11.それぞれの落としどころ
「うぎゃ――!」
ゴロゴロゴロ、ゴロゴロゴロ。
その日の夜、入浴後。
自室のベッドの上で、思い出し恥ずか死ぬを繰り返しては、真っ赤な顔を両手で隠し、絶叫しながら転がり続ける。
「ぬご――――!!」
ゴロゴロゴロ、ゴロゴロゴロ。
ファーストキスだった。間違いなく。前世含めて、人生初のキス!!
何で、何でそんな記念すべきイベントを、あんな男に、しかも死亡フラグ立てちゃったような凄みを効かせた顔で、人を殺すみたいにされにゃならんのだ。
「うが――――!!!」
ゴロゴロゴロゴロ、ゴロゴロゴロゴロ。
「お嬢様、そろそろ就寝の時間ですぞ」
冷静なデボラが突っ込む。
「分ぁかってるうぅぅぅぅぅぅぅ!!!!!」
ゴロゴロゴロゴロ、ゴロゴロゴロゴロ。
いや。こんなの絶対、ノーカウントだ。こんな、互いに愛のないキスがあってたまるか。
枕に顔を埋め、息を荒くして忌々しく歯噛みしながら憤慨する。
野良犬に噛まれたとでも思って忘れよう。
よし、と頷き、右手に拳を作って自分を納得させる。そのまま勢いよくバタンと仰向けになり、ラシェルは天井を見て深呼吸した。
不意に、去り際に見た彼の寂しそうな後ろ姿が頭を過り、思わず目を瞑る。
そう言えばディルク、何か凄く怒ってたな…………。
頭に上っていた血が漸く下りてくると、少し冷静に相手のことも考えられるようになってきた。ラシェルはゆっくりと重い瞼を開けて、再び天井を仰ぐ。
あんな酷いことをしておいて、なのに彼の方がよっぽど傷ついた顔をしていた。
どうしてあんな、まるで怯えた猫のような瞳をしていたのか。
その豹変ぶりにますます彼のことが分からなくなったけれど、それでも一つ、ラシェルが確信したのは、自分でも気付かぬうちに彼を酷く傷付けてしまっていたという事だ。
自由を奪った仕返し、みたいなこと言ってたから、多分あれだ。浮気禁止令。
ボフン、と寝返りを打ち、ふかふかの枕に再び顔を埋める。
やっぱしたいよなー、浮気。男の甲斐性とか言うもんな。ヤりたい盛りに、結婚もする前から去勢されたら、そりゃ誰だって怒るに決まってる。まずったなー。ホント、自分のことしか考えてなかった。
ラシェルは表情をどんよりと曇らせたまま、溜息を吐く。
このままだと、結婚したら八つ当たりで酷いセックス強要されそうだ。
今にして思えば婚約の際、彼が確約を求めてきたのは、男の自由を奪ったラシェルに対し必ず凌辱してやるという報復だったのだ。
うん、あれはしそうだよな。初めてでキメセクとか普通にありそうだし。そうなったらトラウマどころか廃人まっしぐらだよ。命の危機だよ。婚約のあの日に、両家の親の前で「死が二人を別つまで」とかキザなセリフ言ってくれちゃってたけど、洒落にならんぞ。本気で殺しにかかってきそう。腹上死とか、エロ漫画じゃあるまいし絶対嫌だ。
なんか、もう……いまさらだけど、愛人でも妾でも第何夫人でも、外でわんさこ作ってくれていいからセックスだけは勘弁してとか今からでもお願いできないかなー。いや、多分出来るよね……ちょっと時間を置いてから、探り入れてみよう。あの感じなら、イケそうな気がする。
婚約の日は何だか小難しいことをあれこれ考え過ぎてしまったけれど、お互い紙の上だけの契約で、自由に恋愛なり人生なりを謳歌した方が、よっぽど気楽で幸せだ。何より、政略結婚の相手とセックスしないでいいなんて、これほど気楽なモノはないじゃないか。実子が欲しいなら余所で作ってもらえばいいし、二人の子供は頃合いを見て養子でも迎えたら、それで十分な気がする。要は私が他の男との間に子どもを産まなきゃ、あっちの脅威にはならないわけで、その辺りは契約書に改めて盛り込むとして……。
うん、と気合を入れて頷く。
ビバ! 政略結婚!
