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第二章

 そうして終わったロゼルとの対面から早数日。

「ユウリス様。今日……、ロゼル様はどちらに?」

「先程、お庭で日向ぼっこをなさっているのを、見ましたけど……」

 二人は顔を見合わせ、肩をすくめた。

 ここ数日、ティリス達は殆どロゼルと会えていない。

 仕事に入ってから数日は絵をあまり描かない、とティリスも聞いていたため、その点に関しては何か思うわけではない。だが、対象を観察する、のではなかっただろうか。ティリスは首を捻った。

 観察するというならば近くにはいるだろうから、話す機会もあるはず、と息巻いていたティリスは、肩透かしを食らった気分だった。何故ならロゼルは、本当にたまに見かける程度。それ以外、ティリスの日常にさしたる変化は無かった。

 いつものように朝起きて、ユウリスと仕事をし、夜になれば眠る。たまに視界の端にロゼルが映る以外、本当に何も変わりがなかった。

「ロゼル様は、何を考えてらっしゃるのでしょうか……。」

 何故、わざわざ理由を付けて呼び出したにも関わらず、未だに接点がないのか。ティリスは溜息を吐く。

 これでは何のために呼んだか分からないと、うーむと考え込んでいるティリスを見かねたのか、苦笑交じりの声でユウリスが口を開いた。

「それなら、今日の午後は、仕事はお休みにして、殿下とお話なさってきてはどうです?」

「え、でも……。」

 思考を巡らしながらも動かし続けていたティリスの手がピタリと止まった。そんな彼女に、ユウリスも手を止めて微笑んだ。

「今日は急ぎの仕事もありませんから、後は私だけでも何とかなりますよ。」

 それは確かにユウリスの言う通りだった。だがそれでも、良いのだろうかと不安げな表情のティリスにユウリスは続けた。

「もし、何かあればお呼びしますから。…大丈夫、城内にはいらっしゃるでしょう?」

 そこまで言われたら、さすがのティリスも頷く他なかった。

「そうですね……、わかりました。ユウリス様、後はお願いいたしますね。」

「ええ。」

 ユウリスの任せておけ、という頷きを見たティリスは、今のうちに少しでも彼の仕事を減らしておこうと、再び手を動かしはじめた。




 昼食後、ユウリスの提案通りにティリスはロゼルを探して、城内を歩いていた。朝にユウリスがロゼルを見かけたという庭にも足を運び、その姿を探してみたティリスだったが、やはりその話を聞いてから時間が経ち過ぎていたため、彼はどこにもいなかった。

 仕方なくティリスは、ぷらぷらとあてもなく城内を歩く。

 時折彼女は、すれ違った人々にロゼルの居場所を聞いては見たものの、誰も姿を見ていなかった。だが、城外に出た、という話も聞かなかったので、ティリスは根気強く城内を歩いて回っていた。

 時刻も夕方近くになった頃。ティリスが庭のベンチに腰掛け、小休憩をとっていると、後ろから、ボスンと何かが落ちる音がした。ティリスが驚いて振り返ると、そこには洗濯籠と思しき物を床に落とした侍女がいた。

「ジ、ジーナ?」

 目を真ん丸にしている見知った彼女を見て、ティリスははてを首を傾げる。

 何をそんなに驚くことがあったのだろう。

「へ、陛下! こんな所で、どうなさったのですか? ま、まさか、具合でも……!」

 ティリスの声にはっとしたジーナは、ティリスの傍まで駆け寄ると、前に回り込んで、顔色を確認する。そして、彼女はティリスに一言断ってから、その手首をとって、脈を確認した。それに困惑したのはティリスだ。

「ジーナ? 少し休憩をしていただけよ?」

「休憩……! やはり、御身体の調子が!」

 何故か慌てて医者を呼びに行こうとするジーナを、なんとか引き留めて、ティリスは事情を説明する。

「はあ、ロゼル殿下に……。」

 状況は理解したようだったが、未だ釈然としない様子のジーナに、ティリスは首を傾げる。

「事情は分かりました、けれど……。本当に、どこか痛かったり、しんどかったり、とかではないんですね?」

「ええ、大丈夫。……どうして、そこまで?」

 普段大人しい印象のジーナがここまで慌てる理由が、ティリスにはとんと理解できなかった。だが、ジーナは眉根を寄せた。

「どうして、って……。陛下、今まで何があっても休もうとして下さらなかったのに…。急にこんな事をしたら、誰だって心配になりますよ?」

 そうジーナに言われ、ティリスははっとする。確かにここ五年というものの、殆ど休みをとっていなかった事を。

 ジーナをはじめとした侍女たちも、王宮に勤める官吏たちも、当然休みはある。それぞれ交代で適度に休暇はとっているのだ。だが、王なのだからこんなものだと思っていたティリスは、今まで休暇など考えた事すらなかった。そして彼女の一番近くにいるユウリスも、当然のように毎日出仕していた為、ティリスのその考えに拍車をかけていた。

