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臆病なうさぎは旦那さまと大空に飛躍する side 燈子 ③




 後から後から溢れる想いが、清く透明な雫になって零れ落ちる。恭介君の精悍な美貌は滲み、上手く像を結ばない。

 けれど胸には、これまでにない圧倒的な存在感を持って、恭介君が居場所をつくる。恭介君の愛を感じるのと同時に、恭介君への私の愛も、堰切って溢れ出す。


「私、幸せで、幸せすぎて怖いです。だって、こんな幸福は想像した事もありませんでした」


 恭介君は笑みを深くした。


「そうか。だが俺は確信してた。俺の伴侶は燈子だと疑った事がない。けれど燈子、こんなのは序の口だ。何故なら俺と燈子の結婚生活はまだ、始まってすらいない」


 歓喜は巡り、巡る。


「恭介君、私、恭介君を幸せに出来るように精一杯努力をします。本音を言えば恭介君は幼い私の目にも優秀で、優秀すぎて、私なんかには相応しくないって最初から予防線を張っていたんです。でも今は、恭介君に相応しくありたいと思うんです。恭介君の奥様は、誰にだって譲りません」


 私の告白に、恭介君は一度驚いたように目を瞠った。次いで恭介君は眩しそうに目を細め、部屋中に溢れる絵を順繰りに見渡した。

 そうして私に向き直った恭介君は穏やかな微笑みを湛えているのに、その目がどこか切なさを孕んでいた。


「馬鹿な事を……。俺の目には才覚に溢れ、夢に向かって踏み出そうとする燈子こそが眩しい」


 今度は私が驚かされる番だった。


「恭介君?」


 恭介君が心から私との結婚を望んでくれているのは、驕りじゃなく分かっているつもりだった。なのに私を見る恭介君の目が寂しそうだと感じるのは、私がおかしい? 


「恭介君、もしかしてこの結婚に何か憂いがありますか? もし思うところがあるのなら、私に聞かせてもらえませんか?」


 恭介君はフッと大きく一息吐くと、宙を仰いだ。


「燈子との結婚に思うところなど、あるはずもない。けれど溢れるばかりの燈子の才覚を目の当たりにして、諦めたはずの夢が疼く。自分自身納得して、父の後を継ぐ事を受け入れたはずだったんだけどね……」

「夢?」


 恭介君が諦めたという夢……。

 恭介君はさっきも、本当にやりたい事は貫く勇気が持てなかったと、そう言っていた。

 裏を返せば恭介君には、全てを投げうってでも挑みたい、そんな夢がある。

 恭介君は私に視線を戻すと、おもむろに胸ポケットからスマートフォンを取り出した。


「顔合わせの席で俺は、不躾にもずっとスマホを見ていただろう?」

「あ、そう言えばそうでしたね。私はてっきり、私との結婚自体に無関心なのかと思っていました」


 だけど実際は、そうではなかった。ならばそれは、どうして?

 恭介君は指先で数回操作をしてから、私にスマートフォンを差し出した。


「あの時は本当に申し訳なかった。だけどあの時はどうしても目が離せなかったんだ」


 促され、画面を覗き込めば何かのアプリが起動しているようだった。

 ??


「一晩かけて作ったこれの動作確認をしていたんだ」


 !!

 立ち上がったそれは、名刺管理のアプリ。


「え? 作ったって、……うそ? これ、恭介君が作成者!?」


 私でも名前だけは知っている。名刺管理のアプリは幾つかあるが、見せられた画面はその先駆けのものに間違いなかった。


「あぁ、分厚い名刺ファイルを捲るのは非効率だし、あまりスマートじゃない。そう思って自作したスマホアプリを市場で売ってみたのはまぁ、俺の趣味みたいなものだ。前作がとても好評でね、リニューアルで再販売して欲しいって要望は結構あったんだけど、なにぶん今は仕事がとても多忙だった。纏まった休みはあの日しかなくて、寝ずにリニューアルしたアプリの動作確認に、ついつい掛かりきりになっていた」


 正直、かなり驚かされた。

 それに恭介君は趣味といったが、素人目にもとても趣味の範疇には収まらないと思えた。


「まぁ、これはあくまでも趣味で、この程度なら趣味の範囲として今後も続けていけるだろう」

「凄い。恭介君にこんな才能があったなんて……」


 ……あれ?

 知らなかったと、そう続けようとした。だけど、ふと、脳裏に過ぎった。


「……ううん、違う。恭介君は昔も、得意だった。昔も、恭介君は作ってた! そうですよね!?」


 幼い頃のおぼろな記憶は断片的で、全部を全部覚えている訳じゃない。

 だけど一度、恭介君が見せてくれた事がある!


「ははっ、よく覚えてたね。社長令息がパソコン少年っていうのもそうそう褒められたものじゃないから、声を大にして告げた事はなかった。でも、そんなささやかな俺の趣味を唯一認めたのは燈子、君だよ」


 やっぱり、恭介君は昔から作ってた。

 だけど私が、認めた?


