第一章
この国の頂点に君臨する、ティリス女王陛下の朝は早い。
夜も明けきらぬ内に目を覚まし、着替えをして、髪を梳かす。そうしていると山の端から太陽が顔を出し始めるので、カーテンを開けて、その光を身体で受け止めながら思い切り伸びをする。
そうこうする内に侍女達が朝食を持って、部屋を訪ねてくる。「お目覚めですか?」という問いに、「えぇ、おはよう。」と返すと、彼女達は満面の笑みで、こう返すのだ。
「おはようございます、陛下。」
いつもの朝の風景だった。
即位から五年目ともなると、皆もうすっかり慣れてしまったが、はじめからそうだったわけではない。
はじめの日は大変だった、とティリスは懐かしげに微笑む。
まず、彼女達が起こしに来る前に、ティリスが起きているという事に侍女達は青ざめた。時間を間違えたと思ったのだ。勿論、彼女達は正しい時間に来ていたのだが。
そして、次に既に開いているカーテンを見て、彼女達は頭を抱えた。
それからなんと言っても極めつけは、ティリスが既に着替えを済ませていたことだった。それを見て、ある者は卒倒し、ある者は泣き崩れた。彼女達は自分の存在意義を疑ってしまったのだった。
そういったわけで、彼女達を宥めることが女王として、ティリスが一番はじめにする仕事となってしまった。だが今となっては、それも笑い話だ。
それから紆余曲折を経て彼女達には、朝食を持ってきてもらい、髪を結ってもらう。そんな今の形に落ち着いた。彼女達が、着替えも手伝わせてほしそうな顔をしている事は、ティリスも気が付いていたが。何とか懇願し、今のところ見逃してもらっているティリスだった。
この至れり尽くせりの生活にこれでも頑張って慣れようとしている。などという事を、ティリスがもし言おうものなら、彼女たちが怒るのは目に見えている。そのため言いはしないが、ティリスは髪の毛だって、後ろに一つ括りしておけば十分だと思っていた。勿論、自分で。
だが、彼女達は唯一の腕の見せ所と言わんばかりに、毎日嗜好を凝らして結い上げていくため、最早ティリスも口を挟めなかった。
今日も今日とて、ティリスが朝食を口に運ぶ後ろで、その髪の毛は美しく結い上げられていた。
「さあ、出来ましたよ、陛下!」
食後の紅茶に手を伸ばす直前に、嬉々として告げる侍女に微笑みながら、別の侍女が持つ手鏡で出来映えを確認する。
「ありがとう、いつも素敵に仕上げてくれますね、リア。」
「ありがとうございます、陛下。」
彼女の嬉しそうな顔にティリスも満足して頷く。
こうしてもらう事に慣れたのは、一体いつの事だっただろう。
即位してすぐの頃のティリスは、これでも恐縮しきりだった。
ティリスはちらりと視界に映った自身の右手、その甲にある小さな印を、そっと撫でる。
五年前、この印が現れるまで、こんな風に毎日を過ごすようになるなど、ティリスは考えたこともなかった。
右手の甲に刻まれたその印。
それを宿す者が、この国の王となる。それが、この国の建国以来の定め事だった。
話はティリスから数えて十代ほど前に遡る。
それは初代、この国を建国した女性の時代。「戦乙女」と呼ばれた彼女は、後に王配として、宰相として、国とそして彼女を支えた男と共に、神からある力を授けられた。
二人で一つの力。
それは、彼女らを建国へと導く、大きな力となった。
そしてその力は、今なおその血族達に引き継がれ、受け継がれている。その力を持つ者の証が他でもない、ティリスの右手に浮かぶ印だった。
そしてもう一人。
「おはようございます、ティリス。」
ティリスより十ばかり年上の男が、ティリスのいる執務室へと入ってきた。
「はい、おはようございます。ユウリス様。」
ユウリス。彼こそが、ティリスと同じ印を、彼女とは違い、左手に宿した人物だった。
戦乙女と彼を支えた、聖魔導師と呼ばれた男。そのそれぞれが宿した力を、ティリスとユウリスは受け継いでいた。
ティリスは戦乙女と同じように王座を、ユウリスは聖魔導師の称号と、王の傍近くにある栄誉を、印の継承と共に授かった。
もう、五年も前の話である。
