10.冷たい唇
それから半月の間、ディルクに渡す食事のうち何か一品はラシェルがジータに教わりつつ作って、直接彼の部屋に持って行くことが習慣になった。というのも、最初の五日ほどだが下げ膳を取りに行くと、ジュースの時と同じく何も言ってないのにラシェルが作った物だけ消えていたのだ。何の偶然かそれともジータの教え方がよっぽど上手だったのか、理由は分からないけれど作った物を食べてくれるのは純粋に嬉しい。しかも自分が作ったものだけとなれば、ちょっとした優越感も擽られた。
六日目あたりからは、量の問題もあるのかジータが作ったあっさり目の品も一つ、二つと消え始め、今では完食するまでに食欲が回復した。くっきりと出ていた死相も消え失せ、窃盗犯くらいの形相にまでは戻ってきている。……結局、怖いことに変わりはないんだけど。
「ご心配をおかけしました」
家族揃ってのティータイムにディルクも呼んで、広間に集まり皆でお茶を楽しんでいた時のこと。紅茶に口を付ける父に向って彼が深々と頭を下げ、礼を述べた。
「いや、いや。以前、隣国へ君に会いに行った時と随分感じが変わっていたから、何かあったのかなぁとは思っていたんだけど。ずっと、体調不良だったんだね」
契約書を交わすため彼ら父子がフィリドール家を訪れるより前に、父がディルクに会っていたとは初耳だった。元気な彼の姿を知っていての、放置プレイ。天然なのか、計算なのか。ともあれ、さすがお父様としか言いようがない。
「原因も解らず、体力には自信があったので、そのうち治るだろうと安易に考えていた僕のミスです。けれど、ラシェルの献身に救われました。何とお礼を言って良いか……」
何だろう。何なんだろう、この狸ども……!
ディルクも自分のことを「僕」とか言っちゃってるし。しかも何だ、そのしおらしい態度は。つーか、そういうセリフは、美形が言ってナンボだぞ。ガリガリの時よかは随分マシになったけど、それでも三白眼の犯罪者面は健在だからな。人相の悪いお前がいくらキレイゴト言ったって、何も響いてこないからな。
お茶を口に運びつつジト目でディルクを睨み付ける、そんなラシェルの心の声を引き継いだかのような勢いで、それまで口を噤んでいた母が話に割って入った。
「そのことで、ディルクさん。今までは病床の体にムチ打ち、我が領の仕事もこなして下さっていたので口を出さなかったのですが、そろそろラシェルが使用人のようなマネをするのは、辞めにしてもよろしいわよね」
有無を言わせぬ物言いで、ディルクに迫る。
お母様、そういうお気持ちで今まで私のことを見て下さっていたのですね……!
てっきり、女のくせに料理の一つもできやしないと呆れられていると思っていたが、良く考えたら貧乏とはいえ、ウチも一応伯爵家。特に、嫁いできた母は生粋のお嬢様気質で、爪の手入れも実家から連れて来た侍女にさせている程、自分のこと一つ何もしない……否、それが普通の貴族か。
もともとデボラが寄る年波で、全てを任すには忍びないと思い、ラシェルは小さい頃から自分にできることは密かに自分でこなしていた。記憶を取り戻してからは、さらにそれに輪をかけて自分のことは自分でしている。着替えにしても、入浴にしても、正直恥ずかしいし。
「勿論です。食事も通常の物が食べられるようになりましたし。ただ、僕の方から切り出して良いものかと思案していたところでしたので、仰っていただけて、ありがたいです」
うんうん、と満足げに頷く母。
二人の遣り取りを目の当たりに、ラシェルは思わず固唾を呑む。確かにこれは狸してないと保たないわーと、何だかディルクに同情の念さえ湧いてきた。
生活に窮しているとはいえ、伯爵家と一平民。
同じ空間を共有しながら、ラシェルの目にも身分の壁が、はっきりと見えた気がした。
今までの自分では気づかなかったもの、気付きたくもなかった身内の目を覆いたくなる部分に、ラシェルは居た堪れない気持ちになる。
ふと、時計に目を遣った。ちょうど動いた針が、三時半を指す。
「ごめんなさい、お父様、お母様。私そろそろ運動の時間ですので、これにて失礼させていただきます」
席を立ち、軽く会釈した。
「運動?」
訊く母に、頷き答える。
「学院で、馬術部に入ったことはお話ししましたよね。馬に乗るにも、体力をつけるよう先輩方にご指導いただき、夏の間もトレーニングを欠かさぬよう言われているんです」
にっこりと微笑み、そう言い置くとラシェルはどこよりも居心地が良かったはずの両親の元から離れた。
