところで火を止め、にがりを混ぜ入れたら完成だ。蓋をして、料理長から借りたワゴンへ作った料理を次々に載せ、ディルクが作業している私室まで押す。
「どう? タイプライター、使えそう?」
ドアが開け放たれていたので、そのまま部屋に運び込む。中に入ると、ディルクがまだ工具を片手にタイプライターと睨めっこしていた。
「旨そうだな。……こっちも、もう少しで終わるから」
ラシェルが作ってきた料理を一瞥して言うと、再び手元に目を移す。
ローテーブルにラシェルが配膳したところで、ディルクも作業が終わった。
手を洗い、ソファーに腰を下ろして祈りを捧げ、二人で食事を摂ることにする。
ラシェルは土鍋の蓋を開け、取分け用のスプーンでおぼろ豆腐を掬うと、まずは出汁醤油とチャイブをかけてディルクに渡した。
「お好みで、この出汁醤油かポン酢で食べてみて。あと、他の薬味もあるから。口に合うといいんだけど……」
ラシェルから小鉢を受け取ると、香りを確かめて徐に口に運ぶ。
「うまっ……」
二日酔いの身体に染みると、オッサンみたいなことを口にしてディルクが掻き込む。一杯目をペロリと平らげ、次は何を試してみようかと楽しそうに薬味を選ぶディルクを横目に、ラシェルは別にしていたフィンガーボールで軽く手を濡らしてからおにぎり作りに取り掛かった。梅酢を掌に小量取り、炊きたてのご飯に手古摺りつつ握っては挟むように海苔で包んで皿に載せていく。出来た端からディルクが頬張り、「いつもと味が、ちょっと違う気がする」と気付いた。
「分かる? 梅酢で握ってるから、酸味でお米の甘みが引き立つの」
「この、鰹と和えてる赤いのがそうか?」
「うん。梅干しといって、かなり酸味が強いけど……食べられそう?」
「ああ、さっき食べた。食が進んでいい」
和食を作るようになって、よっぽど好みに合ったのかディルクの食べようが更に増した。思わず彼の食べっぷりに見惚れていたら、ラシェルは食べないのかと促される。
「ぅん……、これだけ勢いよく食べて貰えたら、作り手冥利に尽きるなと思って」
言いながらディルクの頬に手を伸ばし、付いていたご飯粒を摘まんで自分の口に運んだ。
じゃあ、私も頂こうかなと、つい蘇った習慣で手を合わせ、いただきますして箸を手に取る。視線を感じて顔を上げると、顔を赤らめてぼんやりこちらを眺めるディルクと目が合った。なぁに、と幸せな気持ちそのままに訊いたらハッと目を逸らされ、更に頬を紅く染めたディルクにラシェルが使う箸を指して尋ねられる。
「それ……ハシって言うんだっけ。俺も使えるようになりたいなと思って……」
何となく話題を逸らされたような、どこか言い訳じみたディルクの言葉に首を傾げながらも一緒に練習してみようかとラシェルは提案した。
「いいのか……?」
「もちろん」
自分とディルクの間柄で、何を遠慮する必要があるのかとラシェルは手にしていた自分の箸を彼に渡し、席を立った。ディルクの背後へ回り、二人羽織するようにソファーの後ろから彼の手を取る。
こんな風に手取り足取りきちんと教えられるのも、痩せたからだよなぁと心の中で喜びを噛み締めた。太ったままだったら、お腹の贅肉が邪魔してこの体勢では全然手が届かなかったと思う。普通って素晴らしいとしみじみ悦に入っていたら、握り方はこれでいいかと尋ねられた。
「近いけど、ちょっと違うかな。まず一本で、ペンの持ち方をしてみて」
箸を一本、ディルクの手から抜いて持ち直してもらう。
「こうか?」
「そう。で、二本目をこの辺に挿し込んで……」
痩せて身動きがとりやすくなったとはいえ、そもそもの体格差から、ディルクの長い腕に合わせようとすると、もうちょっと足りなかった。彼の背中に自身を押し付けても、まだ足りず時折空を掻く。さらに密着させたらディルクが驚き、ラシェルを振り向いたところで彼の頬とラシェルの頬がむぎゅっとぶつかった。
「ごっ……ごめんなさ……」
「いやっ、俺の方こそスマン……」
あわやキスする寸でのところで回避し、事なきを得たことに安堵するも、ぶつかった拍子でお互い僅かに開いた唇から吐息を食み合うところまで行っていたことに心臓が早鐘を打つ。
自分は平気だが、ディルクは気持ち悪い思いをしていないかと半分、顔を蒼褪めさせて彼を窺った。
ディルクはそれに気付いてか否か、ラシェルの目を避けるように顔を背ける。お、怒ってるのかな……?
