夏休みが人を変える理由Ⅲ
「明日音のところの父さんも戻ってくるんだろ?」
「え?そうだったっけ?」
自分の家庭のことながら、明日音は他人事のように話す。明日音は嘘をつくのが苦手だ。これもとぼけているわけではないのだろう。
「盆と正月は、毎年戻って来るって言ってなかったか?」
「そういわれてみれば、そうだった、かも?」
本気で考えている。明日音のお父さんも報われない。
明日音が家族の話をすることは、あまり無い。
最近、ようやく小夜さんの話題が増えてきた程度だ。
早坂家の家庭事情が思ったほど良くない、と知ったのは、奈美さんに言われてからだ。
「久々に家族が集まるんだろ?ゆっくり話でもしてみたらどうだ?」
余計な気遣いかもしれない。しかし、そうしたほうが明日音の為でもあるような気がするのだ。
それに、ちょっと明日音のお父さんに同情している自分も居た。
「晴彦は、私のお父さんに会ったことってある?」
「正月にちらっと会った事あるぞ?初詣行くとき」
気は弱そうだが、品のいい優しそうな男性だった。奈美さんがぞっこんであり、一人で舞い上がっておせちを異様なほど積み重ねていたのが印象的だった。
「そっか……。私、あんまり喋ったことないんだよね」
過去を思い出すように、明日音は空に目を向ける。
「それもどうなんだよ……」
「晴彦は、お父さんの思い出ってある?」
俺の父親の思い出。
父である高瀬淳は、しがない出版社で旅行雑誌を手がけている。それゆえ、自宅より旅先にいることが多く、家に帰ってきても生活習慣の違いからすれ違うことが殆どだ。
「まあ、あんまないわな」
一年に数回合うだけの父親の記憶は、殆どない。
大人が絡む行事では、大体奈美さんが明日音と俺の面倒を見てくれていた。母さんは休みが取れないときは本当に取れない。
だからこそ、俺と明日音が兄妹のように育ったという側面はあるのだけれど。
「なんていうのかな、私も、多分姉さんもだけど。どう接したらいいかよくわかってないところあるんだよね」
「そうか?俺はそんなに戸惑うことはないけど」
「それはきっと、確実に顔を合わせる場所があるからだよ。私たちはそんなのないもの」
それに関しては、俺が口を出せることではない。
明日音が、というか早川家は、思った以上に複雑な家庭事情を孕んでいる。
その一つが、高瀬家のように、実家に帰らないこと。
奈美さんと旦那さんは、学生結婚であり、当時色々揉めたらしい。結局は、資金援助なしだとか、勘当同然の状態でここに住んでいる。
しかし、それでマイホームを持てているのだ。
「そうかもしれないけど、明日音の父さんは凄いと思うけどな。小夜さんの大学費用もそうだけど、明日音だって大学に行けるわけだろ?相当努力してるって」
高瀬家のマイホームはローンだが、出版社の父より看護師の母の方がどうやら稼ぎは多く、父さんは母さんに申し訳ないと、内心思っている。そんなことを、以前泥酔した時に口走っていた。
しかし、母さんは父さんのそんなところが好きらしく、収入のことは特に気にしていないのだとか。
「そうなのかなぁ。何て言うか、父親、っていうより、他人、みたいな感じなんだよね」
家族の為に尽くすが、尽くしすぎるが故の代償といったところだろうか。
「まあ、それも話してみればいいんじゃないか?」
「うーん……」
必要性を感じない、というような明日音の表情。暑さを忘れているのか、汗一つ書いていない。
「そうだね。母さんも寂しそうだし。やっぱり、家族は離れているより一緒にいたほうがいいと思う」
大人の都合というのは、やはり子どもからしてみれば勝手に見えるものだ。
「じゃ、明日音も正樹さんと仲良くならなきゃな」
早川正樹。
一家を支える大黒柱を支える存在のように思えるが、実際はその支柱的存在である。
