私の家庭がおかしな訳Ⅲ
「いいなー同棲!毎日一緒なんて羨ましい!」」
姉さんが父さんを見ながら言う。
「確かに楽しかったけど、ずっと一緒というのは、結構厳しいものがあるものだよ?」
「なになに、喧嘩とか?」
姉さんが実に楽しそうに先を促す。私とて、気にならない話題ではない。
「相手のふとしたところにイライラしたりすれば、そのイライラはずっと続くものだし。大学時代、同棲始めたとかいう人も結構いたけれど、半数以上が別れたわね」
「僕と奈美さんも、ほぼ僕の部屋で暮らしてたけど、自分の部屋はちゃんとあったし、四六時中一緒、ってことはなかったんだよね」
「些細なすれ違いが、予想外に大きなものになるものよ?」
「なになに、やっぱ母さんたちも喧嘩したの?」
懐かしそうに昔を振り返る二人に反し、私はそのアドバイスに拍子抜けしていた。
「なんだ、そんなことか……」
安堵したその言葉を吐き、乾いた喉にジュースを流し込む。と、三人の視線がこちらに向かっていた。
「そんなことって、明日音……」
姉さんが驚きに瞳を丸くしている。
「そう言えば、明日音は生まれてこの方、晴彦くんに会わない日はないってくらいだし。それも、朝から晩まで、それこそまさに寝る直前まで一緒なこともあったわね」
更に言ってしまえば、一緒に寝たこともあるのだ。四六時中一緒なのがどうしたというのだ。
「下手すれば、同棲なんか目じゃないくらい、明日音は晴彦くんと一緒に居るのよねぇ」
その事実にしみじみと母さんが目を細める。
学校では別のクラスだが、登下校、そして帰宅して暫く、恭子さんがいない日は夕食を超えて九時くらいまで一緒だ。
同棲がどの程度一緒かは知らないが、私と晴彦に個人的な時間はほぼない。寝る前くらいだろうか。
「ちょっと待ってよ、それに加えて朝昼とご飯作ってるんだよね?」
夕飯はまあ、作ることもある。三食作ることはあまりないけれど、中学から晴彦のお弁当を欠かした事はないし、それを苦労だとも思ったことはない。
まあ、そうしなければ自分の弁当がないという理由もある。
「……明日音って、なにげに主婦適正高い?」
認めたくない事実を噛み締めるように、姉さんは言う。
「もしかしたら、奈美さんより高いかもね」
父さんも笑う。
「だから別に、晴彦と同棲したからって喧嘩とか多分しないし」
「それはなんとなく想像つくのよね。晴彦くんも、喧嘩とか苦手そうだし」
「でも、それはそれでどうなんだい?僕と奈美さんも、多少の喧嘩はあったし。ないというのも、それはそれで不健康のような気がするな」
ああもう、何が何だか、どれが正解なのかよくわからなくなってきている。
「喧嘩はないけど、問題やすれ違いはあるよ」
皮肉なことに、まさに、ずっと、私たちは皮一枚で手をつながない位置にある。
「……ま、そうよね。そのへんは、晴彦くんにお任せしましょっか」
母さんが何かを悟ったような表情で私を見る。
まるでこの先の私と晴彦の姿を見透かしているようで、少し居心地が悪い。
そんな中、私の携帯が音を立てる。
「晴彦くん?」
私の携帯に電話をする人は少ない。姉さんか母さんはともかく、他人では晴彦や風華、茉莉くらいなものだ。
表示されている名前は、予想どうり晴彦だった。
「うん、ちょっと出てくるね」
「別に、ここで出てもいいのよ?」
母さんの悪ふざけを視線で諌めながら、私は自室へと戻る。
階段を上る途中では、酔いどれたちによる談笑が再開される。よく素面でいれたものだ。
「っと」
素早く電話を通話状態に。薄暗い階段を上りながら耳に携帯を当てる。
「晴彦?」
しかし、聞こえてくるのは何やら、こども達のはしゃぐ声や、それを諌める大人たちの楽しそうな声。
切ろうかどうか迷っていると、晴彦の声がする。
『ああ、悪い。ちょっと子ども相手に追われててな……』
その言葉には疲労の色が見える。バスケットをしている時のようなハリのある声ではなく、傍若無人な親戚の子どもの扱いに困っている様子の声。
「大変そうだね」
自然と笑い声が漏れた。晴彦が苦労する姿は中々に珍しい。
『ひと暴れしないと寝ないんだよ、こいつら……。それでいて起きるのは滅茶苦茶早いし。朝の五時にサッカーしようとか、正気の沙汰じゃないぜ』
「好かれてるんじゃない?」
『そうかもしれないが、限度があるだろ……。親は親、子は子で楽しめとか言われてるけど、実質俺はお守りだからな』
「いつごろ帰ってくる予定?」
自室について、小さく明かりを付ける。夏は虫の天国。窓を開けて空気を僅かにでも流す。エアコンはついているけれど、どうしようもない時にしか使用しない。電気代も高いし。
『母さんと父さんが多分、今日の宴会で潰れる。早くても明後日だな』
それまで俺はお守りだ、と晴彦が苦笑する。きっと、なんだかんだ上手くやっているのだろう。
「そっか、大変そう」
その言葉だけでも、笑顔になれる。別に楽しいわけではないのに。
『明日音は、父親と仲良くしてるか?』
まるで私を子供扱いする言葉ぶり。
「大丈夫です。別に仲悪いわけじゃないし。こっちは今日宴会だよ。皆、好き放題やってる」
その様子が想像できたのか、晴彦がおかしそうに笑う。
『俺はこっちに避難しておいて正解だったな』
「私もそっちのほうが良かった」
『明日音にガキの子守が務まるかな?』
「遊んであげることはできないけど、お菓子は作れるもん」
子どもとは、価値観を分かち合うことはできないかもしれない。私は子供の頃から大人しいタイプで、走り回るような子ではなかった。
『それはそれで、集られて大変そうだけどな』
それで、会話が途切れる。
一瞬の空白に、声が漏れる。
「は――」
早く帰ってきて。その言葉はしかし、言えなかった。
唇を噛み締める。
いつだってそうだ。私は気のある素振りをしていながら、決して自分からそう言う言葉を発しない。
好き、だとか、愛してるだとか。そんな言葉を待つだけだ。
早く帰ってきてほしい。それが無茶な我が儘なような気もした。駄々をこねる子どものように思われたくはない。
「私の父さん、実は副社長なんだって」
へえー、すごいじゃないか。
結局、話したくもない、そんな他愛もない話を、私は薄暗闇の中続けることにした。