夏が人を変える理由Ⅳ
「輝いてるわねぇ」
風華がしみじみという。
「そうか?」
俺がレンタルのビーチボールを風華に投げると、風華はそれを見事に頭で受け止めた。
「明日音ちゃんが自発的に、晴彦が関係しないものに首突っ込むのは中々ないよなぁ」
風華が弾いたボールを晴彦が取る。弾まないボールに興味はなさそうだ。
「そんなことないだろ。部活だって今は楽しそうにやってる」
「それは入ったあとでしょ。入る前、っていうより、入学したときはあんな積極的じゃなかった」
確かにそれはそうかもしれない。
中学の時も一人で動くときは目立たないような素振りをしていた。
「これが成長ってやつ?」
苦し紛れの答え。
「わざと間違うのは見苦しいし、笑えないわよ」
「……わかってるよ」
恋をすると人は変わるという。女は美しくなるという。
「言っておくけど、明日音も男子のお目当ての一人なんだから。きっちり掴まえておく気がないと後悔するわよ」
そんなことは、ずいぶん前から分かっている。苦笑して返す。
「風華はお目当ての一人に入らない?」
風華は当てつけのように、凄まじいスマッシュを裕翔に放つ。
「私はこんななりだし、好きって言われればそれはそれでやばいような気もするわ」
典型的幼児体型に天才の頭脳。そして並々ならぬ運動能力。
「ま、見た目だけで言えば小学生だからな」
強烈なサーブを易易と受け止めた裕翔がにへらと笑う。
「其の通りだけど、ムカつくわね」
「風華はそういう願望ないのか?」
俺が尋ねる。友人として。
「無いわけじゃないけど。茉莉と明日音と一緒にいると、自分にはそんなの無理なんじゃないかとさえ思うわね」
「恋愛なんてしようとしてできるもんじゃねえだろ?」
裕翔の言葉はもっともだ。流行り廃りや一時の迷いで自分を安売りするものではない。
まあ、裕翔が言ってもイケメンの戯言と捉えられがちだが。
「でも、やろうと思わなきゃ出会いさえない人もいるわ。私もそう。そのうち本と紙に埋もれていくのかも」
晴れた空に似合わない表情が水面に揺れる。
「心配しすぎじゃないかな。風華も十分可愛いよ」
友人になら、こういうことも言える。いや、友人に言えるからこそ、明日音になんと言えばいいのか迷うのだ。
「……相変わらず、恥ずかしいことをズバズバ言う奴ね」
風華はそれでも、少しばかりその表情に余裕を持たせた。
「そーそー。世の中ロリコンも多いし!なんとかなるって!」
「ロリコンにしか受けないみたいに言わないでくれない!?」
二人のボールの応酬は、もやは俺が関われるレベルではなく。笑いながら事の成り行きを見守っていると、気落ちした明日音が帰ってくる。
「た、ただいま……」
俺の隣に座り、足を水に浸す。
落としたら負けルールの、裕翔と風華のビーチバレーは四十五対四十で裕翔が勝っていた。
「お帰り。どうだった、って、聞くまでもない感じだが」
「うん……。教えてることは正しいはずなんだけど、それでも茉莉が上手くできなくて……。そのうち私もこれでいいのかな、っておもってきて。そう思うと、なんだか自信もなくなっちゃって……」
負の悪循環というのはこういうことを言うのだろうか。
「じゃ、最後は俺か」
立ち上がると、風華が明日音に声をかける。
「明日音ー、いいの?晴彦、子どもの躾上手いから、妙になつかれちゃうかもよ?」
明日音が答えに窮し、先に俺が口を開く。
「教師なんか、俺に向いてるのかもな」
「小学校教師は大変らしいわよ。モンスターペアレンツとか」
「風華がなったら生徒に親しみもたれそうだな」
裕翔のからかいに、殺意を一段階上げる風華。
「バスケなんてマイナースポーツやってるあんたに未来はないわよ」
「あぁ?今なんつった?」
「……じゃ、明日音。あと頼んだ」
えぇ!?と悲鳴のような声を上げる明日音を生贄に、俺は避難を開始する。
