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デブスの没落貴族に転生したら、やっぱり成金ブサメンと政略結婚する流れになった  作者: o槻i
開闢編

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38.世界地図


 コーヒーのアロマが部屋中に広がり、ラシェルはうっとりと目を瞑った。

 ディルクがいつも使う執務机の前に置かれた応接セットのソファに深く腰掛け、思わず深呼吸する。

 こうして彼にコーヒーを入れてもらう時間が、ラシェルはとても好きだった。

 開け放たれた窓からは、ひんやりと秋の風が心地よく入って僅かにラシェルの髪を揺らす。コーヒーをドリップする音だけが響いて、耳を擽った。そこから、常闇色に揺れる波を想像する。

 穏やかに過ぎゆく時の流れに身を揺蕩わせ、意識をも手放しかけた矢先、鋭く声をかけられた。

「おい、寝るな」

「あ……」

 土曜の午後、ラシェルはジータ直伝のガトーショコラを片手に、ディルクの部屋を訪れていた。

 ディルクが企画した集まりだが、最初は毎日の放課後を使って話し合いが持たれていたものの、それだとメンバーも入れ代わり立ち代わり、だらだらと前日に話し合いをした内容の説明を繰り返すばかりで進展がないため、結局は全員が揃う火曜の放課後だけ集まることになったのだという。それ以外の日は各自でアイディアを纏めておくこととして、その上で話し合った方が効率的でもある。結果、ラシェルが直接会へ参加することは見送られ、代わりに週末のティーブレイクを利用して、ディルクから報告を受ける形で間接的に関わることとなった。

「俺達の方は、まだまだ初期の叩き台すら程遠い話し合いしか出来てないから特に話すこともないが、今日はお前の方がそれとは別に、聞きたいことがあるんじゃなかったか?」

 呆れ顔でソファの反対側に腰掛けるディルクから、マグカップを渡される。それに口を付け、ラシェルはアチチと舌を火傷しそうになりつつ、そうだったと思い出す。つい、秋の午後の心地よさに、本題を失念していた。

 甘く香るバニラの余韻に浸りたい気持ちを無理矢理引き剥がし、マグカップをローテーブルに置く。ラシェルは世界地図について、ディルクに尋ねた。

「レオノキアで、わりと一般的に出回っているものはあるが……」

 立ち上がり、ディルクはデスクの引き出しからA4サイズくらいの紙を取って来てラシェルに見せる。

 なんじゃこりゃ、と手渡された地図にラシェルは目を丸くした。

 一応、メルカトル図法の体を為してはいるものの、ところどころ雲やら岩やらドラゴンやらのイラストで覆われ、描かれてない地域がある。ただでさえ落書きのような、雑な線で海と陸とが描き分けられているだけの下手くそな図なのに、それらのせいで更に詳細を欠く。しかも地図の周りに装飾で描かれた、ふよふよ飛んでる天使だかキューピッドだかの方がメチャクチャ写実的で、寧ろ一枚の絵画のようですらあった。

「何、コレ……?」

「言うと思った」

 ずず、とコーヒーを啜りながら、この世界で地図と言えばフィリドールの測量図しか見たことのないラシェルに、さてどこから話すべきかと思案した表情で喉を鳴らす。

「そもそもラシェル、世界地図なんて言葉、どこで覚えた?」

「えっ……」

 覚えるも何も、常識としか言いようがないのだけどとラシェルは冷や汗をかく。

 前世では、物心ついた頃から地球儀はテレビの横に置いてあったし、世界地図、日本地図も普通に小学校の教室に貼ってあった。宿題で白地図に色を付けたり、地図記号を覚えたりもしたし、出かける時は大抵ナビを使って目的地へ向かう。地図はあって当然のもので、生活の一部だった。