「ああ、ティリス。これ、届いた御手紙と書簡ですよ。」
そう言って、ユウリスは手に持っていた紙束をティリスの座る机の上に置いた。
多くは知人からの手紙や、優先度の高い書類、今日使う資料などだ。すぐに使うものばかりだが結構な量だった。だが、ティリスにとっては毎日の事。慣れた手つきで、彼女はひとまず手紙の束を手に取った。
知った名前を見て微笑み、時折手紙を貰うような仲だったかしら、と首を傾げるような名前もあったが、ティリスはぱらぱらと差出人を確認していく。
だがその中で一通。ティリスは手を止め、それを引き出した。真っ白なその手紙を裏、表とよくよく確認する。だがそれには差出人も無く、そしてやたらと綺麗だった。撚れたような所もなく、また、差出人不明にも関わらず、中身が検められた形跡もなかった。
見るからに怪しい。ティリスは、少し困った顔をし、ユウリスを呼んだ。
「ユウリス様、これ……」
聖魔導師であり宰相でもあるユウリスは、室内にある彼用の机に座り、早々と仕事をはじめていた。だが、ティリスの呼びかけに手を止めた。
「手紙ですか?」
ユウリスは席を立つと、ティリスの近くまで寄って、その封筒を受け取った。そして、先程ティリスがしたように、その手紙をしげしげと検分した。一通り見終わると、ユウリスは小さく溜息を吐いた。
「開けますね。」
ティリスが頷いたのを確認して、慎重に封を切った。
そして、その封が半ば開いたとき、その中からシャッと黒い影のようなものが飛び出した。
「きゃっ」
突然のそれにティリスは思わず悲鳴をあげる。
そうしている間にも、その黒いものはティリスの方へと距離を縮めていた。そして、もうすぐそれが彼女に届くか、という時。
それは突然燃えた。
何の前触れもなく燃え始めた黒い影のようなものは、その場で動きを止め、そして散り散りになって消えてしまった。
「ありがとうございます、ユウリス様。」
突然発生した炎が消えるのを、平然と見守ったティリスは、安堵したように息を吐いて、ユウリスに微笑む。
そう、先程の炎はユウリスが魔法で発生させたものだった。ユウリスは持っていた封筒も指ではじき、同じように燃やした。それは瞬く間に燃え上がり、灰も残らず消えてしまった。
「このくらい、いいですよ。それより、お怪我は?」
「ユウリス様のおかげで。」
ユウリスは、ないですよと笑うティリスの顔をじっくり眺めた後、その手を取って、本当にどこにも傷が無いか確かめた後、よかった、と息を吐いた。
「それにしても、またですか…。」
ユウリスは眉根を寄せ、不満げに呟く。
この手紙が届いたのは初めてではない。
先程の黒い影は、所謂呪いのようなものの一種だ。
とはいえ、嫌がらせ程度の威力しかなく、精々転びやすくなったり、といった不運が増える程度のものだ。そして、あの黒い影が対象に憑りつくまでならば、専門家でなくとも、先程のように魔法で始末が出来る。
このように、危険性は低いのだが、厄介なのが、なんと言ってもその頻度だった。少なく見積もっても十日経たないうちに、また来るのだ。ティリスの困り顔は、半分くらい呆れの気持ちが占める。
「また、第一王子…でしょうか?」
ユウリスはそれに答える気にもならず、溜息を吐いた。
第一王子、まだ未婚で子もいないティリスの、ではなく、先王の第一王子の事だ。
彼は自分こそが次の王だったはずだと、ティリスを半ば逆恨みしている。
というのも、今、ティリスにこうして王印が引き継がれているのだが、ティリスは先王の姪に当たる立場で、御子ではなかった。しかし、今までの継承者を見れば、全て時の王の子供たちの誰かが次の王となっている。
ティリス達の印の継承は異例だったのだ。
「何とかしたい…ですが、相手が相手ですしね。」
ユウリスは溜息を吐いた。
あまりに分かりやすい嫌がらせの為、誰がしているのかは一目瞭然。なのだが、相手が言い逃れ出来ないような証拠がなかった。そのため、二人にはどうする事も出来ず、ただ日々舞い込んでくる嫌がらせを、呆れ顔で捌く他なかったのだった。
「まったく……、証拠さえあれば、どうとでも出来るのに……」