少し歩いた、普通の二十五メートルのプールでは茉莉が退屈そうにビート板を抱えていた。
「そんなものまであるのか」
小学校時代に使っていたのを最後に、ビート板など見かけなくなっていた。懐かしい、水の浮力に反発する感触。
「つまんないー!泳ぐのも覚えられないし!」
「なんで泳げないんだよ?」
俺はそもそもの原因を聞いてみた。
「えー、だってクロールとか、平泳ぎとか、覚えることいっぱいあるじゃん」
「覚えることって……。泳ぎ方の種類ってだけだろ?」
「息継ぎのタイミングとか、足の動かし方とか。自分でも初めてで、どうやったらいいのかわかんないし」
度重なる失敗で、茉莉は飽きていた。まあ、それも致し方ない。
「水の中で目を開けることはできるんだよな?」
「そのくらいならね」
なら、話は早い。
「よし、潜るぞ」
その言葉が聞こえる前に、俺は水中に顔を埋める。
水の中では視界が揺らめき、耳に水が入って音の振動も弱い。プールの底で胡座をかき、茉莉が潜ってくるのを待つ。
すぐに、夥しい水泡を上げて、茉莉が潜ってくる。
浮かぶのはそこそこ難しいが、意識的に潜っているのは容易い。
やや離れた位置の茉莉に、ここまでこい、とハンドサインを送る。
茉莉は右手で親指を立てると、水底に足をつけた。俺は首を振る。そこで一旦、顔を上げる。茉莉も同じように自ら顔を出した。
「息継ぎはしなくていいい。息を止めて、泳いで来い」
それだけ言うと、俺はまた潜る。茉莉も潜る。
茉莉はしばらく考えると、手を平泳ぎのようにして前へ進んでくる。
そう長い距離ではない。すぐに手が触れ合う。水の中で触れ合うというのは、中々に刺激的だ。また、二人で顔を上げる。
「できるじゃないか」
俺が言うと、茉莉は怪訝そうな顔を上げる。
「今のも泳いだっていうのか?クロールとか平泳ぎとか、そういうのを明日音も風華も教えてくれたけど」
「ま、それは競技的なものだな。泳ぐなんて簡単だ。水の中で思うように進めればいいんだよ」
泳ぎ、を教えるのは難しい。それは競技で、『いかに速く、最小の体力で泳ぐか』ということが目的だ。
泳ぐ、というのは、しかしそれに当てはまらない。
「難しくはないさ。別に速く泳ぐ必要はないんだ。水の中でバタ足すりゃ進むだろ?あとは、水の中を進んでいくっていう楽しさを味わえればいい。ここはプールだからまだ楽だが、海とかになると波もあるし、大変だぞ?」
水泳という楽しみは、いつだって水の中にいることにある。
水の中は涼しいし、重力も少ないし、音も違う。息を止めなければならないし、鼻に入ったら苦しいし。人間にとって住むべき場所ではない未知の世界。
地球は水に溢れている。川もそうだ。しかし、人は住めない未開の地。そういう異世界のような感覚を楽しむのが水泳だ。
競技としての楽しみは、また別のものだ。
「ほら、行くぞ」
そういう世界に足を踏み入れるのは、誰だって怖いものだ。
だから、俺が先に潜って、茉莉を先導する。
自由に泳ぐ。
水の中では地上でできないことができる。バク転だって容易だ。言葉も通じないからジェスチャーで気持ちを伝える。中々伝わらないが、それがまた楽しい。
水中で泳ぐことができれば、水面を泳ぐことはその応用だ。
息継ぎは教えない。苦しくなったら息をしろとだけ言っておく。
速く泳ぐことが目的ではないのだ。
「なーんだ、簡単じゃん!」
結局、明日音や風華の段階で、泳ぐことは殆ど身についていた。茉莉自身が、それに懐疑的だっただけで。
「だろ?こんなもんだよ、泳ぐのなんて」
俺が水面に浮きながら言う。
「それ、どうやるの?」
茉莉が興味を示した。やれそうなことにはすぐ興味を示すのだ。まさに実家の子どもたちと一緒である。
「これはちょっとコツがいるんだよなあ」
背泳ぎは俺がなんとなく覚えた泳ぎである。空を見ながらゆっくり泳ぐのが好きだった。そのまま惚けて、よく壁にぶつかったものだが。