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最果ての宇流麻 -異聞・オヤケアカハチの乱-

[最果ての宇流麻・番外短編] マッツァーとミャークのおじさん

作者: 葛柴 桂



 

 みなさんは、マッツァーのことをおぼえていますか?

 ハテルマ(じま)で生まれた、サンシンのすきな心のやさしい男の子のことですよ。

 今日は、少し大きくなってからのマッツァーのお話をしましょうね。


 マッツァーは、八歳になりました。

 でもね、もうハテルマ島にはいないんです。

 小さなマッツァーがすんでいるのは、ミャークの都にある大きな、大きなお屋敷です。

 お母さんがマッツァーをミャーク(じま)のおうちに預けたからなんです。


「ぼく、どうしてちがうお家にやられちゃったのかな? ぼくが、悪い子だったからかしら?」

 そう思うと、マッツァーの胸はきゅっと苦しくなります。

 ハテルマ島でお別れするとき、「きっと、ミャークでも楽しい日々が待っていますよ」ってお母さんは言ったんです。

 でも、ちっともそんなことありません。お屋敷に、げんがさんがいるからです。

 げんがさんは年上のお兄さんで、マッツァーとは「しんせき」なんですって。

 げんがさんは、いつもむすっとして、あんまり口もききません。

 顔には大きなばってん印の傷。それに、とってもおっかないんです。

「よいか、男子たる者、戦ができねば話にならぬ」

 お屋敷に来た日から、マッツァーはお庭でげんがさんと剣のお稽古。

 でも、マッツァーは剣なんてもったこと、ないんです。

「やあ! やあ!」

 いっしょうけんめい、木でできた剣をふりまわしてみましたけど、ぽかっ! とげんがさんの剣で頭をたたかれてしまいました。

 じわっとした痛さにマッツァーが顔をくしゃっとゆがめますと、げんがさんは「男子たる者、泣いてはならぬ!」って怒るんです。


 剣のおけいこの後は、お習字の練習です。

 ハテルマ島のお家にいたころは、ぽかぽかした縁側でサンシンを弾いて、それからおひるねしていた時間です。

「よいか、男子たる者、学もなければならぬ」

 そう言って、げんがさんはぴしゃっ、とふすまを閉めて行ってしまいました。

 お部屋には、マッツァーがぽつん、とのこされています。

 目の前にはお習字のすずりとふでとすみ。それに紙がたくさんおいてありました。

 マッツァーはため息をついて、すみをすり始めました。

 この紙全部に名前を練習しないと、げんがさんはお部屋から出してくれないんです。

「なんだい、げんがさんなんか、だいきらい」

 マッツァーはぽつん、とつぶやきました。

 そして、はらだちまぎれに力いっぱいすみをすります。

「だいたい、これはぼくのなまえじゃないもの。僕の名前はマツーだよ」

 そうなんです。マッツァーが練習しているのは「眞與(まよ)」っていう難しいなまえ。げんがさんが勝手に、マッツァーの「(マツー)」っていうすてきな名前を「眞與」に変えてしまったんです。

 マッツァーはむかむかしながらすみをすります。

 名前といえば、いやなことは他にもありました。

 マッツァーがげんがさんに初めて会ったとき、

「にーにー、みしゃりー?」ってちゃんとあいさつしたのに、みんなは大騒ぎ。

玄雅(げんが)様をニーニー呼ばわりとは!」って周りの人にたくさん怒られてしまったんです。

「親戚同士で『様』もあるまい」ってげんがさんが言ったので、それからげんがさんは「げんがさん」。

 なんだか、とっても変な感じです。みんなが名前でよびあっていたハテルマ島とは全然ちがいます。

 話すことばも全然ちがいます。

「おりたぼり」は「んみゃーち」。

「にぃふぁいゆー」は「たんでぃがぁーたんでぃ」。

 口を開けば、ミャークの言葉に言い直させられてしまいます。

 しかも、げんがさんはミャークの言葉で話しかけないと、絶対に答えてくれないんです。ちゃんと意味は分かっているのに、なんて意地悪なんでしょう。

「なんだい、こんなのばかみたい」

 マッツァーはすみをする手を止めると、ころん、と床にころがりました。

 とっても怒っているはずなのに、目のあたりがじーんとあつくなります。いまごろ、ハテルマ島でお父さんやお母さんはどうしているかしら。お姉さんや妹や弟はどうしているかしら。