数日置きに来る呪い入りの手紙に、最早慣れ始めているティリスとは対照的に、ユウリスはいつも真剣に怒っていた。ユウリスが自分の分まで怒ってくれているような気がして、ティリスは不謹慎ながら、いつもそれを嬉しく思って見ていたのだった。
「……そうだ、王子で思い出しました。」
暫くぷりぷりと怒っていたユウリスだったが、はっとしたように部屋の端にうず高く積まれている紙の塔を指差した。
「そろそろ、押さえるのは無理そうです、あれ。」
ティリスはその言葉に、うぐと呻いた。
ずっと見ないふりしてきたのだが、ついにか。
ティリスはその紙たちをちらりと視界に入れて、それからぱっと目を逸らした。見なかったことには出来ないだろうか、とユウリスの表情を窺うもユウリスは無言で首を振る。
「どうしても……?」
「ええ。」
貴族達がうるさいのだ、とユウリスも辟易した顔で言った。
ティリスはもう一度、積まれたその紙達を見る。あれは、全てティリス宛ての物だ。一応、彼女も一度は目を通したのだが、考えたくないとあそこに放置していた物。
全て、見合い相手の姿見だった。
王家の血を一滴でも引く未婚の男が老いも若いも、片端から集められていた。
そもそもの問題は、今年二十一になるティリスが、結婚はおろか、婚約者さえいないことに起因する。本来なら即位当時に、せめて婚約くらいはしてもよかったのだが、そうはできない訳があった。
王の結婚相手として前例にかなう、誰からも文句の出ない人物がいなかった点だった。
決して法律に定められている話、という訳ではないのだが、不文律として、王の伴侶には二つ絶対条件があった。
一つは、王族であること。血を薄めぬ為、と自然と出来た決まりだが、末端まで含めると、王族と呼べる人物は、かなりの数がいるので、それほど難しい条件ではないはずだった。
そしてもう一つ。それは、王と聖魔導師が異性同士である場合、聖魔導師を伴侶とする事、である。これの唯一の例外は、弟と姉で印を継いだ二代目のみ。それ以外は必ずこの条件が守られてきていた。
そしてこの二つの条件は、先王の時代まで難なく守れるものだった。
だが、ティリス達は違った。
それは、ティリスが先王の御子でない、という事に加え、もう一つ異例があったからだ。
ユウリスは、初めて王族以外から出た聖魔導師、だった。
それ故に、一つ目の条件を優先すれば、二つ目の条件が守れず、二つ目を優先させれば一つ目が守れず、という状況になってしまったのだった。
困った上層部の高官達はそれを保留とし、即位から五年経った今もって、決まってはいないのだった。
「自分達が決められないから、って、私に丸投げというのは、どうかと思うのですが……。」
決定に苦慮した結果、最終決定はかなり前にティリスへと委ねられていた。だが、いつまでもこの問題を放置しているティリスに痺れを切らしたらしく、ここ一、二年というものの、未婚男性達の肖像画が続々と送られてくるようになっていた。ここ数代で王家の娘が降嫁した家も含まれており、それはかなりの数にのぼった。
どっさりと送られてくるそれらに、ティリスがうんざりするのは、当然時間はそうはかからなかった。とはいえ捨てる事もできず、こうして部屋の隅に積み上げられていた。だが即位から五年経ち、ティリスも、十代後半には結婚する娘の多い中で、未婚としては少々年嵩になってしまった。
そういう事もあり、最近はユウリスに直接お伺いをたててくる者までおり、ティリスも何度かその場面を目撃している。ユウリスは何も言わなかったが。
どうして、こんな難しい問題に限って、一人で考えなくちゃならないの……。
ティリスは大きく溜息を吐いた。いつものティリスなら、何か難しい問題に直面した時は、ユウリスの助言を頼りにしてきた。自身より十以上年上で、先王の時代から国の中枢にいた彼は、物の道理もよく心得ており、政務に不慣れだったティリスをよく導いている。
だが、今回の問題は、彼自身が当事者。決して彼がそれによって偏った意見を言うとは思っていないティリスではあったが、それでも聞く事は、さすがに憚られた。