 ディルクがする質問の意図が掴めず、押し黙っていたら「まぁ、いい」と溜息を吐いて再び話し始める。

「この地図も、こう見えてなかなか馬鹿にできない。ほら、ここに二つの大陸が描かれているだろう?」

 うん、とラシェルは頷く。

 この世界は、どうやらアウローテ王国やレオノキア共和国が位置し、旧大陸と称される第一大陸と、新大陸と呼ばれる第二大陸、この二つの大陸から成り立っているようだ。位置的にも形的にも、前世で言うところのユーラシア大陸と北米大陸の二つからなる世界と言った方が分かりやすいかもしれない。

 歴史的に被るところもあり、アウローテやレオノキアといった旧大陸の国々による大航海時代を経て、第二大陸の発見に至っている。違うのは、新大陸に住まう人々の文明レベルが旧大陸と同程度に発展していたため、現地人への虐殺や追放、植民地化が行われなかったという点だ。特にレオノキアはカイルラスと友好条約を結んだことで、温暖な地を求める自国民を移民として積極的に受け入れてもらった経緯がある。そしてこのカイルラスこそが、ヤーランドの本国にあたると言う。

「ズバリ、このヤーランドの調味料や食品を個人的に入手したいんだけど、無理かな?」

 あまりにも唐突なラシェルの願いに、ディルクが虚を突かれた顔をする。

 適当にあしらわれるかとも思った矢先、しかしディルクは直ぐさま腕を組み、うーんと唸りながら心当たりを探っている表情を浮かべた。

 デュランから借り受けた本だが、伝統的な食文化の継承と題され、主に味噌や醤油、日本酒製造の根幹ともいえる麹について書き綴られていた。

 ……ちょびっと。……ほんの、ちょびっとだけ。

 この本を読むまで、実を言えば今あるお米やら何やらを使って、何とか自力で麹や日本酒を作ることができないものかと、淡い期待を抱いていた。が、読了後、ゆっくりと本を閉じ、ラシェルは確信したのだった。

 うん。これ無理。個人が趣味でする範疇を余裕で超えてる。

 権威的な文体で冗長的な部分も多く、殆ど端折って斜め読んだだけだが、要するに麹の素となるコウジカビとは先人の手により長い年月をかけバイオテクノロジーの粋をアナログで結集させまくった賜物に他ならない、ということだった。つまり、素人が一朝一夕で採取できる菌の類いではない上に、特別な環境を用意して培養した上での運も深く関与する、非常に希少価値の高いものであることが分かった。

 さらに、醤油にしろ日本酒にしろ、匠の技術とかなり初期投資をした設備が必要で、既にこの世に存在しているものならば、それを頂くのが一番手っ取り早いという結論に読後三秒で至ったのだ。

 ちなみに他の二冊はヤーランドの近現代史と、去年発行の最新版主婦向けレシピ集。ジャンル違いも甚だしいが、近現代史は直近の社会背景を知るのに押さえておきたいところだったし、最新のレシピ集に至っては去年刊行の物で、具だくさんの味噌汁や薬味たっぷりの冷奴、家族で作ると楽しい恵方巻に、子どもの食育を考えた昆布と鰹の合せ出汁で作る減塩おかず等、伝統的な食文化が子どものいる現代の主婦向けにアレンジされた内容で、今もそれらが食卓に並んでいることを証明してくれていた。

 余談だがあの司書のお姉さん、自分の趣味と実益を兼ねて、これまでの蔵書の続編や新説が出れば情報の更新にと新刊を続々取り寄せては並べているそうで、今なお王家の書庫は無尽蔵に増幅しているようだ。

「聞いてみないと分からないが…………」思案していたディルクが、徐に口を開く。「レオノキアのギルド仲間でカイルラスと交流のある貿易商を知ってるから、そいつを当たってみようか?」

 地図を指しながらディルクが示すヤーランドは、一部海洋と接しているものの陸地の三方をカイルラスに囲まれる形で位置していた。そのため海を渡っての直接交渉か、カイルラスを経ての輸入ルートが妥当と思われる。近年、ヤーランドに港が出来たという話も耳にしたとディルクは呟いたものの、やはりカイルラスからのルートの方が伝もあり確実だと判断したのだろう。