 ぽろっ、と涙がこぼれそうになりましたが、マッツァーは目をぎゅっとつぶってがまんしました。げんがさんに「男子たる者、泣いてはならぬ」って怒られたのを思いだしましたからね。それに、いくら泣いても、だあれもマッツァーをなぐさめてなんか、くれないんです。

 いまごろ、ハテルマ島では真っ赤なアカバナーがたくさん咲いているころでしょう。

 いまごろ、庭のフクギの木でアカショウビンがキョロキョロ鳴いているころでしょう。

 良い子にしていれば、お母さんがむかえにきてくれるかしら。

 ううん、とマッツァーは首を振ります。

 だって、こんなにがんばって剣のお稽古をしても、お習字をしても、ミャークの言葉をしゃべれるようになっても、迎えに来てくれないんですもの。

「お母さんは、僕をげんがさんにあげちゃったんだ」

 そう思うと、マッツァーのおなかのあたりがきゅーっと痛くなりました。

 最近、いつもこうなんです。

 昨日だって、げんがさんの爺やさんが心配してお肉のスープを作ってくれましたけど、ひと口だって食べられませんでした。

 お肉のスープも、お魚のお団子もくだものも食べたくないんです。

 マッツァーが食べたいのは、お母さんが作ってくれたごはんなんです。

 しばらくそうやって横になってから、マッツァーはのろのろと起き上がりました。

 それから、そっ、とふでを手に取りました。

 名前の練習の代わりに、マッツァーはながれるようにふでを動かしました。さらさら、と紙の上に現れたのは、マッツァーが大好きな満開のアカバナーの花。

 もう一枚の紙には、羽を広げたアカショウビンを描きました。そしてもう一枚にはまた、アカバナー。

 そうやって、全部の紙にすみでお花と鳥の絵を描くと、今度はマッツァーはしゅぼくをすりました。

 本当はげんがさんに字を直してもらうためにすっておかなくてはいけないのですけれど、マッツァーはもう、そんなことおかまいなしでした。

 黒いすみのりんかくの中を、しゅぼくを含んだ筆で埋めてゆくと、紙の中に、真っ赤なお花と鳥が次々に現れました。やがて、床は赤いお花と鳥で一杯になりました。

 しばらく床一面に広がったお花と鳥の絵を眺めていたマッツァーでしたが、やがてほっぺたを伝ってなみだがぽとん、と紙の上に落ちました。

 マッツァーはやにわに床の絵を一枚ひっつかむと、くしゃくしゃに丸めてふすまに向かって投げつけました。

 その時――ぱっ、とふすまが開いたんです。

 あっ、と思った時には、丸めた紙が、げんがさんの顔の真ん中にぱしっ、と音を立てて命中していました。

 マッツァーは思わず息を飲みました。

 紙がぽとっ、と床に落ち、げんがさんがマッツァーをじっと見つめています。

 ああ、怖い。きっとまた怒られるのです。

 でも、マッツァーがおそるおそる見つめかえすと、げんがさんは怒っていませんでした。

 代わりに、げんがさんはかがんで紙を拾って広げ、じっと見つめて言いました。

「なかなか上手く描けている」

 マッツァーはびっくりです。むすっとしているか怒っているかのげんがさんが、なんだか優しい顔をしているんですもの。

 それから、げんがさんは黙って部屋を見渡しました。

 やっぱり怒られるのかしら、大事な紙もすみも無駄にしてしまったのだもの――そうおもってマッツァーがどきどきしていますと、げんがさんは不愛想だけど優しい声で言いました。

「散歩にでも行くか」

 さんぽ? お散歩のことでしょうか。あの怖いげんがさんも、お散歩なんかするのかしら――? 

