15.大豆の力
続けて離れに行くと、ちょうどばったり廊下でディルクとはち合わせる。
「何?」
「うん。この前、おばあさんからおにぎり貰ったでしょう? 私も作ってみたから、ディルクにお裾分けしようと思って持って来たんだけど……」
彼の鋭い目の奥が、僅かにキラリと艶めいた気がした。
あ。この顔は、……おにぎりを気に入ってると見た。
ご飯党の支持を一票得ていたことに、内心ほくそ笑む。誰であろうと、スキの輪が広がることは喜ばしい。
ディルクはいそいそとラシェルを書斎へ招き、ソファに座らせた。ちょうどコーヒーが切れて、今から淹れるところだったから君も一緒にどうと誘われ、頂くことにする。この国では紅茶が主流だが、ディルクの国でブレイクタイムと言えばコーヒーらしい。
ソファに腰掛けながら、初めて入った彼の部屋を、少しの好奇心を視線に乗せて見渡す。前世の兄二人を除けば、同世代の男性の部屋に入るのも初めてのことだった。
書斎兼彼の私室ということで其処此処に書類や書籍の山が築かれ、お世辞にもキレイにしているとは言い難いものの、部屋が広いので然程散らかっている感じは受けない。さらにそう思わせるのは、置かれている家具の少なさだ。ラシェルの居る応接セットの隣に大量の書簡で溢れ返った執務机が一つと、その背面にある作り付けの本棚、そして少し離れた位置に、寝起きに捲り上げたシーツがそのままのベッドが一つぽつんとある。奥に小さなカウンターキッチンのような場所を設けているこの部屋は、機能だけで言えば、さながらワンルームマンションのようだとラシェルは思った。着飾ることなく小ざっぱりとして、彼そのもののようにも思える。
ディルクはキッチンに立つと釣り戸棚から缶を取り出し、慣れた手つきでコーヒー豆を計量スプーンで掬った。それをミルに移して、丁寧に挽いていく。
「砂糖とミルクはどうする?」
「量はそんなになくていいから、ブラックでお願い」
深く煎ったコーヒー豆が少しずつ粉砕されていく音を聞きながら、仄かに漂う懐かしい香りにラシェルは瞳を閉じた。前世でコーヒーの記憶といえば、忙しくて朝、食事がとれないままバイトに向かう前にコンビニかコーヒーショップで胃へ流し込むといったものだった。けれど今ではそれが、溢れんばかりの便利で贅沢な物に囲まれ、豊かな時代を謳歌していた記憶の象徴でもあるかようにラシェルの脳裏を擽る。
湯が沸いた音がして、ディルクがコーヒーをドリップする。
外からの風が、白いレースのカーテンを揺らしてラシェルの頬を優しく撫でた。午後の日差しが、眩しく部屋を照らし出す。
ゆったりとした時間が、そこには流れていた。
「どうぞ」
「ありがとう」
同じ色、同じ形のマグカップに、同じブラックコーヒーをトレイに二つ並べ、ディルクがローテーブルに置く。ラシェルはカップに半分の量を入れてある方を取り上げて、注がれた熱い液体に鼻を近づけた。
挽き立ての豆、淹れたてのコーヒー。
この香りを、求めていた。
そのまま口をつけ、こくりと喉を鳴らして胃に収める。程よい苦みと酸味が口の中に広がり、心からホッと息をつく。
ラシェルの向かいに座ったディルクも一口コーヒーを味わった後、徐におにぎりに手を伸ばした。
「前に食べたやつよりウマい」
一口頬張り、ディルクが言う。
「さっき炊いたご飯だから、それでだわ。時間がたっても美味しいけど、出来て間もないおにぎりも捨てがたいのよね」
我ながら、ご飯党党首として所信表明を述べるかの如き心境で漏らす。
勢いよく二口目を口にしたところで噎せるディルクに苦笑して、テーブルにあった彼のマグカップを手渡した。二個、三個と食べ進め、気付けばあっという間に皿の半分が消えていた。この館に来た当初、殆ど何の食べ物も口にしていなかったのが嘘みたいだとラシェルは思う。体重も、今では釣書に添付されていた写真の頃くらいまで戻ってきている印象だ。
持って来たおにぎりにパクつくディルクの姿越しに、何気なく見上げた視線の先、執務机横の壁に大きく貼られた地図を見止めた。領土全域が収められている詳細な測量地図で、ラシェル自身も初めて目にするものだった。今まで興味がなかったからか地図も読めなかったからか、自領の略地図さえ見た例などなかったが、改めて見るとなかなかに興味深かった。
