20.海の恵み
再び港へ戻り、ディルク達とはそこで別れてラシェルはピートを引き連れ海岸線を歩いた。
にがりは、塩を作る工程でできる副産物になる。
前世、人生で最も輝いていた小学生時代に理科の実験で塩の結晶を作る授業があったのだが、その際に担任の先生の裁量で海水を使って実験が行われた。塩を取り出す直前のコーヒーフィルターでろ過したものが、にがりになると余談で教えてくれたのだ。
ディルクが生まれ育った隣国のレオノキアは大陸最北端に位置する。永久凍土が国土の大半を占める過酷な自然環境を持つ国だが資源に恵まれ、豊かな財源を背景に技術革新が進み、物質的にはアウローテ王国より豊かな国であることを教わった。コーヒー文化が国全体に広く行き渡っており、紙の技術も高いことから使い捨てのコーヒーフィルターが存在する。ラシェルは今回、にがり作りにチャレンジするにあたって昨日の内にディルクからかなりの枚数を貰い受けていた。
食用になるため、なるべく綺麗な海水を使いたいのだが流石に港近くは生活排水や船から出る排油等で汚染されており、かなり北まで上ることになった。砂浜を歩き、岩場にたどり着いたところで海流が少し変わるのか、海の色が変わる。深さもあるようで、人の出入りも少ない様子。見るからに綺麗な水の色をしていた。
早速ピートに手伝ってもらい、港で仕入れた樽に海水を詰める。いっぱいになったところで、帰路に着いた。
屋敷に戻った翌朝、ラシェルは屋外にある竈に大鍋を用意してもらい、ひたすら海水を煮詰めていた。炊き出しにも使えそうな大きな鍋に、櫂のような木べらで掻き混ぜる。途中、フィルターで不純物を濾した後、用意した海水の十分の一になるまで再び煮詰める。使い捨て紙フィルター、便利で良いがチマチマした作業で途中、発狂しそうになったけど。
次第に塩の結晶がシャーベット状になり、時折鍋の隅ではぜることからジータがラシェルに代わり混ぜてくれた。鍋を火から下ろしたところで再びラシェルと交代し、濾過してにがりを抽出していく。残った塩も勿体ないので、鍋でジータに焼いてもらい海塩として厨房で使うことにした。
次の日、ラシェルはこれまた一日かけて、昨夜水に浸しておいた大豆を使い豆乳作りに励む。小分けにしてすり鉢に入れ、時折水を差しながら擂粉木で潰し、大きめのボウルに貯めていく。
厨房の一角を貸切にして、只管地味な作業に没頭する令嬢は、傍から見てさぞ不思議な生き物だっただろうと思う。
全ての豆を粉砕し終えたら灰汁を取りながら鍋で煮て、ジータにも手伝ってもらいながら布巾で濾して絞り、豆乳とおからに分ける。その後、明日の豆腐作りに備え人口風穴で冷蔵保存してもらった。おからもクッキーやスコーン、ケーキに入れると美味しい上にヘルシーなので、一緒に保存してもらう。
その晩、ラシェルはくたくたの体をベッドに投げ出し、就寝前の微睡を楽しんでいた。
二泊三日の旅から帰ってすぐ、延々と火の番をする塩作りならぬ、にがり作りに精を出し、今日も今日とて一日中、すり鉢にすりこ木で豆乳作りに励んだ。
重い瞼を何とか抉じ開け、明日の工程を頭の中で整理する。
問題は、豆乳とにがりを合わせる際の温度だった。
簡単な手作りキットと鍋を使って前世、母と一度だけ豆腐を作った記憶を頼りに作り始めたものの、肝心の耐熱性の温度計がない。豆腐作りは温度が要になってくるので、ここは試行錯誤するしかないかと思う。こりゃまたもやジータ先生の活躍を冀うしかないなと独り呟いたところで、深い眠りに落ちた。
翌日の午後、ジータに頼んで一緒に豆腐作りを手伝ってもらうことにした。
「取り敢えず、にがりは豆乳の1%で良いんだっけか?」
「そうね……」
一昨日、一日かけて作った琥珀色の液体……にがりをねめつけながら、ジータの言葉に頷く。にがりは、そこに含まれる成分の濃度によって量の調節が必要だが、まずは1%から始めてみることにした。
それにしても毎回、忙しい厨房仕事の最中、それでも嫌な顔一つせずラシェルに付き合ってくれるジータは神の領域だと、本当に頭が上がらない。その事を詫びると、礼なら坊主に言ってくれと、厨房の片隅で血眼になってティータイムの軽食作りと夕食の下拵えをマッハの勢いで同時進行させる見習少年を指し、苦笑された。
ヤバい……思いがけないところで、まだ幼い少年をブラックな環境に追いやっていた……。
冷や汗が幾筋も背中を流れる。自分が領主の娘であるという自覚をもっと持たねばと反省した。よくよく思い返せば、先日、ピートを思いつきで旅の共に従えたことも、かなり迷惑だったに違いない。いつまでも庶民の女子大生感覚でいては、パワハラ女王として屋敷に屍の山を築いてしまう。
取り敢えず見習の彼には何かしらお礼を考えるとして、周りを振り回すのは極力今日を最後に、これからはよく考えて行動しようと胸に誓った。
豆腐作りは豆乳を約七十五度から八十度くらいまで温めたらにがりを加え、混ぜて固まった物を型に移すのだが、耐熱の温度計など存在しないため、そこはジータの勘に委ねるしかなかった。調理の際はいつも鍋底から上がる泡の様子で常におおよその温度を見ているらしく、豆乳は初めてだが試してみようと言ってくれた。
さらに型も入手できないので、今回は直接鍋の中で作るおぼろ豆腐に挑戦しようと思う。
温めた豆乳を火から外し、にがりを入れて五回ほど木べらで掻き混ぜたら直ぐに蓋を閉める。十分ほど置いて固まっていたら一先ず成功なのだが…………
「出来てる……!」
素晴らしい…………ッ!!