 マッツァーがまごまごしていると、げんがさんは長い足でさっさと歩いて行ってしまいました。

 ついて行かなかったら怒られてしまうかもしれません。マッツァーは走って後を追いかけました。


 げんがさんが向かって行ったのは、いつも「危ないから子供は近づいてはならん」って言っていた馬小屋でした。

 おずおずとマッツァーがついて行きますと、何頭もの馬が柵の向こうからマッツァーに顔を近づけてきました。みんな、やさしい目をしています。

 げんがさんは、一番大きくて立派な茶色い馬を柵の中から出しました。

「危ないから、後ろには立つな」と言って、マッツァーのすぐ横に馬を立たせます。

「わあ……!」

 思わずマッツァーは声を上げました。すぐ横で、綺麗で立派な馬が、宝石のようなきらきらした目で見おろしています。

 でも、とマッツァーは我にかえりました。マッツァーは今まで、一人で馬に乗ったことがありません。

 きっとげんがさんは「男子たる者、一人で馬に乗れねばならぬ」って言うに決まっています。まごまごしていたら、きっとまた怒られてしまいます。

 マッツァーは、息を大きく吸いますと、えいっ、と目の前の馬のあぶみに足を乗せて飛び乗ろうとしました。

 ところが――。

 マッツァーの体が、ふわっ、と宙に浮きました。

 あれっ、なにがおきたのかしら? マッツァーはびっくりしました。げんがさんがマッツァーを両手で抱き上げて、馬の背に乗せてくれていたんです。

「手綱を離すな」とげんがさんは言うと、マッツァーを乗せた馬を引いて馬小屋の外へ出てゆきました。

 馬小屋の外には、げんがさんの「ぶか」の人たちが何人かいましたが、みんな目を丸くしてこっちを見ています。その中を、ちょっと照れたような顔をしたげんがさんが馬を引いて進んで行きました。

 お屋敷の前の通りまで来ると、げんがさんはひらり、とマッツァーの後ろに飛び乗りました。

「走るぞ」

 そう言うや否や、マッツァーの視界が揺れました。

「わあっ」と思わずマッツァーはびっくりした声を上げました。馬がぱかっ、ぱかっ、と駆け始めたんです!