とはいえ、そう言っていられる段階は過ぎてしまったらしい。
仕方がない、とティリスは口を開いた。
「もし、王族の中から選ぶとするなら……、誰がよいと思いますか?」
結婚相手の条件を二つとも満たす人物がいない以上、どちらを重視するかが問題となる。要するに、聖魔導師なのか、王族なのか、だ。
聖魔導師は一人しかいないが、王族はあの肖像画の山でも分かるように複数人いる。ならば、一人づつに絞ってから考えた方が、建設的だろうとティリスは思ったのだった。
問われたユウリスは、そうですね、と少し思案した後、ティリスも思っていた通りの答えを返した。
「やはり、先王陛下の御子の御三方から、というのが現実的では?」
「そう、ですよね……。」
ユウリスは頷いて、言葉を続けた。
「その御三方の中では、ですが……。勿論、第一王子は当然却下ですが、第三王子も、私としては反対ですね。」
「一応聞きますけれど、理由は?」
「野心がありすぎます。」
ティリスも、そうですね、と首肯した。
第三王子は第一王子ほど、あからさまな何かをしてくるわけではないのだが、やはりティリスに王印が現れた事に関して、不満を持っていた。王配などに収まれば、どうなるか分かったものではない。
「それじゃあ、第二王子についてはどう思いますか?」
残った一人について聞いてみるが、ユウリスは難しい顔のまま頭をひねっている。
「悪い、というわけではないのですが…。今一つ何を考えている方なのか分からないので……。何とも言い難いですね。」
そう、ユウリスの言う通り、第二王子はかなりの変わり者だった。権力には興味がないようだったが、突然突拍子もないことをはじめては、宮廷人達の度肝を抜いていた。決して、悪い人ではない。だが、不思議な人、というのがティリスの第二王子への印象だ。
だが何にせよ、政争の火種にはなりそうにないという点で、最も適任なのは間違いなかった。
「なら、王族からとする場合は、第二王子…、ロゼル様が第一候補ですね。」
確認のようにティリスは呟いた。だが実を言うと、ここまでならティリス一人でも答えが出ていた。
真の問題はここからだ。ティリスはいつもここで思考停止してしまう。
どうしたものかと、ティリスは項垂れた。
「本日はお越しいただきまして、ありがとうございます。」
客室に通された一人の青年に、ティリスは笑顔を向ける。
「こちらこそ。声をかけてくれて、ありがとうね。」
その青年は、緊張した風もなく、ごく自然にティリスの前にあるソファへと身を沈めた。
彼の名はロゼル。そう、件の第二王子、ロゼルその人だった。
話は、一週間前のあの日に遡る。
聖魔導師と王族。どちらを王配とするのか決定を迫られるティリスは、それでもやはり決め切れずに、結局、悩みに悩んだ末にユウリスに相談した。
どちらがいいと思うか、とはさすがに聞けなかったティリスは、こう聞くことにした。
「何を基準に選べばいいと思いますか?」
その問いにやはり困った顔をしたユウリスだったが、それでも一つの助言をティリスに授けてくれたのだった。
「ならば、ロゼル殿下と一度、じっくりとお話しする機会を設けてみては?」
確かに人となりをよく知れば、何か変わるかもしれないと、ティリスは思った。
この五年、常に傍にいてくれたユウリスと違い、ロゼルとはそれほど仲が良いというわけではない。勿論、二人は従兄妹同士であるため、言葉を交わしたことはある。顔を合わせれば喋りはする、他の第一王子や第三王子に比べれば、断然良好な関係ではある。だが、ティリスはロゼルについて、人の噂程度の事以上は知らなかった。
特にティリスが即位して以降は、王都の外れへと居所を移したロゼルと王宮で過ごすティリスとは、全くといっていいほど接点がない。
それならば、改めて会ってみるのも良いかもしれない。
そう思ったティリスは、ロゼルと会ってみる事にした、所までは良かった。だがティリスは、はたと我に返った。
どうやって会えばよいのだろう。
一番簡単な手としては、当然王宮へ呼び出す、というものだった。だが、今まで殆ど交流のなかった彼を、突然、何の理由もなく呼び出す女王。