流石、ジータ。私にチートの能力は微塵もないが、彼は備わっているのかもしれない。一発で成功って、めちゃくちゃ神掛かってる。もしくは早く料理長を返せという、見習い君の呪いか。
何にせよ、感動の涙とともに早速試食してみる。にがりが多すぎた、ということもない。美味しいッ!!
口へ入れた途端にほどける食感。調味料なんて要らないくらい、豆の旨味が口一杯に広がる。なにこれほんとおいひぃ。
「淡白な味なのに、豆の甘味がしっかりして美味しいですね」
ジータも気に入った様子で、息を吹き掛けつつ熱々の豆腐にパクつく。
どんな味付けとも相性がいいだろうから、シンプルな味に飽きたら塩だれや、スイーツのように甘いソースをかけてアレンジしても良さそうだ。
もちろん本音を言えば納豆のこともあるし、醤油が欲しいところではあるものの、さすがに素人が手を出せる領域ではないように思う。
醤油をはじめ味噌、みりん、もろみ、甘麹に塩麹と、和食の基本的な味付けは麹を素にしているものが多い。何でも手作りしてみたがる前世の母も、麹は買ったものを使用していた。懐かしさから日本の食卓を再現したいという思いもなくはないけれど、例えば出汁に使う鰹節にしてみても、荒節もどきの燻製なら母が作っていたのを覚えているが、ちゃんとした鰹節や本枯節には専用のカビを付着させて旨味を出すため、やはり素人が一朝一夕で用意できるものではない。
日本で作られたゲームのため、よくある『ジパング』をモジったような国が存在している可能性があるかもと一瞬ラシェルの脳裏を過ったけれど、乙女ゲームでそこまでの世界観を作り込むかとすぐさま打ち消す。まだ世界地図はお目にかかったことがないものの、少なくともディルクの部屋で見た王都の交易資料の取引相手国一覧に、それらしい国名はなかった。
それにしても、こうして改めて思い返してみると過去の自分は生まれた国にしろ育った家庭にしろ、とても恵まれていたことに気づく。
母が専業主婦で、娘の自分が料理をすることは殆どなかったが手伝いは折に触れよくさせられていた。前世のあの飽食の時代によくぞここまでというくらい趣味の延長で母が様々なものを手作りしていたことから、家庭料理くらいなら和食の知識も、何となくではあるけれど経験として残っている。
手作りの味噌も、兄二人の中学受験と学費の助けに母が冬の間だけ短期のパートへ出る小学校低学年頃までは毎年、二人で仕込んでいた。庭に植えた梅の実を採って、竹串で一つ一つ蔕を取ったのも良い思い出だ。それで梅干しと梅酒、子どもたちには梅ジュースを作ってくれていた。桃の節句に作ってもらった甘酒で、飲み過ぎたせいかお腹を緩くした年もあったと思い出して笑みが零れる。夏休みに作った紫蘇ジュースはクエン酸を入れた途端、色鮮やかな赤に変わる様を目にして感動したっけ。
もちろん今生の両親も、これ以上ないくらいラシェルを慈しみ、愛してくれているのは一緒に過ごしていて伝わってくる。
何が悲しくてこんな世界にこんな立場で転生をと、恨みに思ったこともあったけれど、冷静に我が身を振り返ってみれば何と幸せな人生を送らせてもらっているのだろうと、感謝の気持ちしか湧いてこなかった。