「あれは俺が十歳の頃だ。当時の俺は習い事や家庭教師の合い間を縫って、暇さえあればパソコンに向かっていた。だけど十歳といえば中学受験に本腰を入れる時期だからね、母さんはパソコンにばかり噛り付く俺を心配してた」


 恭介君が十歳なら、私は八歳。

 恭介君の言葉で、当時の記憶が少しずつ形になって思い出された。


「俺が独学でプログラミングを形にしたのはまさにその頃だ。パソコンといっても、今と違って当時の性能はとても低いから、俺は保存も出来ないただのテキストに、フリーソフトを完成させた。今でいう付箋アプリみたいな本当に簡単なものだ。だけど初めて形にした事は、俺にとってとても大きかった。俺は我慢できず、母に見せに行った。母は、遊びに夢中なのもいいけど勉強もしっかりね、そう言って、俺のプログラミングを遊びと一蹴した。素人の認識は得てしてそういうものだから母が悪い訳じゃない。けれど燈子、君はそうじゃなかった」

「……凄いと思った。コンピュータの仕組みは未知数で、それを自在に操る恭介君自身が、八歳の私には無限の宇宙みたいに感じたんです」

「! そうさ、まさに八歳の燈子はそう言ってくれた! 目を輝かせて、俺の手を握り締めた。俺に与えられる周囲の評価は、いかに型に嵌まった優秀な後継者であるかで、俺自身の興味関心は度外視されてきた。そんな中で、燈子のくれた言葉がどれほど俺を歓喜させたか、俺にとってどれほど意味があったか……!」


 大人になった今の常識に照らし合わせても、独学でプログラミングを形にしてみせた恭介君の才能は測り知れない。

 だけど当時も、私は純粋な驚きで、恭介君の才能に慄いた。


「七歳で初めて会った時に、魅力的な絵を描く可愛い子だと思った。だけど十歳の時、燈子のくれた一言は俺の魂を揺さぶった。十歳の俺は燈子に運命を確信した。事実あれから十八年の時を経ても、燈子以上に心震える出会いはないし、今後もあり得ない」

「恭介君……」


 恭介君の一途で真摯な愛情に心が震えた。


「十歳の子供がこんな事を思うのはおかしいか? だけどこれが事実だ。それ以来、俺はずっと燈子しか見ていない。俺はこの年だけど、女を知らない。何故なら俺は、燈子以外を望まなかったからだ。燈子は思いもしなかったろう?」


 こんなにも誠実な愛情など、他にあるだろうか。

 これまでもこれからも、私の一生が、恭介君との愛で満たされる。

 今の言葉だけで、私は一生、恭介君への愛に生きられる。


「……恭介君、スマホアプリが趣味ならば、恭介君の本当にやりたい事は別にあるんですよね? なら、それを追いかけませんか? 夢は諦めなければなりませんか?」


 恭介君との愛に打算も計算もなにもいらない。もし結婚生活の安寧が恭介君の諦観の上に成り立つのなら、そんなものはいらない。飾らない恭介君自身の思いに、全身全霊で寄り添いたい!

 

「もう一度、夢を掴みにいきませんか? 裸一貫からのスタートでいいじゃないですか! 私の稼ぎじゃ極貧かもしれません、だけど恭介君と二人の食い扶持くらい、私がなんとかします!」


 私は言葉を畳み掛けていた。今、言わずにはいられなかった。


「! ……驚いた。いや、燈子にはいつも驚かされてばかりだ。まぁ、幸運にも俺の趣味が多少の収入を生むし、それなりの蓄えもある。裸一貫のスタートを切ったからといって、そうそう草の根を噛む極貧にはならないと思うけど……」


 私の決意表明に恭介君は目を丸くして、クツクツと肩を揺らした。そうして笑いを収めた恭介君は、引き締まった表情で私を見下ろした。


「だけどそうだな、燈子とならば爪の先に灯をともす暮らしすら幸福だろう。だが燈子、俺が躊躇するのは単に職を辞して裸一貫のスタートを切るというだけじゃない。実を言うと留学時代の学友から、ずっと構想を持っていた空中投影ディスプレイの共同開発を持ちかけられている。学友らのチームは映像分野と空間座標の専門家だ。俺はプログラマーとして参加しないかと誘われている」


 ! アメリカなんだ!! 

 恭介君の夢のフィールドはまさかの日本ですらなかった! だけど私はすでに、どこまでも恭介君と共にあると決めている。


「恭介君、私、今晩から英会話を勉強します。そうして向うでは、アルバイトから始めます」

「! 燈子、アメリカに行くつもりか!?」

「だって絵は、どこでだって描けますから。コンクールだって、日米問わずあります」


 恭介君は目を見開いて、そうしてクシャリと微笑んだ。


「燈子……」


 !!

 恭介君の精悍な美貌が滲むくらい近づいたと思ったら、唇にふわりと優しい感触が落ちる。

 唇は二度、三度と角度を変えながら啄むように優しいタッチで触れた。けれど四度目に合わさった時、優しい口付けは息つけぬ深いものへと変わった。

 余さずに恭介君の温もりと感触を受けながら、私達は愛しさを分け合った。






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