「そ、そういえば、お休みなんて、とっていませんでしたね……。」

 そしてティリスは思い出した。午後になってから城内を歩いていた時、見かける人見かける人、目を丸くしていたのは、そういうわけだったのか、と。

「これからは、定期的に休みをとるようにするわ……。」

 どうしてこんな当然の事に気が付かなかったのかしら、とティリスは考える。ユウリスが休み無しで働いている事が、大きく影響を及ぼしているのは間違いなかった。

 ユウリス様にも、お休みを取るように言おう。

 そう心に決めたティリスだった。

「それは良いですね。……あ、それで、ロゼル殿下をお探しだったんですよね?」

 うんうん、と大きく頷いていたジーナは、突然思い出したようにぽんと手を叩いた。

「私、さっきお見かけしましたよ。」




 ジーナがティリスに教えたその場所はティリスもまさか、と思い探していない場所だった。

 城に幾つかある尖塔。その内の一つに上るための螺旋階段を、ティリスは一人上っていた。薄暗く狭いその階段は、上っても上っても終わらぬような気がして、実際より長く時間がかかったようにティリスは感じた。

 暫く無言のままに上っていると、一筋の光が差し込む。

 やっと階段は終わりらしい。

 それを登り切ったティリスは、塔の中の沈殿した空気を吐き出し、新鮮な空気を取り込むように、一度大きく深呼吸をした。

「ロゼル様……?」

 外の光に目が慣れると、ティリスはその前方に一人の人影がいる事に気が付いた。

「やぁ、ティリス。」

 そう言って、ティリスの方へと振り返り、手を挙げたロゼルは座っていた。

 柵の無い、塔の縁に。

 ロゼルは足を外に放り出して、ぷらぷらと動かしている。それを見て、さあと血の気が引いたのはティリスだった。

「ロ、ロゼル様!」

 慌ててロゼルに駆け寄る。だが、慌てるティリスを見ても、ロゼルはどこ吹く風といった風情で動こうとしない。

「あ、あぶないです!」

「大丈夫だよ。」

 どうしてそんなに平然としていられるのか。ティリスはロゼルを揺さぶって問い詰めたい気持ちにかられた。だがそんなことをして落ちたら大変なので、万が一にも当たらないように、ティリスは少し距離をとって叫んだ。

「落ちたらどうするんですか!」

「大丈夫だって。僕、魔法は得意だよ?」

 たしかに、魔法で空を飛べば死ぬ事はない。だが、とっさの時にそれを出来るか、といえばそれはまた別問題だ。

 だが自信満々な様子で動こうとしないロゼルに、ティリスは説得は不可能と判断し、仕方なく、彼にもう少しだけ近付いて腰を下ろした。

 もちろん、しっかり床のある所に。

 それを見て、ロゼルは面白そうに笑った。

「君こそ、そんな所に直接座っていいの? ティリス女王陛下?」

 くすくすというからかい混じりのその言葉に、ティリスはちょっとだけむっとして、いいんです、私は、と返した。

「そんな事より。ここで何を?」

 こんな何もない塔の上で、一体何をしていたのか。

 だが、その問いにロゼルはきょとんと、目を瞬かせる。

「何、って……。ほら、見なよ。ここからの景色、綺麗でしょう?」

 ロゼルは前方を指差す。そこには城下の町並みと畑、それから大きな川が見えた。そこで日々の生活を営む人々まではさすがに見えないが、人々の息遣いが聞こえるような気がした。

 その光景に目を奪われたティリスは、暫くそれに見惚れた後、陶然と呟いた。

「そうですね。とても、きれい………」

 日の光を受けて輝く水面、葉が青々と茂る畑。

 こんなにも身近にあったのに、いつも書類に追われて、ティリスが目を向けてこなかったものだった。

「ね、たまにはこうして、ぼんやりするのも良いでしょう?」

「そうですね……。……でも、ロゼル様は、ここ数日ずっと、こうでは?」

 この数日間、ティリスが聞いたロゼルの様子は、庭で座っていた、木陰でうたた寝をしていた、日向ぼっこをしていた、というものばかりだった。ティリスにしてみれば、もう十分だろうと言いたくなるほどだ。

