16.はじめてのおてつだい
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いつも数字を見るたび、これは本当に自分のページのことかと戸惑いつつも、感謝の気持ちでいっぱいになります。
とてもとても、執筆の励みになっております。
翌朝、フィリドール邸では昨日のことがちょっとした騒動となった。
『お嬢様が泣きながら腐った豆を食べていた』
ちょうど離れを出たところでジータと合流したこともあり、原因はディルクにあると、使用人たちの間で噂になったのだ。
そうとも知らず、ラシェルはいつも通りゆっくりと朝食を済ませた後、トレーニングでもしようと軽装に着替え準備体操をしていたところで、ディルクが部屋を訪ねて来た。
仏頂面で、一言「気が変わった。資料の整理を頼む」とだけ残し、またすぐ離れに戻ったのだが。
訳が分からず、取り敢えずトレーニングを済ませた後、恒例となっている厨房に顔を覗かせて、そこでラシェルは事態を把握した。
確かにディルクに言われたキツイ言葉は効いたが、それはラシェルも自覚がなかったとはいえ彼のことを傷つけていたのでプラマイゼロだ。残るは単に納豆の美味しさに感動したという事なのだが、ジータをはじめ使用人や侍従たちに事情を話しても、なかなかこの美味しさを理解しようとしてくれない。まず臭いに嫌悪感を示し、口にしようともしないのだ。噂を聞きつけたコゼットが血相を変えて厨房に来たが、暖簾に腕押し。ディルクに抗議して来ると言ってきかないのを、何とかジータたちと抑えるので精いっぱいだった。ということは、ディルクにつつきを入れたのは母ではなかったということか。てっきり彼女の仕業だとばかり思っていたラシェルは、少し意外に思う。噂を聞きつけてディルクが先手を打ったか。
何にせよ納豆が如何に美味しいかを力説したところで、拙い自分の言語能力では伝わりきらないのは、使用人の時と同じだった。ラシェルの説得より納豆の臭いの説得力が勝り、誰一人ラシェルの言葉に耳を傾ける者はいなかった。
しかし風向きが変わったのは、やはりコゼットの一声だった。
「あら、結構いけるわね」
チーズやヨーグルトと同じ発酵食品で、匂いと味に癖はあるものの、慣れれば病みつきになるという話をしたら、もともと食に対しては好奇心旺盛で食用なら虫でも食べる母の食指に引っ掛かり、実際口にしてもらえた。食べてみれば、ブルーチーズ等よりは癖もなく食べやすいことに、むしろ気に入ってさえくれた。美食家の母が気に入ったことで、使用人たちも恐る恐るであるが口にし、苦手という者もいたが、殆どが美味しいと認めた。
納豆ぱわー、絶大。母の力も偉大。
その後、ティータイムにジータが焼いてくれたチョコチップのスコーンを持ってディルクの部屋を訪れたら、神妙な顔つきでソファに座るよう言われた。
「俺の部屋を片付けるにあたって、一つ条件がある」
片付けてもらう立場にも拘らず上からな彼に、しかし今のラシェルは素直に頷いた。
「これから毎日、ここでティーブレイクに付き合ってもらう。整理するにも、事前に色々とレクチャーしておく必要があるからだ」
「なるほど」
ディルクの淹れてくれたコーヒーを、さも当然という顔で飲み下しながら頷く。
然るに、仕事のできる男というのは、往々にして細かい。彼もそのタイプかと少し嫌気が差したが、仕事を教わるというのはそういう事だと前世の経験から理解しているのでスルーする。
「その日にしてもらうことも、その中で指示するから、必要ならメモを取ってくれ」
「はい」
ディルクの話に耳を傾けながら、前世の母に男の子って繊細なのよねと、よく兄二人の愚痴を聞かされていたことを思い出した。
ラシェルが大雑把な分、彼についていけるかなと若干不安な気持ちになるが、乗りかかった船なので今更、引くに引けない。
何とかなるだろうと持ち前の図太さで強引に不安を払拭した。
「棚のここからここまでが民事、その下を税法関係で纏めたいから、あそことここの山から挟んである資料だけを抜き取って、そこの箱に移した後、書籍を全部並べ直してくれ。順番は索引にある初版の発行順で」
ディルクの指示は細かいが、神経質というよりは使い勝手を重視したものなのでラシェルの不安も杞憂に終わり、さほど苦とは思わなかった。数日で要領も得て、割と早い段階で整理の目途がついたのもラシェルの心のゆとりに繋がる。分からないことは、聞けばすぐに何でも教えてくれたし、寧ろ聞かずに適当にやった事の方が叱られた。
ディルクが好む仕事のスタイルや流儀も、ラシェルは徐々に理解していった。
人の仕事を先読みしてフォローする、というような高等技能はラシェルには備わっていない。だがディルクも父と同じく人の才を見る目は確かなようで、無理な頼みはしてこなかった。代わりに、事前に細かくラシェルに注文して用意させる。足りずは仕事を進めながら、主に必要な文具等を手渡すよう頼まれるのだが、ラシェルが片付けた端から掃除をしていると、執務机で書類に目を通しながら