「本当?! 嬉しい!」

 持つべきものは商人ギルド仲間だなと、つくづく思う。そこと繋がりのある婚約者様に心から感謝しつつ、お礼にというわけではないが、話が弾んで放置されていたガトーショコラを食べてもらうよう改めてディルクの前に差し出した。

 ラシェルに勧められるまま口へ入れた途端、何だこの食べ物はとディルクがガトーショコラを凝視する。

「周りがサクサクに焼けていながらホロリと崩れるこの触感、中からトロリと溶け出るチョコレート……!」

「美味しいよねぇ。ジータに教わったレシピに、カロリー上がるけどもう少しバターを足して、フィナンシェのような外側の触感にしてみたの」

 ディルクがコーヒーを口に含み、溜息を零す。再びガトーショコラに手を伸ばし、コーヒーで引き締める。甘い、苦いのローテーションに入ったその姿を見て、何だかラシェルも癒される心地で彼を見つめた。

「ところで、世界地図もそうだがヤーランドなんて辺鄙な国の情報、どこで仕入れたんだ?」

 もごもごと頬張りながら、ディルクが訊く。その口元がヒマワリの種を頬袋に詰めるハムスターのようで、混み上がる笑いを必死に堪えながらラシェルは応えた。

「本で読んだの」

「フィリドールの蔵書か?」

 記憶になかったのだろう。自分が見落としていたかと尋ねるような聞き方だった。

「ううん。えーと、学院の図書館……だったかな?」

「ふぅん」

 デュランと交わした約束で王家の蔵書とは言えず適当に誤魔化したが、そもそもさして興味がなかったのだろう。ラシェルの答えにディルクは思いの他あっさりと引いた。これ以上の詮索がないことに、ホッと胸を撫で下ろす。正直、追及されたら彼を相手に自分がどこまで嘘を吐き通せるか、自信は全くなかった。

 と同時に、彼の言葉で再び当初の質問を思い返し、今度はラシェルが尋ねる。

「ところで、この地図の正確性が近からず遠からずって事は分かったんだけど、本物の世界地図はないの?」

 ああ、とディルクも思い出したように答えた。

「海図も含め、測量に基づく精巧な地図は、その国の英知と人の努力が産んだ結晶だ。領土を納めるのに必要なツールではあるが、トップレベルの軍事機密でもある。どの国でも正確な地図は軍か国の最高権力者のみが管理していて、出回るようなことはない。それを証拠に、アウローテでは地図の存在すら庶民に隠されているだろう?」

「そうなの?」

 はぁ、とこめかみを押さえてディルクが深い溜息を吐く。

「前々から思っていたが、お前は知識の偏りが激しすぎる。わりと専門的な話は出来るのに、一般常識になると途端に通じないなんて」

「えっと……箱入りでスミマセン」

 元々世間知らずのお嬢様で、前世の記憶やらデュランのことやら、そりゃ偏りがあって当然と自分自身は思うけれど、もう面倒臭いのと話せないのとで全部ひっくるめて箱入り娘で押し通す。

 この言葉の前では流石のディルクも承服せざるを得ない様子で、口元を固く引き結んだ。

 全くもって便利な言葉だなぁとラシェルは味をしめる。今度から困ったら、まずこの言葉を使おう。

 一つ咳払いしてから、ディルクが話題を戻した。

「とにかく、アウローテの地図は王家のみが所持し、門外不出という形で固く管理されているんじゃないか? 領主クラスであっても自領以外の地図の作成や、所持すら許されていないようだし。先のように簡易的な世界地図でさえ、庶民への頒布は固く禁じられているからな。本来、地図というのは厳しく管理されるものだから、ある意味アウローテはその原則に忠実といえるが……」

