42.襲撃事件
「どうかしたか?」
「えっ……」
その夜、珍しく勉強を見てほしいとディルクに頼まれ、彼の部屋に二人きりでテキストを広げていた時のことだ。
「ごめん、ちょっとぼんやりして……」
「大丈夫か?」
ラシェルの額に手を添え、熱はなさそうだなと安心した表情を見せる。
放課後、ラシェルは部の休みにかこつけて、ランドルの店に寄り道していた。
仕事の邪魔になるようなら早々に切り上げようとニーナとも話していたが、思いがけず歓迎を受け、喫茶室に通されてその意味を理解する。
何でもローメイヤの職人の引き抜きに成功し、今日はレシピの書き起こしをするため、彼が知り得る限りのスイーツを朝から次々と作っていたのだと言う。勿論、レシピをそのまま他店で流用することは禁じられて辞めて来たため、これらを参考にカラードスピネルではオリジナルのレシピを開発し、年内を目途にメニューの刷新を図る予定にしているらしい。
「うーん、やっぱりクッキーはローメイヤのものね。口の中に入れた途端、解けるように崩れる触感が私、大好きなの」
「このチョコレートドリンクも、甘すぎず上品な苦みでとっても美味しい。こないだディルクにガトーショコラを作ってみたんだけど、チョコレートの質があまり良くなかったのよね。けど、これはすごく美味しい」
心の卑しい人間の嫌味に当てられクサクサしていたが、甘くて美味しいお菓子の数々に癒される。やっぱりスイーツは女子の味方だと、今日だけダイエットをお休みすることにしてラシェルは紅茶マフィンにも手を伸ばし、口いっぱい頬張った。
「いやぁ、助かったよ。新メニュー開発のためにも必要な作業なんだけど、こう次から次へと大量に出来上がっちゃうと、内々じゃ処理しきれなかったから」
厨房からラシェルたちの居る喫茶室へ戻って来るなり、ランドルが弱りきった表情で零す。
「業務用仕様だと、どうしても一回に作る単位が多くなっちゃうものね」
「そう、それなんだ!」
よくぞ分かってくれたと、膝を叩いてランドルがぶちまける。
「職人だから、細かい数字は覚えてないとか言って、全部計量カップとか袋単位で作っちゃうんだよ。バターとか砂糖とか、これでもかってくらい入れちゃうし。どうしてローメイヤの商品が美味しいか、身に染みて良く分かったよ」
肩を落として溜息を吐く。
いつの間にか無言でニーナが彼に胸を貸していた。飄々として見えて、実は打たれ弱いランドルと肝の据わった性格のニーナ。二人は本当に相性がいいと思う。
「ねぇ、いくつか日持ちするものをセットにして、売るのは駄目でも来られたお客さんにお土産として渡すのはどうかしら。今日は私も暇だから、ラッピング作業なら手伝えると思うの」
「それ、いい考えね」
「あと、いくつか貰って帰ってもいい? 前にディルクがローメイヤのお菓子を学校用のお土産に用意してくれたんだけど、わりと気に入ってくれた人が多くて。今度、ローメイヤの職人さんがランドルのお店で働くことになりましたっていう宣伝も兼ねて配ったら、喜ばれると思うの」
「それ、すごく有難い! さすがラシェルちゃん」
持つべきものは貴族の友人だねぇと、先日、ラシェルが彼らギルド仲間に思ったことと同じことを口にするランドルに、思わず笑みが漏れる。
その後、ラシェルは夕食に間に合うギリギリの時間までニーナとラッピング作業に明け暮れた。日持ちが難しい物は、屋敷の使用人に日頃の労いも込めて購入させてほしいと頼んだら、お金は要らないと拒まれた。とはいえかなりの量を持って帰るのに、材料費だけでも相当かかっていることが目に見えてわかる分、全てを甘えることは憚られる。押し問答の末、最終的には実費だけ後からディルクに請求するという形で収まった。
そして、それらをキャリッジに積み込むため、ニーナと店の従業員とで纏めている僅かの隙に、事は起きた。
ラシェルがその間、一人で先に馬車へ乗り込んでおこうとステップに足を掛けた途端、何者かに抱きかかえられ、路地裏に連れ込まれたのだ。口元を手で覆われ、強い力としなやかな動きで、正に一瞬の出来事だった。
「……?! ……ッ!! ……!」
声を上げようにも、顔の半分を掌で覆われているため、息をするのも苦しい。
「お前、ラシェル・デュ・フィリドールだな……?!」
暗がりに、低く潜められた声が響く。