どう考えても、ついに王配が決定したのかと、周りは期待する。後で、まだ決まってません、と言えなくなるのは、ティリスとしては大変困る。
そして、考えに考えた結果、今回の運びとなったのだった。
「まさか、本当にお引き受け下さるだなんて、思いませんでした。」
お茶を運んできた侍女が退室し、ユウリスがティリスの後ろに控えるのを、ちらりと確認してから、ティリスはそう切り出した。
「またまた。今上陛下とその聖魔導師。その二人の初の肖像画を描かせて頂けるなんて、画家の誉れだよ。」
元々笑ったような顔をしているロゼルは、どこまで本気で言っているのか分からない笑顔のまま、出されたお茶に口を付ける。
そう、ティリス達が周りに詮索されぬように、ロゼルと会う方法として考えたのがこうだった。
過去、王と聖魔導師は、在位中に一枚以上は、二人揃った肖像画を描かせてきていた。年に一度という頻度で描かせていた代もあったくらいなのだが、ティリスもユウリスも然程興味が無かったため、この五年間で結局一枚も描かれていなかった。
だが今年は、即位から五年という節目の年という事もあり、数ヶ月後のティリス女王の御代五周年の祝賀行事にて、一枚制作しようという話が出ていたのだった。
そろそろ画家の選定をしようとしていた所。ティリスはその事を思い出したのだ。
彼自身は、趣味だよ、と嘯いてはいるものの、名だたる貴族達から、是非にと乞われている実力の申し分のない画家だ。身分も知名度も確かで、ティリス達の思惑を抜きにしても、今回の肖像画を描いてもらう画家として、適任な人物の一人だった。
そんなわけで、これ幸い、とこの機会に飛びついたティリスだったが、実際問題として、ロゼルがこの仕事を受けるかどうか、というのは五分だった。
本当に、受けてくれて良かった……。
前に座るロゼルを見て、ティリスも漸く湧いてきた実感にほっとする。
というのも、彼の仕事の選択基準が、傍から見るに全く一貫性がないのだ。
身分の高低でもない。報酬の有無でもなく、また、一度受けた相手でも断ったりと、彼のきまぐれ、としか言えないのだ。それ故に、彼の気が向かなければ、相手が王であろうと、どれだけ金を積もうと、断られる可能性は十二分にあったというわけだ。
「それで。こっちが出した条件は守ってくれるんだよね?」
「はい、勿論です。ロゼル様。」
彼の言う条件というのは、それほど難しい条件ではない。
これは、絵の依頼人全てに提示される条件なのだが、それというのが、絵の完成までの間の依頼者宅への宿泊と、衣食住の準備だ。何か高価なものを、というわけではない。本当にただ、寝て起きて絵を描ける場所と、生命維持に必要なだけの飲食物、着られる程度の服。ただそれだけで、一度地方の孤児院で風景画を描いていた時など、この人は本当に王族として生まれ育ったのかと不思議に思うほど、その場に馴染んでいたらしい、と一時王宮内でも噂になっていた。
いずれにせよ、その場に滞在する、という彼のこだわりは、彼の独特の描き方が影響している。というのも、特に肖像画で顕著に現れるが、彼は依頼者宅に滞在して、暫くはあまり絵を描かない。その代わり、その間に描く対象をつぶさに観察する。そして、その時にふと現れる素の表情、それをキャンバスの上に落とし込んでいくのだ。軽いスケッチをし、頭の中で画面を構成し、それが終わると部屋に籠って一気に仕上げる。そういう書き方をしている。
そうして書かれた画は、画家の前でじっとしている時の固さがなく、ありのままの、普段家族に見せるような表情が描かれている。はじめは、その不思議な画法に首を捻っていた者たちも、今ではその作品に一目置いているのだった。
絵画技法についてはよく分からないティリスだが、暫くの間怪しまれずに、かつ城内に滞在してもらえるという点は、非常に好都合だった。
「お部屋は客室にご用意しました。」
「そう。それじゃあ、さっそく案内して。」
案内の侍女を呼ぶと、彼はあっという間に、その部屋から出ていったのだった。