目下、不安材料が消えたところで、そのままラシェルは夢の中へと落ちていった。
翌朝、朝食を済ませた後、ラシェルは離れに行き彼の部屋をノックする。
「どうぞ」
簡単な返事に、扉を開けたラシェルは顔だけ覗かせ、おはようと挨拶した。
その声に、弾かれたようにディルクが顔を上げる。一瞬ギョッとした表情を向けるも、すぐさま手にしていた書類に再び目を落とした。
「何か、用?」
視線を書類に走らせたまま、ぶっきら棒にディルクが訊く。
「厩舎に繋がれた白い馬、貴方のなんですってね」
「それがどうかしたか」
「昨日は久しぶりに、馬の手入れに厩舎へ覗いたみたいだったのに、邪魔してごめんなさい」
「ああ……厩務の彼から聞いたのか」
ええ、と頷く。
「貴方、乗馬も得意なの?」
「得意というか……乗れなきゃ商売にならないからな」
ピラ、と資料を一枚はぐる。ラシェルと話しながら、けれどディルクはかなりのスピードで書類に目を通していた。
「仕事の手が空いた時で構わないんだけど、教えてもらえないかと思って……その、……乗り方とか」
読んでいた書類から目を放し、ディルクは改めてラシェルを見て言った。
「手は空かないが、仕事の効率を上げる為にも外へ出て気分転換なら可能だ。その際、少しなら付き合える。それでよければ」
「よかった。ありがとう、それで十分よ」
微笑みかけると、バツが悪そうにディルクは下を向いた。昨日のことを一応、反省はしているようだ。
その後、十分ほどでディルクが仕事を一区切りさせ、着替えて二人、厩舎へ向かった。
「へっ? 君、本当に一度も馬に乗ったことがないのか?!」
頷く私を、穴が開くほどディルクが見つめる。昨日、ラシェルが親に話したトレーニングも、勿論、馬に乗ることを含めての物だと思っていたようだ。
「意味が解らん」
まぁ、普通そうだよね。馬術部入って数ヶ月、基礎トレしかしてないなんて誰も思わない……ラシェルだって、思いもよらなかった。
「私くらい体重があると、馬が潰れるかもしれないって先輩が」
「いや、さっぱり意味が解らん。確かに出会い頭、一度潰された俺が言うのも何だが」
あ、やっぱり潰れてたのか。
「とにかく俺と一度、一緒に乗ってみよう。その方が感覚も掴みやすいと思うし」
事も無げに言うディルクにラシェルは蒼褪め、ぶんぶんと首を横に振った。
「だっ、だめ……! そんなことしたら、確実に馬が死ぬ」
「死ぬ?」
「ただでさえ重い私に加えて、二人乗りなんて馬が絶対耐えられないわ。痩せてからじゃないと一人でだって乗せられないって、学院ではきつく言われてるもの」
「じゃあ、俺から何を教わるつもりだったんだ?」
「えっと……乗れるようになった時の、コツとか……」
「それこそ意味が分からん」
ですよね……。私は一体、何がしたかったんだろう。
何だか空回りの自分に嫌気がさして、溜め息混じりに肩を落とす。そんなラシェルを見て、ディルクが改めて訊いた。
「重いって…………君、かなり背は小さいし。実際今、体重どれくらいあるんだ?」
うぅっ……、レディにそれを聞きますか。
平民だって、そこは普通躊躇うでしょと心の中で反論したが、彼に格好つけても仕様がないので、正直に話す。
「ろ……63キロ、くらいかな……?」
一応、乙女の矜持で端数は斬り捨てさせてもらった。細い子はいいかも知んないけど、私みたいなデブだと本当繊細な領域なんだよ、ココ。本当は。
ちなみに前回の健康診断で身長142センチだったから、身体は殆ど球体だ。
「ふぅん……でもそれくらいなら、どの馬でも大概、大丈夫だと思うけど」
不思議そうにディルクが首を傾げる。
生まれてこの方、馬になんて乗ったことがないから耐荷重の相場みたいな見当もつかず、先輩に言われるがままだった。けれど良く考えてみたら、目標体重も何も設定されたりはしていない。
ここにきて、はたと気付く。あのトレーニングは、馬に乗れるよう前向きにダイエットさせるためのものではなく、ラシェルに根を挙げさせて自主退部を促すための、純然たるシゴキだったのだ。ラシェルの見た目の悪さが部のイメージを下げるとでも思ったのだろうか。手っ取り早く辞めさせるための、要は嫌がらせだったに違いない。
んなろー、あの部長。よくも謀ってくれたな! ……って、いや。もともとダイエット目的で入部したんだから、結果Win-Win……か?