 なるほど、とラシェルは独り言つ。

「けど、そうはいっても貴族はお金や伝で入手可能だろうから、実際は市井への情報統制ってことよね」

「その通り。地図に限らず、アウローテは情報統制の敷かれている範囲が広い。この国の識字率、就学率が周辺諸国と比べて圧倒的に低いのも、俺はその一環と見てる」

 貴族は学院に入るまでの間、我が子に家庭教師を付けて、学問は勿論のことマナーや教養を施すが、平民には学童期に二年間、簡単な読み書き計算を学ぶことができる初等教育学校が国費で賄われるのみだ。しかも実態はお粗末なもので、フェミニストの機運を削ぐために突貫で作られた法律と施設であることから就学義務はなく、歴史が浅いせいもあって知名度は低い。ろくな広報もせず、さらに通学には年齢制限まであり、該当の学齢以外は無償で授業を受けることができない。

 だが、とディルクは続ける。

「それに反比例してアウローテの民は総じて民度が高く、貧困層の生活水準も高い」

「……そう、なの?」

「ああ。アウローテの七不思議の一つさ」

 七不思議…………初めて聞いた。

 きょとん、とした表情でいるラシェルに、内側にいるとそれがごく自然で当たり前のことになっているから気付かないだろうとディルクが説明してくれた。

「まあ、語呂合わせにこじつけでどうでもいいものも含まれるが、大きいところで言えばこの国にスラム街がないことと、王都の景観の良さだな。スラムに関しては、国教に指定されているアウローラ教会が徹底して弱者救済を行っているからに他ならないが、正直、財源をどう確保しているのかは各国がその経営方法を深く疑問視しているところだ」

 元々アウローラ教会は、不授布施を信条に長い歴史の中で迫害も受けつつ、細々と続いてきた宗教の一つだった。それが何代か前の女王の庇護を受け国教となり、現在の地位を得ている。確かに一切の施しを受けずして、ボランティアだけでスラム解消などあり得ない。昔から弱者救済を謳っていた宗派ではあるものの、祖父が幼い頃はまだ、規模は小さいもののフィリドールにもスラム街が存在していたと聞いたことがある。

「王都の景観の良さ……っていうのは?」

「端的に言えば、都市部のゴミ問題だな」

「ゴミ……」

 何か、夢の島みたいな話になってきた。

「その国の国力は首都の繁栄と深く関わりがあるというのは分かるな?」

「まあ……強い国は首都が栄えてるってことよね?」

「そうだ。だがどの国も一定年数を超えると、遷都か政権交代による都市機能の移動を余儀なくされる」

「ゴミ問題のせいで?」

「都市部が繁栄によって拡大すればするほど、汚物やゴミ処理が間に合わなくなるんだ。それを見越してか、アウローテはかなり以前から王都の拡大路線を止め、コンパクトシティに特化した都市計画へと方向性を変えてはいるものの、それにしてもだ。都市近郊で作られ、中心部で消費される農作物にしろ、次第に土が痩せて連作は難しくなる。それらを勘案するに、王都は従来の都市機能を持続させる限界時期を、もう何十年も前にはとっくに迎えているはずなんだが……」

 王都は厳然たる姿のまま、今なお同じ場所に、不気味なほど同じ佇まいで存在し続けている。

「なんだか、まるで魔法にでもかけられているような話ね」

「そうだな」

 冗談で言ったラシェルの言葉に、意外にもディルクが真面目な表情で返す。

 いや、そこ笑うところだからと言いかけた矢先、ノックの音が部屋に響いた。

「ディルク様、ランドル様がお着きになられました」

「分かった。中に通しておいてくれ。直ぐ行く」

 執事の声に、ディルクが席を立つ。

「約束してたの?」

「ああ。けど、大した用じゃない。ラシェルも行くだろ?」

 ディルクが手を差し伸べる。

 うん、と笑顔で彼の手を取り、ラシェルはニーナも引き連れランドルの待つ応接室へ向かうことにした。


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