 ロゼルもそれについては反論する気はないらしく、ティリスの言葉に頷いた。

「僕はそうだね。……じゃあ、君は?」

「私、ですか?」

 頷くロゼルを横目に、ティリスは思った。先程のジーナの反応、それ以外にも廊下をすれ違った人達の驚いた顔だ。

「休みをとっていなかった事、さっき反省したところです……。」

 ティリスがこの五年で休んだ、とはっきり言えるのは、即位して一年ほど経った時、高熱を出して倒れた時くらいだ。その時でさえもティリスが、自分は大丈夫、まだ出来る、と言って聞かないのを、ユウリスはじめ、周りに必死に止められた末だ。軽い風邪なら、ティリスは気にも留めない。

 それを思い出して、これは心配されて当然だわ、とティリスは改めて反省した。

 ちょっぴり凹むティリスに、ロゼルは肩をすくめる。

「ま、気楽にいきなよ。―――ね、ユウリス。」

「え?」

 ここにいるはずのない人の名前に、ティリスがまさかとびっくりして振り返ると、ロゼルの言葉通り、そこにはユウリスがいた。

「い、いつからそこに?」

 突然のユウリスの出現に、動揺し言葉に詰まりながらティリスは尋ねる。

「つい先程ですが……。お邪魔したようで、すみません。」

 ロゼルは、一体いつ気が付いたのか。当然のように、現れたユウリスを受け入れる彼と裏腹に、ティリスの心臓は、まだ早鐘を打つようだった。

「邪魔なんて事はないよ。ねぇ、ティリス。」

「は、はい。……あ、もしかして、何かありましたか?」

 何かあったら呼びに行く、と言っていたユウリスがここにいる。という事は何かあったのかもしれない、そう思うとティリスの動揺していた心は、驚くほど冷静になった。

「いえ、火急の要件、というわけではないのですが……」

 歯切れの悪いユウリスは、ロゼルを気にするように、彼にちらりと視線を送った。なら、執務室に戻ろうと、ティリスは腰を上げかける。

 だが、ティリスが立ち上がる前に、ロゼルがそれを制した。

「いいよ、僕ちょっと用事を思い出したから。」

 そう言うが早いか、ロゼルはさっさと立ち上がって、それじゃあね、と手をふりふりして行ってしまった。

 あまりの早業に、ティリスもユウリスもただ呆然とその様を見送る。

 暫くして、ようやく我に返ったユウリスは、小さく苦笑して言った。

「人もいませんし、お言葉に甘えましょうか。」

「そうですね。」

 ティリスもつられるように笑った。




「それで、何があったのですか?」

 ユウリスが先程までロゼルが座っていた所より、少しだけティリスに近い場所へと腰を下ろす。

「ええ……、今年の初めの土砂災害、覚えてらっしゃいますか?」

 ティリスはもちろん、と頷く。当然、ユウリスもティリスが忘れていると思っていたわけではなく、それはただの確認だった。

 今年の春先の事。王都から南西にある山脈の麓で、大きな土砂崩れがあった。

 春になり例年より一気に暖かくなったことによって、雪解けが急速に進み、その結果の土砂災害だった。人的被害は、幸い住民達の自主避難により、それほどではなかったが、大きな町の三分の一ほどが土砂に埋まり、住むところを追われた人々の数は、かなりのものだった。

 とはいえ、それももう半年も前の事。魔導師達の派遣により、その土砂も殆どが間もなく撤去され、今は住居の再建が着々と進められていた。彼の地の領主からも援助要請の嘆願書に変わり、感謝の言葉が贈られるようになっていた。

 それが、今更どうして出てくるのかと、ティリスは不思議そうな顔をしている。

「復興は進んでいましたよね?」

 当然の質問にユウリスは渋い顔で一応頷いた。

「ええ、そうだったのですが……」

「だった?」

 ユウリスの引っかかる物言いに、ティリスも何かを察したのだろう。ぐっと表情を引き締めて、ユウリスの言葉を待っている。ユウリスも渋い顔のまま、つい先程上がってきたばかりの報告を口にした。

「それがどうやら、少し前の長雨で、今度は水害が発生したようなのです。」

 ティリスは目を見開き、言葉に詰まっている。だが、次第に思考を取り戻したのか、震える声で尋ね返す。

「長雨って……、今から一月は前の話…、ですよね?」

 長雨が問題となったのは、今年の夏の話だ。日照不足による農作物への被害が心配されていたが、幸いそれほど大きな被害は出ず、ティリス達もほっとしていたはずだった。

「ええ。ただ、その水害で下流の橋が流されてしまい、迂回して山を越えていた為、報告に時間がかかったと。」

 情報をもたらした伝令によると、流された橋を使えばもっと早くに王都まで着くことが出来ていた。だがそれが無くなった事で、山の方を回る羽目になった。その上、未だその山は土砂災害からの復旧が進んでおらず、所々道なき道を進む事を余儀なくされ、こんなにも時間がかかってしまった。橋があるからと、山道の整備を後回しにしたことが裏目に出たのだ。