「とにかく、俺の馬なら全然、余裕だ。両脇に酒樽抱えて山越えとか平気でしてきたし。心配いらないから、一緒に乗ろう」
そう言って、ディルクはひらりと飛び乗ると、馬上からラシェルに向かって手を差し伸べる。その仕草に、ラシェルは思いがけずドキリとした。
この人、すごく身のこなしがいい。
以前は痩せすぎて異形に拍車をかけていた長い腕や脚が、今は長身に映える。男性らしい武骨さはあるものの、差し伸べられた手の細く長い手指は、素直に綺麗だと思った。
顔だけ見なかったことにしたら、まるで白馬に乗った王子様のようだと思う。
「今、物凄く失礼なこと考えなかったか?」
「ううん! まさか」
心を読むスキルでも持っているのかと一瞬背中に冷たいものを感じたが、そんなはずはないと冷静に独り言つ。
改めて彼の手を取るも、この巨体を馬に乗せるのは一苦労だぞとラシェルが身構えていたら、ひょいとディルクは自分の前にラシェルを跨がせた。
この細腕の、どこにそんな筋力があるのかと度肝を抜かれるくらい力強かった。彼の胸に背中から抱かれるような距離で、ラシェルは男女差というものをまざまざと感じる。
ラシェルの手に、自分の持っていた綱を渡して
「これが手綱。って、そんくらい知ってるか。乗ったら必ず、背筋は伸ばして……」
言いながら、背中から腰まで背筋を伸ばすように手で擦る。
その後も要領を得た教え方で、あっという間にラシェルは一人で馬に乗れるようになった。
「ま、あとは慣れだな」
ラシェルを一人馬に乗せ、その横で自分は歩きながら下から見上げる形で、ディルクが満足そうに言った。
「ありがとう」
「いや、礼には及ばない。じゃ、俺はこの辺で仕事に戻るよ」
手綱をピートに渡して、靴に付いた土を払う。去り際、あの、と気まずげに声を掛けられた。
「?」
「昨日は、悪かった。その……色々と……」
おずおずと口にしながら、ディルクが謝る。
「ああ……」
そのことなら、とラシェルは続けた。昨日したキスの件だ。どこか居心地悪そうに目線を下に向けて口籠る姿から、謝罪したい彼の気持ちが伝わってきてラシェルは微笑む。
「そのことなら、気にしないで。私も気にしないことにしたから」
「えっ」
「そんなことより私、きっと知らないうちに、貴方を傷つけていたのよね」
ごめんなさい、と今度はラシェルが謝った。
「そんな……君が謝らないでくれ」
「だから、痛み分けという事にしましょう? 貴方のお陰で、馬にも乗れるようになったことだし」
昨夜、ベッドで考えを巡らせたことで妙案を得ていたラシェルは、いつそれを切り出すかといったことに問題の焦点が変わっていたため、他はどうでもよくなっていた。
「あ、けど一つ、言い訳させてもらってもいい?」
「うん?」
「昨日、私が貴方のことを可哀想と思ってるって、そう言ったでしょう?」
「あ、ああ……」
気まずげに目を泳がせながらもディルクが頷く。
「それは誤解よ。そんなこと、今まで一度だって思ったことないわ。ただ、……フェアじゃないって、そう言いたかったの」
「……」
「貴方にとっては大した違いのある言葉じゃないかも知れないけど、どうしても伝えたくて。こんなこと今さら言って、独りよがりでしかないのは分かってるけど……私たちは、貴方が尽くしてくれていることに対して、きちんとお返しができているのかなって不安になったの」
これでも私なりに、貴方にはとても感謝しているのよと告げる。
本心だった。昨日の一件で彼の恐ろしい一面も垣間見たけれど、あの瞬間の自分は確かに、こんな風に思っていた。
彼らなりの商才が働いてこの政略結婚を持ち掛けて来たのだろうが、借金まみれの貧乏伯爵家からすれば渡りに舟の有難い話であったことに違いはない。もっと安く買い叩かれても文句など言えない立場であることも、理解しているつもりだった。
ディルクが俯き加減にそうかと呟く。勘違いして悪かった、とも続けた。彼に謝ってもらいたくて話したことでは無かったので、思いがけず沈痛な面持ちを見せる彼にラシェルは慌てた。それに気づいたディルクが、気を取り直した様子で顔を上げる。
「ところで来週、フィールドワークで隣町へ調査に行く予定なんだ。よかったら、今日教えたことの実践がてら、君も一緒に来ないか?」
やや伺いの色を混ぜつつも、ラシェルに提案してきた。
「い、……いいの?」
思いもよらなかった彼の言葉に驚きつつ、しかしラシェルは声を弾ませた。
両親の過保護もあって、ラシェルはこの歳まで碌に領地さえ回ったことがなかった。この世界の文明が、どこまで進んでいるかも興味があったので、絶好の機会に思えた。
ラシェルの反応に、決まりだなとディルクが苦笑して返す。いつもの表情に戻った彼を見て、ラシェルもホッとする。
来週までに、もっときちんと馬を乗りこなせるよう練習し、初めての旅を楽しみたいとラシェルは心躍らせた。
ディルクは馬の耐荷重を甘く見積もっていますが、多分、彼が身長のわりにまだ軽かったのだと…
二人乗りもごく短時間の内に終わらせ、…なにより馬ががんばった。
そういうことにしておいていただけたらと…m(__;)m