どうして名前を、と見上げた先には、怪盗紳士の出で立ちをした、仮面越しにも分かる美しい相貌の持ち主がいた。
ラシェルは混乱する頭を抱えながらも、素直に頷き返す。
「やっぱり、お前も一枚噛んでいたか」
チッと舌打ちする。一体何のことかと仮面の主をラシェルが食い入るように見つめていると、何処からか微かにニーナの声がした。
「ラシェル様! どちらにいらっしゃいます、ラシェル様ー?!」
さらに声が近付く。もう気付かれたかと、悔しさを滲ませた声で吐き捨てるとラシェルを睨みつけ、美貌のその人は語気を強めて言い放った。
「今はまだ大人しく振舞っているようだが、少しでも妙な真似をしてみろ。お前共々全員始末してやるから、覚悟しておけ」
耳に心地よいテノールが、物騒な捨て台詞を吐いてニーナの声とは真逆の方向へ裏路地を駆け抜ける。
「良かった、ラシェル。ここにいたのね……!」
彼の人が消えるとほぼ同時に、ニーナが駆けつけた。
「ごめんなさい。可愛らしい仔猫を見かけて、追って来たらこんな所まで来てしまったの……」
口から出任せで、ラシェルは咄嗟に誤魔化す。それを聞いて、誰かに攫われた訳ではなかったと、ニーナは表情を和らげた。
「油断禁物よね。本当に、ごめんなさい。もう二度と、外では貴女から目を離さないようにするから」
額に冷や汗を滲ませて本気で心配してくれるニーナに、ラシェルははぐらかしたことへの罪悪感をちょっぴり抱きつつも、頭の中は既に仮面の麗人へと思いを馳せていた。その正体に、覚えがあったのだ。
そう。あれは間違いなく、麗しの怪盗紳士こと――――――リサ・ドゥ・ポーシャールだ。
「これ飲んで、今日はもう寝るか?」
コトリとマグカップをローテーブルに置いて、自らも対面のソファに腰を沈める。心此処に在らずといったラシェルの様子を気遣って、ディルクがハーブティーを淹れてくれた。それを、前に着て来た物と色違いのルームウェアの袖を指先まで伸ばして、ラシェルは両手で包み込むように持ち上げ口を付ける。熱い液体が、身体の芯まで労ってくれるようだった。
「ありがとう。けど、もう大丈夫よ」
ぼんやりと放課後の出来事を振り返っていたが、一口飲んで、ディルクの言葉に今やるべきことを思い出す。
「どれだっけ」
「これ。入学時に貰った法科のテキストなんだが……一学期に習ったと思しき範囲を授業で振り返るたびに、かなりの頻度でテキストと違う内容を読み上げているから、一度ラシェルに聞いておきたくて」
「ああ……こっちは誤植で、ここは法改正があったところだわ。差し替えのプリントを先生が渡しそびれてるのよ、きっと」
「うわぁ、こんなに……。どおりで、同じ教科書を開いているのに、まるで別物のように進めていくはずだ、おかしいと思っていたんだ」
写していいか、と訊くディルクに、膨大よ、と返す。
「明日の一限よね、授業」
「ああ」
「だったら貸すわ。うち、四限だから」
授業が終わったら、ラシェルのクラスまで返しに来てもらうよう頼む。
「悪いな。明日中には差し替え分のプリントをもらっておくから」
言いながら、ラシェルからテキストを受け取るや、一ページ目から捲りつつ、誤植と削除事項は今直しておくかとディルクが独り言つ。
真剣な表情で自分のテキストにペンを入れる彼の姿を見つめながら、ラシェルも深くソファに身体を沈めると、いつの間にか頭の中は再びリサのことに思いを馳せていた。
彼女の基本設定は、こうだ。
辺境伯であるポーシャール家は、長女、次女に続き三女のリサと、男児に恵まれなかった。特に三人目のリサを産んだ後、彼女の母は産後の肥立ちが悪く、危うく亡くなる寸前の状態まで陥ったと言う。四人目を諦める代わりに、父は男の子としてリサを育てた。しかし、リサが二次性徴を迎えたことで、誰よりも美しく嫋やかに育った娘を目の当たりにして父は挫折する。彼は自分の身勝手を反省し、一人の女性としてリサを舞踏会に送り出すことを決め、社交界デビューを果たさせた。