「魔導師はいなかったのですか?」

 外部との連絡手段は人が直接出向く、というのがやはり一般的だが、それ以外にもいくつか方法はある。その一つが魔導師達の魔法による通信だった。これは力の強い魔導師でないと出来ないため一般には難しいが、土砂災害の復興で魔導師達の内、数人は残っていたはずだった。

「それが……、この距離の通信魔法ができる魔導師は、大方の土砂が撤去出来た後は、こちらに戻ってきてしまっていたようで……。」

 距離が遠ければ遠いほど、その魔法は難度が上がる。当然それが出来る魔導師は数が少なく、彼らは基本的に用事が終われば、すぐに王都へ帰還するのが鉄則とされていた。

 魔導師を責める事は出来ない。

「………わかりました。」

 ティリスは、難しい顔のままふう、と息を吐いた。

「魔法省に連絡は?」

「既に。」

 災害時、魔法の行使を生業とする彼らの手を借りない手はない。魔法は使い方を誤れば、恐ろしい力にもなるが、こうした自然の力に対しては、大きな助けとなる。崩れた土砂を山へ返したり、氾濫した水をあるべき流れへ戻したり。人の手でするよりもはるかに早く、日常へ戻っていく足掛かりとなるのだ。

 その魔法の力は、国民の殆どが多かれ少なかれ持っているが、そうした大きな力を操ることが出来るのは、ほんの一握り。その一握りの人々の多くが所属している機関、それが魔法省である。

「魔導師の到着はいつになりそうですか?」

「伝令と同じ道を辿る事になるでしょうから、一月はかかるかと。ただ、一部は橋のあった場所を飛び越えられるでしょうから、もう少し早く着手できるでしょうね。」

 魔法を使えば空も飛べる。ただ、魔法を使い過ぎれば魔力を消費し、いざという時に使えなくなるため、基本は一般民と同じく、徒歩か馬、馬車などで移動する。しかし一部には、少し空を飛ぶくらい、どうという事もない人もいる。そういう人達は山を迂回する必要などない。

「それでも…、結構かかるのですね……」

 ユウリスも彼女の気持ちは痛いほどに分かるが、こればかりはどうしようもなかった。運ぶのは魔導師だけでなく、救援物資もだ。魔導師達が到着すれば通信魔法も使え、もっと早く情報がもたらされるが、今はこれが精一杯だ。

「ティリス……。」

「私に出来る事は、本当に少ないですね……。」

 しょんぼりと力なく笑うティリスに、ユウリスは胸が痛くなる。

「ティリス、私達にも、出来る事は限られています。」

 たとえどれほど望もうとも、人は万能になれはしない。ティリスもユウリスの言葉に力無く頷いた。ティリスとて、そんな事は分かっている。

 だが、万能にはなれずとも、王と聖魔導師という地位にいる二人がとれる手段は、民達よりもはるかに多い。

「だからこそ、今は出来得る限りの事を、精一杯しましょう。」

「………そうですね。」

 ティリスの顔に、ふわりと笑顔が戻る。

 ティリスのその笑顔にユウリスもほっとして、表情をゆるめた。

「……、もう、夕刻ですね。」

 ユウリスはついと視線を動かし、沈み始めた夕陽、そしてそれに照らされ赤く染まる城下を見つめる。

 これ以上、何も起こらないといいのだが。

 その紅い空は、何故かユウリスの心に、一抹の不安を落とした。




 その次の日から、ロゼルはティリスやユウリスの周囲に、積極的に現れるようになっていた。

 はじめはそうして、傍でスケッチしているロゼルの姿に、落ち着かなかった二人だった。だが三日も経てば、すっかり慣れてしまい、執務室の隅に座っているロゼルを見ても、誰も何も思わなくなった。

 一方のティリスはというと、ジーナから情報が流れたらしく、あの日の夜、本当に元気なのか、と侍女達に問い詰められて以降、定期的に休暇をとるようにしていた。ユウリスにも言おう、という彼女の決意通り、ティリスはユウリスにも休暇を勧めた。

 だが結局彼はというと、ティリスと一緒に休暇をとり、その休暇には彼女の顔を見に城へ上がっては、来たついでだからと仕事を捌く。

 全く休暇になっていない事に気が付かないのは、本人達ばかりであった。


 そんな風なティリス達が日常を過ごし、早半月が経つ。今日は二人が休暇をとった日だが、例によってユウリスは城へと上がり、だが、珍しく二人は大人しくお茶を楽しんでいた。