取り敢えず気を取り直し、何事もなかったかのように三人掛けソファーに座るディルクの隣へと改めて腰掛け、ラシェルは続けることにした。
「えっと……、先端を揃えたら、親指と人差し指でつまむように持つんだけど、コツとしては親指で押さえて中指で下から支える感じかな……?」
あくまで先のことはアクシデントと割り切り、箸とディルクの右手に自分の手を添える。
「こ、こうか……?」
彼も気持ちを切り替え、自分から言い出したことでもあるためか教わることに集中する。
「そう。あとは親指の腹辺りを支点に、中指を使って物を挟む形で使うんだけど……」
飲み込みの早いディルクは、何度か練習しただけで使い方を覚えてしまった。大人になると習得は難しいイメージだったが、出来る人間は何でも出来るんだなと感心する。次からはディルクの箸も用意しよう。
多少のハプニングはあったものの、ラシェルも自分の膳の前に座り直して、食事に戻った。
「これは……?」
今しがた使い方を覚えた箸で器用に蕪を摘まみ上げて、ラシェルに尋ねる。
「蕪の糠漬けっていう漬け物なんだけど……酸味の少ないピクルスって感じかな……?」
上手い表現方法が見つからず、曖昧な説明にも拘わらずディルクはラシェルが言い終わるのを待たず口に入れた。
「匂いが独特だから、苦手な人も多いかも……」
「いや、美味しい……!」
シャクシャクと歯触りの良い音をさせて、二切れ目を口に入れる。おにぎりを頬張り、一緒に付けていた葉の部分にも箸を伸ばす。
ペースを落とすことなく食べ続ける彼に、ラシェルも嬉しくなって、つい顔を綻ばせた。食べ物の趣味が合うことは、長く関係を保つには欠かせないと思うので、これからも彼を怒らせるようなことをしたら食べ物で釣ろうとほくそえむ。
食後のほうじ茶を二人で飲みながら、そうだとラシェルが思い出してディルクに話した。
「新しく交易が始まった件で相談なんだけど、イネスの検疫を強化できないかしら」
「検疫?」
「分からないけど、フィリドールは今まで新大陸との交流がなかったでしょう? 例えば、向こう独自の風土病とか感染症があった場合、免疫がない分、こちらで猛威を奮う可能性があるんじゃないかって」
「アウトブレイクか……」
「その点、レオノキアはカイルラスとの交流も長いから、何か情報があると思ったんだけど、どうかしら」
「調べてはみるが……逆にウチは建国前から密接に関わって来ているから、デュランの方が相談するには適任かも。ワクチンとか、血清が必要って話だろ?」
「あと出来れば、医師かエキスパートの駐在かな……いざという時、診断がつくと対応もしやすいでしょう? まだ始まったばかりだし、派遣してもらうのは一人でもいいと思うの。その代わり、こちらでの人材育成が出来る人物をお願い出来ないかしら」
「分かった。そっちは当てがないこともないから、動いてみるよ」
「お金がかかることばかり言って、ごめんね……」
「いや、君が言う通り人命には変えられない……のもあるけど、経済効果を考えたら、予防に力を入れるのは効率的でもあるからな」
人道的なことを口にしかけて顔を赤らめ、それを引っ込める辺り彼らしいなとラシェルは笑みを溢す。
「ところで、このタイプライターだが、その件と関係あるのか?」
ラシェルのデスクに置いたそれに目配せして訊く。
「ううん、全くの別件。本を借りるのに、最近仲良くなった司書の方がヤーランドの小説に興味を持たれてたから、私が翻訳を申し出たの」
「男か?」
「いいえ。二十代半ばくらいの女性よ?」
突如として眼光鋭く質され、やや引き気味にどうしてとラシェルが訊くと、ならいいとはぐらかされた。
ディルクは父からラシェルの簡単な身辺警護も任されているから、その為だろうとは思うけれど、果たしてこんな風に過保護にしてもらうだけの価値が自分にあるかどうかは、甚だラシェルの中で疑問だった。




