俺の親友が恋をする理由Ⅲ
「……お?」
特に明日音の機嫌が、今までで一二を争うほど悪かった。俺が近づいても、どこか俺から距離を取ろうとする。
「まあ、気合入れて来たのに、親友の頼みとは言え、ほかの女のところにナンパをしに行けばそうなるわよ」
「事情はわかるが、女心は複雑って奴だぞ」
普通に考えてみれば、そうだろう。
「いや、ごめんな、明日音ちゃん。だが、俺としても必死でさ。でも、そのお陰で連絡先は手に入ったし!」
裕翔が携帯をみせるが、そんなものが慰めになるわけもない。
「へぇ。この長い時間、晴彦は何してたの?」
風華の鋭い質問。
「そりゃあ、連れの二人と談笑して、引きつけて――」
そう言った時、明日音の態度が更に悪化する。
裕翔も流石に不味いと思ったのか、明日音に言い訳がましい意見を飛ばしていた。
「あーあ、どうするのこれ」
風華がにやりと俺を見て笑う。人の不幸は蜜の味とでもいうような表情。わかってはいたが、少しサディスティックな一面がある。
「……馬鹿に対する誘導尋問をした奴が言うセリフか?」
「なんにせよ、一大事って奴?」
茉莉が俺を好奇心丸出しの瞳で見る。
「いや、そうでもないさ」
しかし、俺がそう答えると、二人は不思議そうに俺を見た。
「余裕なのは結構だけど。女の機嫌取りは安くないわよ?」
「ま、それは同意だな」
そのまま、明日音の機嫌は全く良くならず。しかし帰るときは一緒に帰る。
「……なあ」
そう声をかけても、明日音はあからさまに俺と視線を合わそうとしない。
バスが揺れる。当然ながら明日音と一緒の席で揺られる。
明日音は無理やり俺を無視している。かといえば、俺が視線を逸らすと伺うように俺を見る。
話しかける。目を逸らされる。その繰り返し、
最寄りのバス停について、当然ながらそのバス停で降りる。
降りてなお、明日音は俺の存在を無視する。まあしかし、明日音が俺を無視し続けることなどできるはずもないのだ。
「……水着、頑張って選んだのに」
不機嫌な表情は、中々お目にかかれたものではない。そもそも、今まで俺に対して無関心に等しかったのだ。それを鑑みれば、これは可愛らしいとも言える。
「うん、ごめんな」
真面目に謝ると、明日音の態度に迷いが。
「う……、ま、まあ、姉さんと一緒に選んだやつだけど」
「そっか」
明日音は自己嫌悪こそ慣れていても、人を責めることに慣れていない。
「それでも、放っておくのはどうかと思う」
明日音も少し思うところがあったようで、簡単には態度を改めない。
「そうだよな。それは反省してる」
反省はしているが、後悔はあまりないところが正直なところだ。
見知らぬ女子大生二人と話したこ時間は、無駄な時間ではなかったことだけは確かだ。
「む。反省してるなら、いい、かも?」
殊勝にでられるとあまり強く出れないのは明日音らしい。
家が近づく。バス停からは歩いて直ぐだ。
人はいつの間にか、自分を偽って生きるようになる。
『努力は報われない』だとか、『初恋は適わない』だとか、信じていたものをいつの間にか否定するようになる
それが悪いとは言わないし、仕方ないことなのかもしれない。
ただ、嘘偽りのない俺を知っている明日音にだけは、俺は本当の姿を曝け出せるのではないか。
そして明日音も。その事実に気づいているのかどうかはわからないが、この姿が仮面ではないはず。
だから、俺は本当の姿を明日音に見せ続ける。それが俺をいつか救うと信じて。
「明日音」
家は目前。別れは目の前。俺は、ある決意を持って明日音を呼び止めた。
「何?」
もう俺を非難することを忘れたような瞳が迎える。
俺はその振り向きざまの隙を逃さず、明日音の唇を塞いだ。
音がしなかった。
口日つの感触は柔らかく、明日音の鼓動と、呼吸を感じられた。
その時間は一秒に満たなかったが、確かに俺と明日音は繋がった。その感覚が残る。
「その、なんだ。お詫び、ってわけじゃないけど」
俺が適当な言い訳を考え、言葉に迷う。流石にこれは恥ずかしい。抵抗はないが、このキスには深くも簡素な意味がある。
「……えぅ」
ちらりと伺うように視線をやると、明日音は涙を零していた。
「おわっ!?」
忘れかけていた光景が蘇るような気分だった。