 その傍には、そんな二人やまわりの植物など、気になったものをあてどなく描くロゼルの姿もあった。

「西の獅子の国と東の獅子の国が、また戦争を始めたそうですよ。」

 ユウリスはお茶を一口飲み、そういえばと何でもないように話し始めた。

「またですか……? 二代か三代前、和平を結んでませんでした?」

 ティリスも、手慰みに持ってきた刺繍に針を刺しながら答える。

「ええ、ですが西の方で王権が変わり、反故にしたようです。」

「……懲りませんね。前も同じような事、ありましたよね?」

 ティリスの手の中で、糸の花は大輪を咲かせている。

「砂の国と湖の国、ですね。あそこは、水供給の約定を破ったのでしたね。」

「あのさ、」

 それまで黙っていたロゼルが急に口を開いたのに驚いて、二人は顔を上げる。寄り添うように座るティリスとユウリスに、ロゼルは苦笑いを零す。

「こんな時くらい、仕事の話、やめたら?」

 そう言われた二人は、仕事? と不思議そうな顔をしている。

 自覚がなかったのか、と二人にロゼルが肩を竦めると、二人は顔を見合わせて首を捻った。

「まあ、いいや。ティリス、何刺してるの?」

 ティリスの手元を覗き込むと、真っ赤な花が一輪あった。だが、ティリスはそれをさっと隠し、ロゼルから見えない位置に置く。

「へ、下手なので、あまり見ないでください。」

 勿論、本職と比べれば上手くはない。だが、素人としては決して下手ではないとロゼルは思った。しかし、どことなくユウリスの視線が痛かったロゼルは、そっか残念、とだけ言って身を引いた。

「ロゼル様こそ…、どんな物を描いていらっしゃるのですか?」

「ん、見る?」

 ロゼルは絵を描き溜めた紙を、ひょいとティリスに渡した。彼女の隣に座るユウリスも興味深げに覗き込んだ。

「わぁ……!」

 ティリスやユウリスの姿はもちろん、城の風景や城に勤める人々まで、様々なものが描かれている。二人は互いの姿を追って、そのスケッチ達を見ていた。

 似た者同士だなぁ、とロゼルは、そこに描かれる互いの姿をじっくり見ては、頬をゆるめる二人を見て、しみじみ思っていた。

「そういえば……、ロゼル様って、昔は空想の世界を描いてらっしゃいませんでした?」

 一通りその絵を見た後、ティリスは思い出したように言った。

「そうだね、母上の冒険譚をお聞きして、それを想像して描くのは好きだったね。」

 というか、今でも好きだな、とロゼルは思う。彼の母、先の王妃は女性の身でありながら、剣と魔法の腕だけで大陸中を旅していた。聖魔導師として印に選ばれた後は、国内で王妃業に奮闘していたが、息子達には幾度となく、自身が冒険した中で出会った人や物について語って聞かせていた。

「私も、トリシア様のお話は、大好きでした。」

 今はどこの空の下にいるのか。息子達をある程度の年まで育て上げた彼女、トリシアは、現在放浪癖が再発していた。

「母上の話を聞くのは、僕と君くらいだったからね。」

 ロゼルの他の兄弟達は、何故あの話に無関心でいられるのかと、ロゼルには信じられないほどに、それらの話に興味がなかった。その点あの話の数々を、ロゼルと同じように前のめりで聞いていたのは、ティリスだけだった。