まるで、四角いドーナツね。
地図を見て、真っ先に浮かんだ率直な感想だった。
縦にやや長い長方形の真ん中に、やはり縦長に楕円を描く巨大な沼地。その南西には、先日ジータと入った洞穴がある休火山のアストリア岳が位置し、広大な農地を持つことが難しい領土だという事も、この地図を見れば一目瞭然だった。西は海、東は連山、南は王都に接し、フィリドール邸はこの王都に最も近い南部に屋敷を構えている。そして北にはディルクの出身国が控えているのだが、フィリドール家が辺境伯でないのは太古、氷河に削られた深い峡谷に聳える標高千五百メートル級の山々が天然の砦として国境を覆っているからだ、ということも有体に見えてくる。
他にもこの部屋をよくよく見渡せば、歴代当主の系譜から領地に関する史料に始まり、様々な文献、領政の条例、判例集、民事、刑事、軍事、行政に纏わる国内法を規定した法律書まで多岐に渡って取り揃えてある。書類はといえば、現行の税制に関する資料に、税収関連の明細やら商業地区の景気動向調査票、それらを元にディルクが纏めたであろうレポートの下書きも見えた。雑然としているようで、その実、全てがきちんと系統立てて置かれてある。仕事ができる男性らしい、合理的な大雑把さはラシェルの心を擽った。
この人、お父様が言ってた通り、かなり有能かも。
そのことに改めて気が付き、今しがた領政に対し漫然と自分の中で抱えたものが溢れそうになる。
「ディルク……」
「ん?」
不意に名を呼ばれ、指先に着いた米粒を舐め取りながら目だけラシェルの方に向けて何だ、とディルクが返す。
「私にも、何かあなたの手伝いをさせてはくれないかしら」
「えっ……?」
思いがけないラシェルの提案に、ディルクが珍しく間の抜けた声で返す。ラシェルは立ち上がり、ディルクに詰め寄った。
「雑用でも、何でもいいわ。大したことはできないと思うけど……この部屋にある資料の整理くらいからなら、できると思うの」
有無を言わせぬ勢いで迫る。部屋の片付けを買って出たのだから、当然、喜ばれると思った。
だからまさか、この穏やかな空気が一変して剣呑なものになるとは想像もしていなかった。
「いや、その必要はない」
「えっ……」
普通にしていても鋭い三白眼を、さらに細く眇て低い声でディルクが拒む。
「仕事くらい、俺は俺のペースでしたいんだ。あと、君の目には汚く見えるかもしれないこの部屋も、俺なりの秩序でもって整理している。勝手に押しかけて荒らされたんじゃ、たまらない」
むさい男の部屋なんかに君を招き入れて申し訳なかったとディルクが追い出しにかかる。
これはまた地雷を踏んでしまったと、ラシェルは冷や汗をかいた。
「ごめんなさい、私また失礼なことを言ったわ。それにこの部屋の物が、きちんと分類されて置かれてるのも分かってる。何か、少しでもいいから貴方の役に立ちたいの」
縋るように言い募るが、後の祭り。ラシェルの言葉に、ディルクは胡乱な目を向ける。
「全てが自分の思い通りになると思うのは傲慢だ。君が取るに足らないと思っていることも、他方で大切に思っている人間だっているということを、もっと知るべきだ」
彼の手助けをすることが、即ち領民の暮らしを良くする一番の近道だとラシェルは考えたが、そう都合良くはいかないということか、と思う。虫のいい、自分に甘い判断だった。
「あと、これは蛇足だが」とディルクは更に言い募る。「婚約者として、君が俺の容姿を好ましく思ってないのは分かってる。けど俺も、君が想像しているよりずっと、同じく君のことを快くは思っていないことを覚えておいて欲しい。俺の立場上、これ以上君を傷つける言葉は言えないから……後は察してくれ。勿論、心配しなくとも義務は果たす。だから兎に角、……これ以上、あまり俺に構ってくれるな」
とりつく島なく、部屋から閉め出された。
独りぽつんと廊下に佇み、ラシェルは茫然と彼の部屋のドアノブに目を落とす。
彼の領分を犯した自分も悪かったが、それにしたって随分な言われようだと思った。
てゆーか蛇足長いよ。そして辛辣すぎる。……そんなに溜まってたんかぃ。
あと私、遠回しにフラれたよね? あれは。お前みたいなデブス、俺だって嫌なんだと。察しろって、そういうことよね。
