12.米と水
翌週。
思いがけず父にはすんなり「行っておいで」と了解を得たものの、やはり過保護な母からは反対された。今後、学園で領地運営を学ぶにあたり自領のことすら知らないでは勉強にならないと説得に当たり、ディルクも一緒だからという父の援護射撃もあって、何とか了承に漕ぎ着けた。
何だか大仰な説得劇となったが、馬で片道ほんの四十~五十分の隣町に、勿論日帰り且つお忍びで、ふらっと水質調査に行くだけだ。ついでに朝からちょうど市が立つらしく、買い物でもどうかとディルクに誘われたので、ラシェルのメインはどうもそちらになりそうだけれど。
支度を整え、馬に跨る。
これまた大仰に泣いて見送る母を宥め、従者にピートを引き連れ隣町へと馳せた。
フィリドール邸の北にある隣町は、領地の約七割を占める沼地の最南端が位置する場所でもある。三人はまず、今回最大の目的である水質調査のため、沼の水を汲みに行くことにした。
生まれて初めて臨んだ沼地だったが、どちらかというとラシェルが抱くイメージとしては湖の印象に近かった。二人乗りのボートが幾艘か繋がれているちょっとした波止場があり、カップルが何組かデートに使っている。
古今東西、人間の考えることは似たり寄ったりという事か。
恥ずかしげもなくボートの上でラブラブちゅっちゅと忙しない恋人たちの姿を見て、目のやり場に困っているピートは放っておくとして、ラシェルはふと波止場近くの土産物屋の裏手に青く生い茂る水田を見止めた。
「すごい、お米だ……!」
駆け寄ると、そのすぐ傍で雑草を抜く年配の女性と目が合う。青いながらも立派に穂を出し、開花を迎えている様子を指してラシェルは尋ねた。
「これ、お米……ですよね?」
「そうだけど……」
突然、声をかけられたことに驚きの目を向けるも、すぐに人の良さそうな表情へと戻り、彼女が続ける。
「お嬢ちゃん、ここらでは見ない顔だね。旅行か何かかい?」
「はい。この辺りでは、稲作をされてるんですか?」
「何代か前の領主様が考えた農地改革の一環でね。何十年か前までは、ここらも沼地の底だったんだけど、遠い異国の技術と籾を携え、御自ら出向いていらっしゃったと聞いてるよ。かなり大がかりな干拓をして、沼全体を水田に作り替えようとしたそうだけど……なかなか広範囲に水を引かせるのは難しかったらしくてね。今ではこの辺り一帯だけの特産品ってとこかな」
「どうかしたか?」
ピートの元を離れたラシェルに気づいたディルクが、追いかけるように傍へとやって来る。
「見て、ディルク。お米だって。この辺りでは稲作をしているそうよ」
それこそ、前世以来、初めて見た米に興奮するラシェルだったが、ふぅん、と興味なさそうに稲を見るディルクに疑問を覚える。
「もしかして、ディルクの国ではお米って珍しくないの?」
「いや。生まれて初めて見た」
「この、外側にある籾殻から一粒一粒中身を取り出して、甑で蒸すか鍋釜で炊いて食べるの。パンやパスタと同じ、主食になるわ」
「お嬢ちゃん、よく知ってるね」
ほぅ、とおばあさんが感心したような声を上げる。
「うまいのか?」
「私はかなり好き」
頬に両手を当て、遠い昔の記憶を辿る。実は前世、パンより麺よりご飯好きで、炊きたてのご飯があれば、おかずはいらないくらい大好きだった。
「そうだ、コレ。残り物で悪いけど、よかったら食べてみるかい?」
背負っていた荷を解き、その中からおにぎりを取り出しておばあさんが差し出す。二人してありがたく受け取り、ラシェルはいただきます、と頬張った。
「おいひー」
至福の表情を浮かべるラシェルを横目に、ディルクも恐々口にする。
「……悪くない。というか、冷めてるのにおいしい」
「おにぎりは、そこがいいのよ。あと、炭火で炙って焼きおにぎりにしても美味しいのよ」
「お嬢ちゃん若いのに、本当に良く知ってるね」
おばあさんが、さらに感嘆の声を上げる。
ふふふ。伊達に二十数年、日本人やってないもんで。
心の中でほくそ笑みつつ、これからもこの味が食べたいというだけの好奇心で、ラシェルは尋ねた。
「ところで、お米はこの辺りしか作ってないって仰いましたけど、販売はしてないんですか?」
収穫は一年に一回。この村の農家、二十世帯程が稲作作りに従事しているようで、収穫の三分の一は出来栄えを確認する意味も込めて領主であるラシェルの父が買い上げているそうだ。残りは地元で販売するものの、知名度が低いせいか大半は自家消費となっているらしい。モノは輸入したが、食文化まで取り入れることに考えが及ばなかったようで、作ってはみたものの地元に根付かなかったという典型例のような有様だ。特産品とは名ばかりの失敗事業、今では負の遺産と言って過言でない分野だろうが、規模からしても相当の初期投資をしているはず。領主自ら手掛けたことから、英断の難しい事業であることも察しがついた。
ともあれ、米喰い虫のラシェルにとっては、何ともありがたいことに違いない。帰ったら早速、ジータに訊いてみようと思った。毎年、収穫した米を父が囲っているとのことなので、多分どこかに大量の在庫を抱えているはずだ。米を扱ったメニューが食卓に並んだ記憶はないが、きっと彼なら何か知っているに違いない。
おにぎりに炊き込みご飯、お茶漬け、リゾット、チャーハン…………何でもござれ!
明日から始まる目くるめくご飯ライフに密かに心躍らせながら、そろそろ市へ行こうと誘うディルクの声に頷いた。
いや、せめてサブタイトル「水と米」だろうと思いつつも、このまま突っ走ります…