「ロゼル様は、トリシア様のように国を出て、とは思わなかったのですか?」

 不思議そうに尋ねる彼女が言うように、ロゼルにはそういう選択肢もあった。

 幼き日に聞いた話を、今度は自分の目で見に行く。それも悪くはない。

 だがロゼルは首を振る。

「僕は…、今の生活が気に入ってるからね。」

 あの話に見た海を、草原を、人々を、見たくないといえば嘘になる。

 だが、こうして腰を落ち着けている方がロゼルの性にはあっていた。だからロゼルは、母のように旅をしようとはあまり思えなかった。

「君は、思ってたの?」

 ロゼルが問い返すと、ティリスは難しい顔で考え出す。

「どう、でしょう…。世界を見てみたい、とは思いますけれど。」

 今の仕事を擲ってまでは行けない、と思っているんだろうな、とロゼルは思った。

 なんて真面目なのか。王妃の仕事をほっぽりだして冒険へ出かけた、どこかの母親とは大した違いだ。

「もし、君が王ではなくなる時が来たら、行きたい?」

 ロゼルは苦笑して、質問を変えてみる。その問いに、一瞬ティリスはきょとんとした表情を見せたが、一、二もなく頷いた。

「その時は、世界を旅するのも、楽しそうです。ユウリス様と一緒なら、何処へだって。」

 ね、と微笑むティリスに、一瞬ユウリスの頬が赤くなったのを、ロゼルは見逃さなかった。頬の赤さを誤魔化したユウリスだったが、口元は緩く綻んでいる。

 当然のように、彼女が二人傍にあり続ける未来を語ったことが、とても嬉しかったのだろうと、ロゼルはにやけそうになる口元を抑えた。

 そして、ロゼルは少しだけいじわるをしたくなった。

「そっか。それなら、その時は、僕もついて行こうかな。」

「いいですね、楽しそうです!」

 一瞬だけ鋭くなったユウリスの眼光に、少し胆が冷えたロゼルだったが、本心からそう言うティリスを見て、ユウリスにちょっとだけ同情した。

 もしそんな未来が来たとするなら、さすがについて行くというのは冗談だ。だが、王宮を出た二人が、どんな表情を見せるのか、それにはロゼルも興味が湧いた。

 そして、ロゼルはちょっとだけ考えた後、こんな提案をした。

「そういうことなら、ティリス。」

「はい?」

 何ですか、と首を傾げるティリスに、ロゼルは口角を上げた。

「今度、三人で出かけようよ。」

「「え?」」

 ティリスとユウリスは、きょとんとした顔でロゼルを見た。




 そういうわけで、さらに半月後。ティリス、ユウリス、ロゼルの三人は王都へと繰り出していた。

 お忍び、というわけで、裕福な商家の娘とその兄、それから彼らの叔父、という設定だ。護衛は表立っては連れてきていないが、付かず離れずの位置から複数人が取り囲むように付いてきている。

 幸い本日は晴れ、絶好のお出かけ日和だった。町の広場で馬車を降り、ティリスはうーんと伸びをした。いつもより些か短めのスカートがふわりと揺れて、本当に城下にいるのだと、ティリスはわくわくしていた。

 興味津々、といった様子で、辺りをきょろきょろと見渡すティリスとは裏腹に、ユウリスは、最後に馬車を降りた楽しそうな様子のロゼルに、まったくと肩を竦めた。

「画材を買いたい、というなら、そう言って下されば……。」

 そう、よくよく聞いてみれば今回のお出かけは、ロゼルが画材を買いたい、というものだった。

「だってね、そんな事言ったら、商人を呼びます、って言ったでしょ、君。」

 そう言われると、ユウリスも反論できない。そもそも何があるか分からない城下町に、ティリスを連れて行く事自体、ユウリスは反対だった。とはいえ、お出かけ、という言葉に目をキラキラさせているティリスに、止めましょうとはさすがのユウリスも言えず、今日を迎えている。

「まあ良いじゃない、ティリスは嬉しそうだし。」

「……、まあ、そうですね。」

 初めて見るものばかりのティリスは、ただの町を歩く人々ですら物珍しかった。

「お二人とも、早く行きましょう!」

 早く町を見て回りたくてうずうずしていたティリスの声に、男二人は慌ててその後を追った。

 町の露店を見て回り、昼ご飯代わりに食べ歩きをした。

 一通り歩き回った後、休憩しようと噴水の縁に腰掛けて、ティリスは揚げパンのようなものをかじっていた。ほんのり甘いそれは、素朴な味だったがとても美味しいものだった。ティリスが最後の一口を口に放り込んで、指をぺろりと舐めると、ユウリスが取り出したハンカチで、彼女の指を丁寧に拭いてゆく。

 ユウリスに拭われる自身の指を見つめながら、ティリスはぽろりと呟いた。

「なんだか、お二人とも……、手慣れてらっしゃいません?」

 町を歩く様子や、店主とのやりとりなど。二人ともそれらをそつなくこなしており、とても初めて来た、という様子ではなかった。

「僕は、よくこうして買いに来るからね。」

 ロゼルはさも当然、というように返す。現在王都の外れに住む彼は、画材だけでなく、日々の生活に必要なものも、ちょくちょく買いに来るとの事だった。

 本当に、彼は王族なのだろうか。市井の生活にあっさりと馴染む彼は、本当に不思議だと、ティリスは改めて思った。

 ティリスの指を拭き終わったユウリスは、そのハンカチを畳みながら、どこか難しい顔で言った。

「私は……若い頃、アルノール様と何度か。」

「そうなのですか?」

 アルノール、ティリスの先代王の事だ。ユウリスと先王は、若い頃から仲が良く、友人同士であるため、交流があることに関してはティリスも驚きはない。だが、二人が城下に遊びに出ていたという事については、少なからず驚いた。行動的なのは王妃だけではなかったらしいと、意外な気持ちでティリスはそれを聞いていた。