その気もないのにフラれるって、実害ゼロだからまぁいいっちゃ良いんだけど、地味に凹む。しかも、かなり屈辱的……。
膝をついて項垂れる心持で、ラシェルは肩を落とした。
でも確かに、好きでもないデブスに自分のテリトリーを彷徨かれたらイヤだよね……しかも身分のせいで気まで遣わなきゃいけないんだから、彼じゃなくても御免被る話だわ。
この、すぐに周りが見えなくなる癖も何とかしなくちゃと反省する。
そしてもう一つ、ラシェルは彼の言葉を思い返して溜息を吐いた。
『君が婚約者として、俺の容姿を好ましく思ってないのは分かっている』
まぁ、あれだけ派手に絶叫したり泣いたり、あまつさえ死神とまで言っておいて、バレてないと思う方が間違いか。
自分の犯した軽率な行動を思い出し、軽く頭痛を覚えてこめかみを抑える。
外見ばかりを見て内面を見ようとしない、学院での周囲の目に自分があれだけ傷ついていたというのに、同じことを彼にしていただなんて。そんな自分に嫌気がさす。
とはいえラシェル自身も、久しぶりに自分の見た目を指摘されて心が沈んだ。学院では気を張り、いついかなる時も鉄壁の防御で臨んでいたが、少なくとも領内でこんなことを言ってくる人間は一人もいないことから油断していた。柔らかくしていた心に、中心部まで刃物を突き入れられたかのような深手だ。容姿の問題は、自分ではどうしようもできない部分があるにも拘らず一番に他人に晒す自分自身であるが故に、どうやったってついて回る。
ダイエットも頑張ってはいるものの、一向に体型が変わる気配すらない。ここまで成果が現れないとなると、方法が体質にあってないのか、それともやはり遺伝と諦めるべきなのか。努力が実らないのは、精神的にかなり堪えた。
盛大に落ち込んでいると、どこからか幽かに自分を呼ぶ声がした気がして、窓の外を見遣る。こちらに向けて手を振るジータの姿があった。ちょうど洞窟から帰って来たのだろう。今日は父と離れに軽食を持って行って、そこでティータイムにすると言ったら、ヨーグルトを見に行く序でに納豆の様子も見て来ると申し出てくれたのだ。
「お嬢、この匂い、腐ってるんじゃないですか? 残念だが、今回も失敗……」
「出来てる……!」
沈む心のまま、今日もまた失敗だろうと期待せずジータと厨房に入ったのだが、藁づとを開けた瞬間、ラシェルは我が目を疑った。
白く降り積もった雪のように、ふんわりと大豆をくるむ厚い菌糸。納豆好きには神々しいまでの姿を目にして、ラシェルは思わず感極まった。
「しょうゆ……は、なかった。塩で代用できるかしら」
棚からスプーンと小皿を二つ取り出し、塩の入った壺から一摘みして小皿の一つに取り分ける。
藁苞からスプーン一杯の納豆を取り出して、まずは掻き混ぜてみた。ねばねばと糸を引く。と同時に、香りも立ってきた。
「うぅ……お嬢、これ、やっぱり腐ってるんじゃ……」
心なし、ラシェルから距離をとってジータが鼻を摘まみ訴える。
「何言ってるの、この香りがいいんじゃない」
取り分けていた塩を少々降り掛け、再び混ぜる。香りと見た目は合格。後は味だ。
「…………」
「お、お嬢……?」
スプーンに少量取って口に運んだ途端、俯き黙り込んだラシェルを訝しみ、慌てた口調でジータが訊く。
「やっぱり腐ってたんで……」
「うんまぁぁあああああッ!!!」
恍惚の表情で、思わず絶叫する。
何てことない乾燥大豆と倉庫に眠っていた藁で、こんな美味しいモノが出来上がるとは……ッ!
前世、3パック九十八円で買っていたものよりずっと味が高級な気がする。さすが手作り。さすが藁苞。
冷めきっていたが、鍋に残っていたご飯に納豆をかけ、食べてみる。
「美味しいッ!」
ガツガツと掻き込んだ。
「美味しい……おいしいよぉ~……」
あまりの美味しさと、ディルクに傷つけられた心と、彼を傷つけてしまった罪悪感と、コンプレックスと。色々なものが綯交ぜになり、けれども今はこの懐かしい好物の味に全てが救われた気がした。まるで心が洗われるようだった。気付けばいつの間にか、熱いものがラシェルの頬を伝う。
呆然と、奇行にも似たその様子をただただ見守るジータを余所に、ラシェルは泣きながら只管、納豆ご飯を頬張った。