「白紙の紙を十枚と、空のファイルケースを三つ取ってくれ」
「鋏と綴じるものを」
「上から五段目、左から二番目にある法務関連の棚から、判例集を新しいものから三冊取って机に置いておいてくれないか」
などと不意に振られるものだから気が抜けない。初めはその度にわたわたと探し出していたものを、今では文具用の棚を一つ用意して整理し、そこから取り出すよう工夫した。本はまだ手渡すまでに時間を要するが、自分が整理した分おおよその見当はつきやすく、後は細かく覚えていくだけだった。
短い間だけれど一緒に過ごしてみてつくづく感じるのは、彼は兎に角、仕事が早いということだ。
父が執り行っている現行の領政も、とりわけお金に関することには積極的に関わり、財務諸表なんか物凄いスピードで読み込んでいく。計算も早く、間違いなどあろうものならすぐ父に申し入れ、直しや改善を図る。
何より、天才の頭は使いようだと、この部屋に来てまざまざと感じた。
仕事に打ち込むディルクの姿を見るにつけ、ラシェルは自分もこれらを読んで、少しでも見識を広げなくてはという思いに駆られた。とはいえ、どこから手をつけるべきか見当もつかない。量も膨大で、情報の取捨選択も今の自分では、いくら前世の記憶があるとはいえ限界があった。前世の受験勉強のように期日があるわけではないが、それでも時間が無限にあるわけでもない。できれば必要最低限のものだけを効率よく学ぶことができたらとも思うが、そう都合よく知識など吸収できるものではない。
片付けの最中そんなことを考えていたら、ふと見た部屋の一角に、様々な種類の本が分類もされず平積みにして置かれているのが目に入った。この部屋にある本の、ざっと八割程度か。
「ディルク、あれは?」
「ああ、あっちは後回しでいい。初めは書庫で作業していたんだけど、後半、体力が保たなくなって残りをこの部屋に運んだんだ。あれは、そこの本棚に並べてもらった物と中身が重複していたり、情報が古すぎて使えないものばかりだから、書庫に戻そうと思って置いてるだけにすぎない」
なんと、彼は事も無げに、あれらがフィリドール家の蔵書全てに目を通した結果、取捨選択した後の山だと言うのだ。
もともと離れは歴代領主が執務を執り行うために建てたもので、フィリドール家が長い年月をかけて方々から集めた書籍や重要書類は全てここに収められているという、謂わばフィリドール家の知の結晶、門外不出にして虎の子の建造物なのだ。そのことに気付いた今、そこをポンと提供してしまえるあたり、父のディルクへの入れ込みようは娘の立場から見ても常軌を逸しているように思える。以前、貴族がどうのとか平民がどうとか、身分の壁がなんだと思ったが、そんなもの一蹴するほど父のディルクへの信頼の厚さが伺えた。
何にせよ、尋常でない蔵書量であることに変わりはない。
この屋敷に来た当初、ディルクが缶詰め状態で一体何をしているのか、ラシェルも含め皆、不気味がっていたが、こういうことだったのだ。
そしてそれは詰まる所、ラシェルはこの部屋の棚に整理を頼まれたものだけを読めば現行の政務に事足りる、ということに他ならない。
さらにはディルクが父への提言だったり、個人的に纏めたレポートの数々をファイリングしてある棚まで見つけた。中を捲ると、ここ何代かで推し進められてきた改革概要と結果、今後の課題、はてまた前回の大戦で戦時下に敷かれた領内での采配や戦役、新規の事案としては港の活用法から領土の南北を縦断し王都まで繋げる街道の必要性とそこから派生する利益見込み、果てまた先日採取した沼地の水質調査結果など、分野も多岐に渡る。その上で更に各項目、優先順位まで付けられていたが、読み進めるにつけ彼の分析能力や処理能力の高さを感じる内容だった。
ラシェルは、詰め込めばすぐパンクする低スペックな自分の頭を必死に使い、考えた。どうすれば最短で、要領よく彼に追いつくことが出来るか。
まず目を付けたのは、やはりディルクのレポートだった。それに目を通し、分からなかったことや気になったことだけ文献に当たる。ごく平凡な女子大生だった前世の自分に、ディルクのような速読は無理だったが、それでも多くの書物を読んでいくのに斜め読みや、目次がある本は関連項目のみを掻い摘んで読むことで概要を掴む。それでも理解できなかったり疑問に思ったりしたことは父か、コーヒータイムにディルクに直接訊くと、二人とも丁寧に教えてくれた。領政の生き字引を二人も擁する自分の環境に感謝しつつ、無能な人間が有能な他者を上手く活用して自身の足りずを補うというのは、前世でいつの間にか身に付けていた処世術かも、と思う。年の功ともいうけどね。
最初は片付けの合間に書物を読んでいたが、それだけでは当然遅々として進まず、今では少しずつ部屋に持ち帰らせてもらっては、寝る前の時間を使い読み進めている。