 こっそり城を抜け出していた手前、言い辛かったが故に、ユウリスは変な顔をしていたのだった。

 だが一方、この発言に驚いているのはティリスだけで、ロゼルはふーんと反応が薄い。

「父上、結構町に出てるよね、今も。」

「「今も?!」」

 こればかりは、ティリスはもちろん、ユウリスも知らないようだった。

 そうこうして話が一段落した頃、ロゼルがさて、と言って立ち上がった。

「そろそろ僕は画材を見てくるよ。結構かかると思うけど……、君らはどうする?」

 と聞かれても、よく分からないティリスは、ユウリスの様子を窺う。だが、ユウリスも同じように首を傾げている。そんな二人にロゼルは、ふっと笑いを漏らして言った。

「せっかくだし、二人で観光でもしてきたら?」

 さっきは、商店しか見てないでしょう、とロゼルは続ける。確かに、ロゼルの買い物にただ付き合うだけよりは、色々な所を見ることが出来る方が、楽しそうだ。そうティリスは思った。

「そうしましょうか、ティリス。」

「はい!」

 ユウリスも賛成したので、ティリスは嬉々としてそれに頷く。それを見てロゼルも満足そうに頷くと、それじゃあ、と片手を挙げた。

「夕刻に落ち合おうか。」

 それだけ言うとロゼルは、またねと言って、あっという間に人並みに紛れて行ってしまった。




 ロゼルが一人で行ってしまった後、ユウリスとティリスは、ロゼルの提案通り王都をまわっていた。

 ありふれた住宅街を歩き、王都に流れる大河を見て、その対岸に見える緑の草葉がそよぐ田園を眺めた。城下に住む人々には、きっと日常の一コマでしかないそれらだったが、殆ど外に出たことのない彼女にとっては、全てが輝いて見えたのだった。

「少し、休憩しましょうか。」

 ユウリスがそう言ってティリスを連れていったのは、王都に張り巡らされた水路の傍にある東屋のような場所だった。ティリスをそこに座らせて、ユウリス自身も彼女の対面に座る。

「どうですか、初めての町歩きは?」

 始終にこにこしているティリスは、ぱっと目を輝かせて、満面の笑みを見せた。

「とっても楽しかったです! はじめて見るものばかりで……!」

 前のめりになって今日見たものについて、あれこれと語るティリスは珍しい程に興奮していた。ユウリスが思う以上に、楽しかったようだった。

 秋の冷たさを含んだ風が、二人の間を通り抜ける。ティリスはふわりと持ち上がった髪を手で押さえて撫でつけた。

「紙の上の情報だけでは、知ることが出来ないもの……。いっぱい、あるんですね。」

 城下の人々の暮らし、紙面の数値で知ることが出来るものだけでは、その全てを知ることは出来ない。いや、きっとこうして歩くだけでは、知ることが出来ないものは沢山ある。それでも、直接その目で見たものは、確かに彼女の中で息づく。

