私のクラスが変わっていく理由
それは、二学期が始まってすぐのこと。
「教育実習生の鈴森佐絵です!よろしくお願いします!」
私たちの視線から逃れるように勢いよく頭を下げたのは、今日から二週間、英語の授業を担当する鈴森佐絵という女子大生。
淡いピンクのシャツに、無難なグレーのスーツが如何にも地味であり、逆にそれが似合っているとも言える。
私と同じような、どこにでもあるような髪型で、どこにでもいそうな顔つき。私と違うのは極度の緊張状態にあることくらいだろうか。
「まぁーそんなわけで。宮野先生も立ち会うが、基本的に英語は鈴森先生が教えてくださる。陸上競技会までの短い時間だが、お前ら、いじめたりすんなよぅ?」
日本文化部顧問、神山先生が言う。我がクラスの担任である。
無精髭とボサボサの髪、中年にありがちなメタボ体型と、女子ウケは悪そうな担任だが、その実、彼の古典の授業は実にわかりやすく面白く、宿題に関しても甘い。それゆえ、嫌われることもなく、むしろ担任としては『当たり』だとも言われる。ちなみに、将棋の段位を持っているらしい。
はーい、と皆が興味のない返事をした。男子も女子も、女子大生という美しいレッテルがメッキに過ぎないのだと気付いた瞬間なのかもしれなかった。
そうした始まった私のクラスの二学期。皆、夏休みを終えて少し大人になる訳もなく。見慣れた顔ぶれが見慣れた席に座っていた。
そんな中で私は、晴彦との関係が着実にステップアップしていることに喜びを覚えつつも、初秋の空を眺めていた。
キスをした、というのは誇っていいだろう。
誰かに話したくて、でも話すことの程ではなくて。
大げさでなく、私は溺れた。あのキスの感覚に。それからの私は、四六時中晴彦と一緒に居たくて、いつもキスをしたくて、うずうずしていた。
しかし、私はそういった欲求を表現する術を知らなかった。
キスがしたいと、一声発することが憚られた。恥ずかしかったのか、晴彦の態度を気にしていたのか。しかし、今まで抑圧されてきた感情が、言葉にならない言葉でいつも何かを訴えていた。
行ってきますとキスをして、お帰りなさいとキスをして、ひたすら抱き合っていたかった。
まあ、そんなものが晴彦に通じる訳もなく。
やがてそんな春満開な頭の私を嘲笑うかのように小夜姉さんが晴彦にキスをした。しかも特大に濃厚な感じのやつを。
私はその行為に腹を立て、またその行為をされても何も感じていない晴彦にも少し腹を立てた。晴彦にとって、キスはさほど特別でもないらしい、と思うと、今までそれに拘ってきた自分が馬鹿らしかった。身体は相変わらず晴彦との接触を求めていたが。
そんなこんなで、陸上競技会を目前に控えた木曜日のランチタイム。
明後日の土曜日に協議会があり、月曜日が振替休日となる。打ち上げをするのには持って来いというわけだ。
「しかし、あの人の何処に裕翔は惚れたのかねー?」
パンを齧りながら茉莉が喋る。椅子の座り方も行儀が悪い彼女は、パンチラの宝庫。だが残念。下には短パンを履いていて色気は微塵もない。それでも視線を感じるのは男の性か。
陸上競技会にそれほど真剣に取り組むわけでもない私たちの話題は、自ずと彼女のことになる。佐々木くんの事情を知っているが故だ。
「風華はどう思う?」
浮かれていた気分も落ち着き、クラスの雰囲気がはっきりと感じられるようになった。
「んー、授業に関しては出来が悪いのは否めないわ。あれじゃあ街中の英会話の方がまだマシね」
鈴森先生、の授業は、確かに褒められたものではなかった。
テンプレートのような授業形式。質疑応答。語学であるのにユーモアさの欠片もない硬い授業。
『これを訳すとどうなりますか?そうですね、ここが過去形なので……』
教科書通りではあるのだが、辛辣に言えば、それだけ。CDに録音して、教科書を見ながらその音声を流しているだけでもいい。彼女が教壇に立っているという、その存在感が感じられない。
「そうなの?でも、そうじゃなくてー。なんであんな地味な人を裕翔が好きになったのかってことだよ」
「茉莉、毎回授業寝てるもんね……」
「つまらないのは確かだけど、せめて起きててあげなさいよ」
風華がここにはいない鈴森先生に、憐憫の眼差しを向けた気がした。
お弁当から、卵焼きを一口。最近今ひとつ、卵焼きの味がしっくりこない。何がいけないのだろうか。和風だしを試すか、それとも一昔前話題になった麹とかを使ってみるか。