とはいえ、男勝りの気質までが直ちに女性らしく変わるはずはない。学業に興味がなかったリサは、姉二人が暮らす王都の別宅に移るも入学を拒み、義賊として王都の闇を暴いては憂さ晴らしをする日々を過ごすのだった。そして、王都で迎える二度目の春、長女が病に倒れ、次女を不慮の事故で亡くしてしまう。お家存続のためリサは二年次の秋から学院へ編入学するのだが、このなかなかにヘビーな経緯をゲームでは開始時のテロップで軽く流されて説明終了となる。ちなみに、かの出で立ちを見て一目で彼女と判ったのは、学園祭イベントでクラスの出し物がコスプレ喫茶に決まり、男装の麗人を装ったリサの衣装がアレだった為だ。その際に怪盗時代の、という解説が申し訳程度に付いていた。
ゲームにおける主人公の概要はこんなものとして、問題は、何故このタイミングでラシェルに接触して来たかだ。
しかも偶然ではなく、明らかに狙って来ていた。
ラシェルが悪事に加担していることを疑った内容で、場合によっては悪人グループと共に始末するという、身に覚えの全くないことで脅しまで受けてしまった。
何か罷り間違って、自分はまた、己の与り知らないところで彼女の恨みを買うようなことでもしてしまったのだろうか。
もっと言うと、当然のことながらゲーム本編でリサとラシェルが接触する場面はない。ゲームであるため、ある程度選択肢は用意されているが、画面に顔出しする登場人物はモブも含めて全て同梱の説明書に絵付きで紹介されている。そこだけは、情報収集マニアの友人と確認済みなので間違いない。
これだけガッツリ狙われて、本編では塵ほどもニアミスしないなんて違和感がありすぎる、とラシェルは思った。
考えられるのは、未だ始まってもいない物語が、何者かの手によって歪められている、ということだ。
そしてその何者かというのは――――ひょっとすると、自分かもしれない。
冷や汗だらだらに、これまでを振り返る。
前世で読んだSF小説の中には、パラレルワールドや過去の世界にタイムスリップすると、それだけで未来を別物に変えてしまうといった内容の物語が数多くあった。さらに、その世界で好き勝手等しようものなら、それこそ全く違う未来を招いてしまうというアレだ。
とはいえラシェルは本編と殆ど関わりのないキャラクターで、故意にストーリーを捏ね繰り回した記憶もない。が、一点、面倒臭いのを理由に悪役令嬢レイラから距離をとった過去が引っ掛かる。直ちにリシェーラという令嬢が取り巻きに加わり、物語が矯正された印象を受けたが、それも何か良くない予兆だったのか。あと、生徒会長である第二王子のコミュ障っぷりも、引っ掛かると言えば引っ掛かる。
「やっぱり今日、何かあったんじゃないのか」
腕を組み、険しい表情のまままんじりともせず目を瞑るラシェルを訝しんでディルクが声をかけてきた。どこか訳知り顔で訊いてくる彼に、リサとのことを見透かされたかと身構える。しかし、直ぐさまディルクが今日の放課後に係活動を入れていたことを思い出し、ラシェルは落ち着きを取り戻して返した。
「ううん。ちょっと考え事をしてただけだから。気にしないで」
「……」
一瞬、ラシェルが答えに窮したのを見逃さなかったディルクは、持ち前の三白眼をさらに鋭くさせて疑いの目を向けて来る。しかし、深く追及することは止めて、再びテキストに目を落とした。それを見てラシェルがホッと息を吐いたところで、「あんま無理すんなよ」と目を合わせないままに声を掛けられる。
「……ありがとう」
胸の奥が、じんわりと温かくなった。ぶっきらぼうだけど、ディルクには、こういう優しいところがある。
彼の淹れてくれたハーブティーにもう一度口を付けながら、ラシェルは擽ったいような嬉しいような、何とも言えない気持ちになった。
「こうして一日の最後に、ディルクと過ごす時間が持てて、本当に良かった……」
ハーブティーを飲み干すと同時に、不思議と心の内がそのまま形となって口を吐いて出た。一呼吸おいてから、そのことに気付いたラシェルは思わずはにかむように目を瞑る。途端、全身を言い知れぬ倦怠感に包まれた。けれどそれは何処か心地好い疲れでもあり、沈んでいくままにソファへ体を預ける。
だらりと伸ばされた右手の指先から、ごとんと音を立ててマグカップが床に滑り落ちた。
それを耳にしても、身体が重力に逆らえない。微睡みが瞼を押さえつける。
今日は一日、訳の分からないことで振り回されたり、やっかみを受けたり疑われたりと、本当に散々だった。
気を使ったり、気を張ったり、仕事の手伝いをしたり。
思った以上に疲れを抱えていたラシェルの体はいつの間にか意識を手放し、そのまま深い眠りへと落ちていた。