 ユウリスも若りし頃、当時は王子として身軽な身分だった友と見た、感じたあの気持ちを思い出していた目を細めた。

「また、来ましょうか。」

 だから、そんな言葉が自然とこぼれた。

「え、良いんですか?」

 つい言ってしまった言葉だったが、期待に目を輝かせるティリスを見ると、ユウリスもその言葉を撤回する気にはならなかった。

「危ない事はしてほしくないですけれどね。……たまになら。」

 嬉しい、とはしゃぐティリスを見て、絶対にまた連れてこようと、ユウリスは顔を綻ばせた。

「そろそろ時間も少なくなってきましたね。」

 空を見上げれば、日は少しづつ傾きはじめている。

「……そうですね。」

 残念そうな顔で呟くティリスにユウリスは苦笑する。

「ティリス。」

 ユウリスは立ち上がってティリスの傍まで来ると、その手をとって彼女を立ち上がらせた。

「な、なんですか、ユウリス様?」

「最後に一ヶ所、付き合ってもらえませんか?」

 きょとんとするティリスにユウリスは笑って、彼女の手を引き、歩きはじめた。




 ユウリスは慣れた様子で辻馬車を拾い、それにティリスと乗り込むと、王都の中心街を離れていく。人々の喧騒が遠のき、辺りは静かになっていった。

 ティリスはどこへ向かっているのだろうと、隣のユウリスを窺うが、彼は微笑むばかりで答えてはくれなかった。

 林を抜け、暫く進んだところでようやく馬車が停まり、ユウリスに手を引かれるまま、ティリスは地面へと降りた。

 黒い金属の華奢な柵で囲われたその場所は庭園のようにも、墓地のようにも見えた。

 門の無い入口を抜け、まばらに生える木々を縫うように走る道を、ティリスはユウリスと二人歩いていた。

「ユウリス様、ここは……?」

「見えましたよ。」

 ユウリスが指差す先には、二人の人物の石像が、厳かに立っていた。互いの背を守るように立つ二人。この国に生まれて、知らぬ者などいない。

 戦乙女と聖魔導師の像だ。

 同じものは町の中心や、王宮にもあり、ティリスも何度も目にしている。

 だが、何故こんなところに。

 ティリスは首を傾げた。彼女達の死後、こういった像は数多く造られたが、その多くは人々のよく集まるところに建てられている。だがここは、市街からも外れ、人の気配はない。今この場にいるのは、ティリスとユウリスの二人だけだ。

「ここは、我が国が建国するに至った、最後の戦があったとされる場所です。」

「ここが……。」

 暴虐の限りを尽くした統一帝国からの脱却を目指し、挙兵した初代王。その悲願を成し遂げたのが、今ティリス達も立つこの場所だったのだ。

 ユウリスは石像の台座にそっと触れる。

「元は広い原野だったそうですが…。ここで死んでいった兵達の墓標代わりに、この木々は植えられたそうです。」

 国の礎となった者たちを偲ぶその細い若木は、この百年余りで成木へと育ち、今はまるで二人の像を守るかのようだった。

「この静かな場所でただ二人、こうして立っておられるのを見ると、身が引き締まる思いがしませんか?」

 ティリスは高い位置にある、二人の像を見上げた。真っすぐに先を見つめる初代の女王。

 人々の中にある彼女とはまた違い、その目はティリスが今まで感じていた慈悲や慈愛よりも、固い決意がその胸にある事を感じさせる、そんな気がした。

 彼女は何を思って、戦場に立ったのか。自分は彼女に恥じない王であれるだろうか。

「ティリス、私は……、初めてこの場に立った時、彼のようになりたいと思いました。」

「彼…聖魔導師様に、ですか?」

 ティリスは戦乙女の姿から目を移し、その隣にある初代聖魔導師の像を見る。傍らの彼女と同じ方向を見つめ、女王と守る男の姿だ。

「そう。当時はもちろん、本当に自身が聖魔導師になるとは、思っていませんでしたが……。生涯唯一の人の、その隣に…、堂々と立ち続けられるそんな人に、と。」

「生涯、唯一……」

 聖魔導師になると思わなかった、とユウリスは言った。だから、きっとその唯一、というのは、自身と出会う前、先王の事だろうとティリスは思った。

 ユウリスは先王の即位以前から、ずっと彼の傍で、彼に仕えてきた人だ。だからきっと彼は聖魔導師にならなかったならば、先王の譲位と共に、王宮から一線を退いていたのではないかとティリスは思っていた。それ程に、ティリスが即位する以前の彼は、先王の為に一途に働いていた。

 ユウリスを彼の意に反して、王宮に縛り付けているのではないか、そんな不安が込み上げた事は、一度や二度ではない。ティリスはそれを、ずっと心の片隅に抱えていた。

「その人は、ずっと先王陛下だと思っていました。」

 やっぱり。ついそう思ってしまう。

 だからもう、貴女の元にはいられない。

 ティリスの恐怖が生み出す想像の中で、ユウリスが言う言葉。それが現実のものとなってしまうのではないか、とティリスは思わず耳を塞ぎたくなった。だが何とかそれを我慢して、ティリスはユウリスの言葉の続きを待った。

 しかし、ユウリスはティリスの気持ちと裏腹に、いつもの優しい笑みを浮かべていた。そして、口を開く。

「でも、―――違った。」

 ティリスは、はっとして顔を上げた。

「だからここで改めて、誓いをしたかったのです。」

 ユウリスはティリスの右手を取る。そこには二人を繋ぐ印があった。

「私はたとえ、この印が消える日が来ようとも……、貴女が私の手を離すその時まで、貴女の傍で、貴女を守り続けると誓いましょう。」

 言い終わると、ユウリスはティリスのその印に口付けを落とした。

 頬が熱くなる。そして、熱くなったのは頬だけではなかった。

「なら…私にも、誓いを。」

 ティリスはユウリスの左手を取る。

「私はたとえ、この印が消える日が来ようとも、貴方がこの世からいなくなるその日まで、貴方が誇れる主であり続けると誓います。」

 そして、ユウリスがしたように、ティリスも彼の左手、その印に口付けを落とした。

「ユウリス様……」

 ティリスはユウリスの手を離さぬまま、それに額を押し付ける。

「ありがとう、ございます。」

 ティリスの目から零れた雫が、ユウリスの手を濡らした。

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