広間からの去り際、ふと思う。
ディルクは自分と結婚しても、あの両親が亡くならない限り本邸で過ごすことはないのかもしれない、と。
「馬、乗らないのか?」
運動する時はいつも着ている軽装のまま、厩舎の壁に凭れていると後ろから声を掛けられた。
「ディルク……」
振り向くより先に、口から名前が零れる。流石に声くらいは覚えた。
「どうして、ここに?」
「それは俺のセリフ。トレーニングとやらをするんじゃなかったのか?」
運動を口実にティータイムを抜け出して来たが、正直、先程までの毒気にやられて、なかなか身体を動かす気になれなかった。準備運動と軽く庭を一周走っただけで、何だか動物に癒されたい気分になって、気が付けば勝手に足がここへと向いていた。
父の現実主義的な冷酷さ。
母が使用人たちを、そしてディルクをどういった目で見て来たか、そして見ているのか。
前世で公平・平等を教え込まれてきた記憶も相まって、今、自分が生きている身分制度の存在する世界とどう折り合いを付ければいいのか、どうにも混乱していた。
「そんなことよりディルク、貴方って凄いのね」
「は?」
突拍子もなく放たれたラシェルの言葉に、ディルクが間の抜けた顔をして返す。
「何だ、急に……?」
僅かに頬を染め、しかし納得いかないという表情で聞いてくる。
「逞しいなと思って。それとも平民って、皆そうなの?」
「だから、何言って……」
「お父様もお母様も、貴方を同じ一人の人間として扱ってないことが分かってて、私達と家族になろうだなんて、よくそんな決断できたわよね」
「…………」
きょとん、とした目でディルクはラシェルを見つめる。
「貴方と会って、その後、ウチは欠片だってお金を出していないわ。全部、貴方の家からの持ち出しでしょう? 領地経営だって、殆ど貴方に丸投げしようとしているし。こんな、広いだけで資源も地の利も何もない土地……。だからこそ、行き詰ったっていうのに」
その上、娶る女がこんなデブスじゃ、本当に救いようがない。にも拘らず、浮気禁止令とか私も出しちゃうし。
「なのに、こんな扱いなんて……貴方が」
「可哀想?」
クツクツと肩を震わせ、ディルクが苦笑する。長身の彼が一歩、また一歩と近づき、ふいに地面に片膝を付いたかと思うとラシェルに目線を合わせてきた。驚き、身を強ばらせていたら、今度は所謂、壁ドンしてラシェルに迫る。
「本当に可哀想なのは、君の方じゃないか?」
漆黒の瞳の奥が、仄かに紅く揺らめく。
弱い者をいたぶるのが本当に楽しいといった声色で、彼は不敵に微笑んで見せた。
「君は贄に差し出されたんだよ、実の両親に。しかも、こんな下賤な民の子を孕むという確約までさせられて」
ニィ、と口元を歪めて昏く笑みを象る。
「さぞ屈辱的だったろうね。……あ、でもそれは君の責任か。上手く立ち回れば、回避することも出来ただろうに。人の自由を、当然の権利と言わんばかりに奪うようなことを言ってきた君が悪いんだ。本当に、いいご身分だよな、貴族様ってのは」
犯罪者顔というよりは、もう既に何人もの命をその手に掛けてきたかのようなドス黒い圧が、ラシェルの全身を蹂躙する。
人間は、本当の恐怖を感じた時、身動きが取れなくなる事をラシェルは初めて知った。
どうして……どうして私は、こんな男を……助けるような真似、してしまったんだろう…………。
悔しさというより、絶望という文字がラシェルの頭に浮かんだ。
あの時、中途半端な罪悪感から、手料理なんて柄にもないことするんじゃなかった。やっぱりいっそ、あのまま見殺しにしておけば今頃、私は晴れて自由の身だったかもしれないのに。恋だって、自由にできた――――。
直立不動のまま引き攣るラシェルの顔に、ふと影が落ちる。
それはまるで、映画のスローモーションのような動きで……ディルクの顔がゆっくりと近づき首を傾げたかと思うと、そっと瞳を閉じて……ラシェルの唇を奪った。
押し当てられていたディルクの唇が柔らかく離され、再び目を見開いた彼は絞り出すような声で呟く。
「お前はバカだ。本当に、バカだ。バカで、バカで……救いようのないバカだ」
言葉とは裏腹に、僅かだがその声は震え、瞳は微かに潤んでいた。
「俺はお前みたいな人間が、この世で一番、大嫌いだ」
吐き捨てるように言い放つと、ディルクはそのまま逃げるように厩舎を立ち去る。
この人は、今までずっと一人で生きてきた人なのかもしれない――――――へたり込むようにその場に崩れ落ち、脱力しながらラシェルは、何の根拠もなくそう思った。