 すごい、すごい、とマッツァーは心のなかで叫びます。

 馬の高い背中の下で、青草の茂みがかき分けられて、ざあっ、と音を立てます。

 はやい、はやい、とマッツァーは心の中で歓声を上げます。

 馬の背中から見る景色が、さっきまでいたヒララの街から、緑の野原に変わってゆきます。

 ぎゅっ、と手綱を握りしめるマッツァーの小さな手のすぐ横で、げんがさんの手袋の手が手綱を操って、馬の進む向きを上手に変えてゆきました。

 馬はやがてぱかっ、ぱかっと小高い丘を登ってゆきました。

 だんだんと見えてきた風景に、今度はマッツァーは本当に歓声を上げました。

 海です。小高い丘のてっぺんに近づくにつれて、青い海が見えてきました。揺れる視界に、ぐんぐんと青い海が広がってゆきます。

 やがて、馬はゆっくりと足を止めました。

「…………すごいや」

 マッツァーは思わずつぶやきました。

 馬の背から見おろす丘の下には、水平線までどこまでも続く、きれいな、きれいな海がきらきらと広がっていたのでした。

 濃い青と、薄い青が交互になって、すてきな自然の帯のように揺れています。

 太陽に照らされて、遠くできらっと光ったのはクジラか、イルカの背中でしょうか。

 「あれはザンだな」と同じものを見ていたげんがさんが呟きます。

 手前の海に目を移すと、透きとおった水面にウミガメがぽこっ、と顔を出して、また潜ってゆくところでした。

 ざ、ざ……、と波の音。それにやわらかい風の音と、遠くの鳥の声。それだけしか音がしない中、マッツァーとげんがさんは黙って海を見つめていました。

 マッツァーの生まれたハテルマ島は、小皿をひっくり返したような島でしたから、こんなに高いところから海を見下すのは初めてのことでした。

 なんてきれいなのかしら、とマッツァーは思います。

 でも……やっぱり海の色はハテルマ島と少し違います。

 青いミャークの海を見ながら、マッツァーはハテルマの、緑がかった空色の海を思い出して胸がきゅっ、と痛くなりました。

 そんなマッツァーの気持ちを見透かしたように、げんがさんが言いました。

「故郷が恋しいか」

 マッツァーは答えられませんでした。「はい」って言えばまた、男子たる者……って怒られるでしょうし、「いいえ」って言えば嘘をついたことで怒られてしまいますもの。

 マッツァーがもじもじしながら黙っていますと、げんがさんは静かな声で言いました、

「だが、私はお前の母君と約束したのだ。お前を、立派なミャークの武人として育て上げるとな」

 えっ、げんがさんがお母さんとそんな約束をしていたんですって? はじめて聞く話にマッツァーはびっくりします。

「だから、今は辛かろうが……鍛錬に、学びに励め。そして然るべき時が来たら、きっと故郷に帰してやろう」

 弾かれたように振り返りますと、げんがさんは真面目な顔をしてうなずきました。

 小さなマッツァーにだって、分かっています。げんがさんは、うそを言うような人ではありません。

 げんがさんはマッツァーを抱きあげて馬からおろしてくれましたが、足が地面に着いた瞬間、マッツァーはなぜだかとっても辛い気持ちになってしまいました。

 マッツァーは急いで顔をあさっての方向に向けると、小さな手のひらで一生懸命両目をこすりました。げんがさんに泣いているのを見られるわけにはいきませんでしたからね。

 やがてマッツァーが振り返ると、げんがさんは背中を向けて海の彼方を見つめていました。

 マッツァーが泣いていたことなんて、気づいていないふりをしていたのかもしれません。

「……ミャークの海も、美しいだろう?」

 背を向けたまま問いかける穏やかな声に、マッツァーは小さな声で「はい」と答えたのでした。


 それですこしだけ、マッツァーはミャーク島が好きになったのですよ。それにね……。

 帰り道、馬に乗ったげんがさんとマッツァーは、道端に見たことのない実をつけた木を見つけたんです。

 濃い緑の、つやつやした葉っぱの木の枝先に、紫色のつやつやした果物が実っています。

「見慣れない果実だが……」と呟くと、げんがさんは果物を枝からもぎ取ってしげしげと眺めました。

 あたりに弾けた甘くてみずみずしい香りに、マッツァーのお腹がぐう、と鳴りました。そうです。昨日のお昼から、マッツァーはなあんにも食べていなかったんですから。

「……食べたいか?」

 こくり、と頷いたマッツァーを見て、げんがさんはしばらく考えてから果物を一口かじりました。

 しゃくしゃく、と噛んで飲み込んでから、げんがさんはもう一つ果物をもぎ取ってマッツァーに渡してくれました。

「毒は無いようだな。大丈夫だろう」

 マッツァーは両手で果物を持ってかぶりつきました。口の中に、柔らかい実の甘い果汁が浸みいるよう広がります。

 夢中になって食べるマッツァーに、げんがさんはいくつも果物をもいで渡してくれました。

 それで、マッツァーは久しぶりにお腹一杯食べたんですけれどね。

 その晩――げんがさんはお腹をこわしてしまいました。たった一口しか、かじらなかったんですけれど。

 そういえば、げんがさんがかじった実はまだ固そうだったなあ、とマッツァーは思います。教えてあげればよかったかしら、と思いましたけど、もう後の祭りでした。

 ちょっぴり悪いことをしちゃったな、とマッツァーは思います。

 でも、これでおあいこだものね、と思う、ちょっぴり意地悪なマッツァーもいるんです。


 こんなふうにね、マッツァーとミャーク島との距離はちぢまって行ったんですよ。              


 (おしまい)


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