大手商社勤務で、物腰は柔らかく、優しそうな人だ、と記憶している。会ったのは一昨年かその前か。はっきりとはしないけれど。
「う、うん……」
明日音をやり込めたかった訳ではないが、結果的にそうなってしまっている。
「去年の夏も正月も帰ってきてたんだろ?だったら別に心配することないって」
「そうだと思うんだけど……。記憶ないんだよね」
お盆の集まりは毎年恒例で、俺はその時期明日音が何をしているのか知らない。が、どうやら明日音自身も覚えていないようである。
歩く足取りが目に見えて気落ちする。まるで犬の尻尾のよう。
そんなに父親のことが気がかりなのだろうか。
そこで、一つ思い当たる。そういう時は、思考を別の問題に集中させればいいのだ。
テスト勉強中の掃除ははかどる理論。そんなものはないが、少しでも気が紛れればいい。
「そうだ、水着、新しいの買っとけよ」
先ほどのプールの話だ。まだ計画も立てていないが、これを機に本格始動してみよう。
「水着?」
「そ、新しいやつ。服は一緒に出かけて買ってるけど、水着は明日音のセンスで選んでみろよ。その方が、俺も帰ってくる楽しみが増えるし」
今までの明日音の水着姿は、大抵がスクール水着。というより、中学の授業以外では見たことがない。
今の高校には水泳の授業はない。スクール水着を着る義務も義理もない。
「水着を、自分で……?」
明日音の瞳が不安に揺れる。
「で、でも、私スタイル良くないし、水着なんて似合うのないよ」
「いいから。帰ってきたらプールで俺を悩殺するつもりで選んでみろよ」
「む、無理だよ、そんな、悩殺なんて……」
「楽しみにしてるからな」
言葉尻でもわかる、どこかそれを期待している表情。
夏休みの最後に、いい思い出ができそうだ。
「その、晴彦は、私の水着姿、見たい?」
「一緒に風呂まで入って何言ってんだ、って感じだけどな。興味はあるよ」
女の子の肌の感触は、そうそう忘れられたものではない。露出というものの重要さを、俺は認識する。
「そ、そっか……」
何処か意外だったんだろう。明日音は少し驚いたような表情をして、俺から意図的に視線を外した。
相変わらず、手は繋がれないが、左右の足が揺れるたびにもどかしげに擦れる。
夏休みの宿題が終わっても、俺たちの日常は変わらない。
暇があれば勉強をするし、だらだらと意味もなく、しかし満ち足りた日常。
母さんたちの実家へ行くのは明後日だ。
「明日音」
何の躊躇いもなく俺の家に入って靴を脱ぎ。日陰の若干涼しい空気に煽られて、俺は明日音を呼び止める。
「何?」
水着の件を考えていた明日音は、あまりに無防備で。
俺はなんとなく、本当になんとなく明日音を抱きしめる。
体温、鼓動、匂い。それに、明日音が強ばる気配に、俺の中の何かが満たされている。
「な、何?どうしたの?」
バスの中とは違う、明確な意図の抱擁。
夏の暑さもこの暖かさには適わない。
「俺も暫く明日音に会えなくなるから」
実家に挨拶回りに行くのは三日か四日。そう長い期間ではない。
俺と同じような境遇の従兄弟なども来るし、何もやることがない、というわけではないのだろうけど。
三百六十五日で、唯一明日音の顔を見ない期間なのだ。
「……電話、するよ?」
「おう、しろしろ。出れるかどうかはわからないけどな」
あちらでは苦手な酒宴が待っているだろう。飲まされるようなことはないかもしれないが、以前匂いだけで酔った記憶がある。
「ちゃんと出てよ」
心配そうな明日音の瞳が俺を射抜く。
帰ってくる場所がある。
他人の俺を、無条件で受け入れてくれる人がいる。
生まれながらにして俺たちは『家族』がいるけれど。『家族になる』というのは、こんなことなのかもしれない。明日音の肌の暖かさは、いつまでも俺の中に残っていた。