ずっと昔、まだ小学生の頃。明日音は、随分泣き虫だった。何かにつけて泣き、その後処理を俺が全て引き受けていた。
それは何が嫌だとか、悲しいとか、そういう理由ではけっしてないのだが、それこそなぜ明日音が泣くのかを理解できた人間は少なかった。明日音に友人が少なかったのはそのせいでもある。
「大丈夫か?」
俺がそろりと手を出すと、声もなく明日音は頷く。涙は止まらず、顔は歪んでいく。
「一人で帰れるか?」
明日音は駄々をこねるように首を振る。家は直ぐそこだ。しかし、明日音は帰るのを拒否する。
「……俺の家来るか?」
そう言うと、明日音がゆっくりと頷く。
仕方がない。どんな理由があろうと、泣かせたのは俺だ。
「ほら、行くぞ」
俺が手を引いてやると、明日音は顔を伏せながらついてくる。泣き顔を人に見られるのが嫌なのだ。
「おかえりー、ってあれ?」
俺の家の扉を開けると、出迎えたのは父さんだった。
明日音が泣き顔を庇うように俺の背に隠れる。父さんはその様子を見て何か合点が言ったような声を上げる。
「明日音ちゃんは昔と変わらないねぇ」
「変わらないって……」
父さんが知っているのは小学生低学年の頃だ。しかし確かにその頃の明日音と今の姿は被るのだ。
「女の子を泣かせちゃダメだぞー」
これでは居間に居座ることもできない。
「わかってるって。ほら、行くぞ」
明日音はおどおどとした足取りで、しかししっかりと父さんに頭を下げた。
階段を登り、目的地は俺の部屋。
「ほら、入って」
明日音を入れると、クッションに腰を下ろす。まだ涙は止まらない。鼻を鳴らすような音と、やや赤く腫れた頬が見えた。
「昔はこうだったな」
俺がベッドに腰を下ろす。明日音は応えない。
『明日音ちゃんは不器用だから、それをどう表現していいのかわからないんだよ』
それは、昔滅多に合わないと父さんが、泣いている明日音を見ていった言葉だ。
明日音は、感情の表し方が上手くない。
基本的に鉄面皮だったのだ。今でこそ、多少の表現の豊かさを得たものの、昔はひどいものだった。
例えば、嬉しいことがあるとする。
しかし、明日音が表現できる嬉しさというのは、少し頬を緩ませて『ありがとう』という位まで。それ以上に嬉しいことがあると、どう表現していいか分からずに明日音は泣く。
怒りも悲しみも悔しさもすべて同じ。感動で泣くというのはよくあることだが、明日音はその敷居がひどく低い。まあ、言ってしまえばそれだけ。
大人になるにつれて、自分の感情を上手くコントロールするようになっていた。
しかしそれはどうやら、『うまく感情を表現する』方法ではなく、『受ける感動を表現できるレベルにまでに抑える』という方法だったのかもしれない。
「明日音は本当に不器用だな」
それがまた、なんとも愛おしいような気もしないでもないのだ。
「っ、晴彦が、あんなこと、するからっ」
なんとか言葉を発せれるくらいには回復したようだが、まだ涙はとめどなく流れている。
「仕方ないだろ……」
何が仕方ないのかは俺にもわからない。
「あれはなんつーか、俺の気持ちだ」
言葉で気持ちが伝われば苦労はしない。気持ちを正確に言葉に出来るのなら更に苦労はしないのだ。
だから、身体で示すことが効果的な場面もある。そして、俺たちの関係はまさにそうだ。
「気持ち……」
明日音が息を呑む気配がする。
俺はベッドから床に腰を下ろし、明日音を見据える。明日音は咄嗟に俺から目を逸らした。
「こっち来なって」
その言葉の意味がわからないという明日音を手招きする。
少しづつ、少しづつ、明日音の顔が近づく。
またキスをするのか、とも思ったのか、どこか警戒している明日音を引き寄せる。
「ふぁっ!?」
キスはしない。俺は明日音の身体を抱き寄せていた。顔は俺の方に。身体は密着し、熱が伝わる。
明日音の体温は高かった。
「ほら、落ち着け」
頭を撫でてやる。昔は、よくこうして明日音を慰めていた。まあ、抱き合いはしなかったが。
「ふっ、うっ……」
また明日音が泣き始める。
夏の終わり。しかし、俺たちの間で、新しい何かが始まる。いつだってそう。
静かに涙を流す明日音を抱きしめながら、そんなことを思った。