「でもまあ、確かに不思議といえば不思議かも」
器用に料理のことを考えながら話す。私も茉莉には同意するところでもあるのだ。
晴彦の友人の佐々木裕翔という人物は、一年きってのイケメンである。中身は多少うざいところがあるが、それを差し引いても十分モテる男子だ。
それが、年上の、地味な教育実習生に恋をした。
いや、正確にはプールで一目惚れしてナンパをし、そして教育実習に来た先がここだったのだけれど。
「恋なんて誰にするかわからない。それは明日音が一番よく知ってるでしょ」
「うーん、そうなのかもしれないけど」
私と晴彦が幼馴染で、晴彦が私に恋をして、私も晴彦に恋をした。
まるで運命みたいな話。誰もが恋を運命だと思いたがる。私もそうだ。正確には、そうだった、だけれど。
佐々木くんも今、この些細な偶然を運命だと思って努力しているのだろうか。
それでも、何か違和感のようなものを私はあの二人のあり方に感じてしまうのだった。それが何かはわからない。
「でも、私は晴彦が運命の人だとは、もう思ってないよ」
私が言うと、茉莉も風華も、へぇ、と食べ物を食べるわけでもないのに口を大きく開けた。
「一学期の頃はそうだったけどね」
晴彦に他の女の人が近づくのが怖くて、不安だった。今もその不安がゼロな訳ではないけれど。
「なーんか明日音、大人になったって感じ?」
「そうかな。自分ではそんな感じはしないけど」
「具体的に一言」
風華が詳細を聞いてくる。
「運命だと思ってたら、努力はしなかったかもね」
運命という言葉は、後付けであって、願望である。
あの人との出会いは運命だ。そう思い、自らを鼓舞する。思い込みの力だ。あの人との出会いは運命なのだから、という理由での努力。それが成功して人は初めて運命だ、いや、運命だったのだと人に言える。
「つまり、運命だと夢見てるだけじゃ何も得られない、と」
「そりゃあその通りだな」
二人も賛同の声を上げる。
もし、私が晴彦との関係を運命だと自惚れたままだったとしたら。私たちの関係は、短く太い、淡い思い出として後に忘れるものだったのではないかと思う。
具体的に言えば、小夜姉さんや春風部長に奪われていた可能性だってあるのだ。
だから、私は晴彦のことをこれからも運命だなどと思わない。一緒にいる努力を欠かさない。晴彦に好かれる努力を忘れない。つもりでいる。
「じゃあ、裕翔が言ってることに関しては?」
茉莉がパンくずを拾い集めながら尋ねてくる。
「もっと綺麗に食べなさいよ」
「いいじゃん、こうやって食べるのが美味しいの」
風華はお弁当のご飯粒も残さず食べる。茉莉は行儀が悪いが、風華に窘められるのを楽しんでいるようなところもある。私までとやかくは言わない、と決めている。
「佐々木くんは『運命』って言って、自分を奮い立たせようとしてるんじゃないかな」
年上で、自分の知らない世界の人間に恋をしたような戸惑い。
「そんなとこでしょうね」
風華も弁当を仕舞いながら、私と同じような判断を下す。
「で?明日音からみてあの馬鹿の恋は上手くいきそう?」
視線は興味がなさそうだ。いや、実際興味はないのだろう。興味がなくても、風華はそれを気にかける。自分が解くべき問題であるかのように。
「うーん……鈴森先生は現状いっぱいいっぱいだし。うまくいけばいいとは思うけど……」
佐々木くんの情熱とは裏腹に、鈴原先生は実習という現実に四苦八苦していて、恋や愛だという隙間は無さそうに思える。今日だって明日の準備にせかせかとうちの教師の話を聞いて頷いている。毎日の光景だが、彼女の授業は一向に面白くなる気配はない。
「むー、明後日の競技大会で終わりなんだよな?なんだかモヤモヤする」
「そんなこと言っても仕方ないでしょ。すぐに告白しろなんて急かせないよ」
急いては事を仕損じる。この件はまさしくその通りのような気がした。じっくりとお互いの本気を確かめ合う。そんな作業が必要だ。少なくとも私はそう思った。
そうだけどさ、と茉莉も理解を示した。美しい足が、行儀悪く揺れる。男子の視線が飛ぶ。
「じゃ、私たちが急いて見ますか」
風華が意地の悪い笑い顔を見せた。
出会って半年だが、色々とわかったことがある。
小野風華が笑った時は、とんでもないことが起こる。それはもう、いきなり春風部長の創作料理を食えと言われたような驚きが待っている。