夏が人を変える理由
「ふー、やっと帰ってきた」
結局、俺が家に帰ってきたのは八月十五日の夕方だった。
新幹線に乗り、駅からはバスを使う。四日ほど滞在したおかげで、荷物は増えた。現地調達した下着類が数点と、お土産だ。
「貴重な盆休みが……。酒で潰れるとは情けない」
俺の父、高瀬淳(高瀬淳)がうなだれる。
線の細い、なよなよした父の姿は、かなり日焼けしている。仕事で砂漠の特集をしていたらしい。
『幾ら旅行雑誌と言っても、砂漠に好んでいく人はいないのでは?』
当然の質問に、父は楽しそうにこう答える。
『そういう所に本当の美しさはあるし、そういう所に行きたい、と興味を引くための仕事なんだ』
と父は言う。
まあ、言わんとすることはわかる。すごい仕事かどうかといえば疑問だし、実際父の惹かれたところを記事にしているだけのような気がしないでもない。
『父さんのそんなところがいい』
と、母さんは酔って惚気ける。
自分が夢もなく、ただ看護師という職についた反動か、夢を追っている人が好きなんだとか。
ちなみに、ミュージシャンだとか、そういう類の人間には興味がないのだという。
『金の無心をしてくる人はさすがに無理よ』
と母さんは皮肉的に言う。愚痴を聞けば、随分前にそういった人と付き合いがあったらしい。
「明日から何処にいくの?」
母さんが尋ねる。
「明日からは本社で編集作業をするから、暫くは家に帰れるよ」
荷物をおろしながら、父さんが言う。
「あらそうなの!?それは大変ね」
「母さんがね」
母さんは父さんが普段あまり家に居ないことにかまけて、家事を疎かにしている。というより、明日音に甘えている。
「明日音ちゃんは相変わらずかい?」
父さんももちろん、明日音のことは知っている。昔から明日音は、母さんに唆されて高瀬家の家事を任されてきた。
「相変わらず、晴彦の奥さんよ」
「母さんがいいように言いくるめてるだけだろ?」
明日音は俺の家の家事を実によくこなす。
夏休みに至ってはほぼ全ての家事をこなし、朝に俺のパンツを干し、夕方に取り込む。
これも全て、母さんがお願いしているからだ。
「別に洗濯くらい俺だってやれるのに。明日音に頼むから、明日音は俺にやらせてくれないし」
夏休み中、明日音は普段と同じ時間に起き、俺と母さんの朝食を作り、俺の家の家事を午前中に済ませ、昼食を作る。宿題は二人共もう全て終わっている。
適当に昼食を済ませると、二人で出かけたりして、暑さをしのぎながら時間を潰す。
夕方に洗濯物を取り込み、夕飯は母さんに任せ、一時帰宅。夜になれば電話か、また俺の家にやってきて、夜遅くまでテレビを見たりDVDを見たりする。
そんな日々が続いていた。
父さんは笑って答える。
「もう完全にお嫁さんだな。早川さんに挨拶と、何かを持っていったほうがよさそうだ」
「そうしてくれると助かるかな。明日音には頭が上がらないよ」
「何言ってんの、常に尽くされる側なくせに」
「……まあ、そうだけどさ」
俺も何か、感謝の気持ちを送るべきなのか。そんなことを、言われるたびに思う。こんな旅行のお土産のような在り来りなものではない、何か。
毎日の弁当しろ、家事にしろ、明日音に甘えているということは変わりないのだ。
「無報酬で晴彦に尽くしてくれるなんて、愛よねぇ」
母さんが俺をからかう。
「愛、ねぇ……」
明日音の行為が愛なのか、それともただの花嫁修業の一環なのかはよくわからない。
「今年はお出迎えはないのかい?」
父さんがあたりを見わたす。
毎年、帰ってくると明日音が出迎えてくれていたのだが。
「なに、喧嘩?」
「違うって。明日、明日音やその友達とプールに行くから」
明日、いつもの五人で遊びにいく。近場に数年前で来た、大きな施設があるのだ。行ったことがないとは言わないが、最後に行ったのは数年前。
「なるほど、その時のお楽しみ、ってことね」
「そういうこと」
明日音とは、電話で打合せしていた。
どうせだったら、次に会うときは新しい水着姿がいい。水着を選んだということは聞いていたが、その詳細までは聞いていない。
だから、明日は施設の中での待ち合わせ。もちろん、俺と明日音は一緒に行かない。
その方が、なんとなく楽しそうだと思った。
明日音に打診すると、一日二日悩んだようだが、結局同意した。
「なんだか、息子ながら変態的な考えだなぁ」
父さんが僕をからかう。
「男としては健全でしょ。じゃ、私は早川さんにお土産持って挨拶してくるから」
しばらく離れていた自宅の静けさが、なんとも懐かしい。
「しかし、晴彦が子どもに好かれるタイプだったとはね。驚きだよ」
父さんが久々の自宅の空気を吸う。以前に帰ってきたのはGW。そこから砂漠へ三ヶ月。
父親の思い出は少ないが、雑誌を母さんが買ってくるし、海外で買った変なお土産が居間には飾られていて、記憶としては濃ゆい。
はっきり言って変人と紙一重のわが父である。家庭のために仕事で離れている明日音の父親と違い、俺の父は自らの仕事を優先して家を空ける。
勝手気ままな感じが困ったものではある。が、やはり嫌いだとは言えないのは血の繋がりを感じているからだろうか。
「俺が好かれてた?子守を押し付けられたの間違いじゃなくて?」
向こうでは終始子どもたちの世話に追われた。暇な時間がなかったのは幸いだが、心休まる時間もなかった。
彼らは寝るのも早いが起きるも早い。規則正しいを超えて不規則な生活を強いられた。
「晴彦は子供の頃から大人しかったけど、ちゃんと男として成長してるんだなって」
「そりゃあ多少はね。父さんがいい反面教師だったよ」
子供の頃の父親の記憶はない。そして父さんの言う俺の子どもの頃、というのは、一歳か二歳の時の話だ。そんなときの記憶などあるわけもない。
これは手厳しい、と父さんは頭を掻く。日の光に当たりすぎて傷んだ髪の毛がチリチリと跳ねている。正直に言うと、身なりを整えなかったら浮浪者と間違われかねない。
「でも、なんだか羨ましいな。僕も恭子さんも、出会いは遅かったからね。学校時代の思い出なんかはないし」
世の中一般では、昔からの知り合いと結婚するという話はあまりないらしい。特に幼馴染というのは希だ。
「普通の思い出も薄そうだけどね」
「……晴彦、なんだか厳しくなった?」
「成長したんだよ」
俺が笑って返すと、父さんも静かに笑った。声を荒げる人ではない。親としてはやや失格気味かもしれないが、悪い人ではないことはわかる。
はは、こりゃ参ったな、と笑う父さんに、子からの忠告を。
「でもホント、父さんがいないから母さんは家事とか料理とかあんましないんだと思う。俺のことはまあ別にいいけど、母さんのためにも少しは家に帰ってくる時間とったら?」
「耳が痛いね」
荷物を片付け終え、ようやく寛げる家の中。
「今日の晩御飯は?」
「疲れたし、出前にしましょ」
「いいねぇ、何にする?」
溜まっていたチラシを漁る二人の姿は、なんともそっくり。
家事をやってほしいとか、そういった願望は二人にないのかもしれない。ある意味では、成すべくしてなった家庭とも言える。
「こりゃ、明日音が苦労しそうだな……」
無意識に、将来のことを考えている自分がいた。
たった五日だが、これほど長く明日音に会わなかったことはあまりない。開いた携帯の画面で、電話をしようか少し指が迷うけれど。折角なのだから、明日まで我慢しろよ、と、心が呆れた声を出す。
「鰻だって鰻!これにしましょ!」
もう暫く、我が家では騒がしい日々が続きそうだ。俺はそうして、携帯を閉じた。