夏休みが人を変える理由
「ええ……?」
明日音の部活に付き合い、俺もバスケ部の練習に顔を出していた。しかし、体育館に入ったとき、思わず声が出る。
男子バスケット部の皆様は、全員がほぼもれなく坊主になっていた。
「男子バスケ部って、坊主強制になったのか?」
隣のコートで練習していた男子バレー部のクラスメイトに尋ねる。
「いや、合宿終わって戻ってきたらこれだったよ。寺とかに篭ったんだろ?その影響じゃないかな」
「それにしても気味悪いよな。野球部でさえも全員坊主とかやらねーのに」
裕翔の姿を見つけ、クラスメイトに別れを告げる。
「よぅ、久しぶり。合宿どうだった?」
「合宿……?」
どこか虚ろな瞳をした友人がそこにあった。
「合宿、ああ、合宿な……。まあ、身にはなったんじゃないか?」
その様子はどこか危うい。廃人、とまでは言わないが、具合が悪いようにも見える。
「やあ、晴彦君じゃないか!」
嶋村先輩がやってきた。先輩は元々短髪だったので、それが少し長くなっている。だけのようだ。
「今日は練習に参加するのかい?」
「あ、はい。それにしても、皆どうしたんですか?」
バスケ部の様子は、運動部にしては異常だ。
活気が無く、しかし皆着実に、そして黙々とストレッチをしている。
「合宿の成果かな。まあ、別に坊主を強制したわけではないんだけどね」
皆とは逆に、嶋村先輩はとても元気そうだった。いや、鬱憤が晴れた、というような表現が似合いそうだ。
「ま、なんにせよ、俺たちもバスケットは久々だ。歓迎するよ」
どうやら、寺では本格的に精神修行のみに専念したらしい。
「は、はあ……」
そう答えると、先輩もストレッチに加わる。
「おい裕翔。合宿でどんなことしたんだ?」
「合宿でしたこと?午前は掃除と座禅、そして読経だろ?午後からは滝行と山菜摘み、あとはひたすら説法を聞いて、それを紙にしたためたり、般若心境を書き写したり……」
ぶつぶつと呟くように言うと、急に呻きだして頭を抑える。
「ば、バスケ……。バスケがしたい……。身体を動かしたい……。座り続けるのは嫌だ……!!」
合宿の合間、本気でバスケット、というより運動すらさせてもらえなかったのだろう。
どうやら精神的に尋常じゃない負荷がかけられたらしい。
「だ、大丈夫だ!もうバスケ出来るぞ!」
「マジ?遊んだら座禅四時間とかの決まり無い?」
「ないない!ほら、ボール!」
バスケットボールを渡すと、まるで待ち望んだかのようにそれをもって、ドリブルを始める。まるで幼い子どものようだ。
「おーい、練習始めるよ!」
「「「ハイ!!!」」」
嶋村先輩の号令に、部員の皆が軍隊のように揃った声を出す。皆目つきが異様なほど真剣だ。
「おいおい、大丈夫かよ……」
俺は変わり果てた部員の姿に些かの不安を覚えつつも、練習に参加する。
ランニングから、ボールを使った簡単なパスからシュートへの流れ。サッカーで個人技を練習する時間がないように、バスケの練習も基本的にはチームワークを駆使しての攻守の練習になる。
アリウープだとかダンクだとか超ロングシュートは攻め方のバリエーションの一つに過ぎず、狙ってやれるようなものではない。
だから皆、前半の練習ではそういった個人技を封じる。やると怒られるのだ。
しかし、後半の試合形式での練習では、それが解禁になる。
試合というのは実力も必要だが、実力があっても『点が取れなければ勝てない』のだ。
時には何百点になる試合の中で、基礎だけで勝ち抜くというのも中々難しい。
なぜなら、同じように相手も基礎を磨いているからだ。バカ正直に基礎を繰り返して勝てるのなら、苦労はしない。
基礎の中に変化を。
そうして何十回と変化して、短いコートを右往左往するのが、バスケの醍醐味である。
流れが速いし変化が些細なため、普通の人が見てもあまり凄さは感じないかもしれない。同じようにコートを走っているように見えても、コートの中ではめまぐるしい攻防があるのだ。
「おっし、やるかっ!」
裕翔が気合を入れる。
皆、身体の錆を落としたかのような動き。
汗をかき、表情も活き活きと、好戦的に。
「だいぶ戻ってきたんじゃないか?」
俺が声をかけると、なんのことかわからない、と言った、いつもの顔の裕翔に戻っている。
「戻った?何の話だよ?」
どうやら、なにかしらいけない記憶として、合宿のことは封印されているらしい。
以前にもこんなことがあったような気がする。
「……テスト勉強の時か」
風華が睡眠学習だと言って、疲れて居眠りした裕翔にイヤホンを着けた。英語の教材のCDをそのまま暫くかけていたのだが、起きた頃には英語と日本語が混じって、ちょっとウザイ感じになっていた。
『……効果は微妙ね』と風華が白けた顔で言っていたのが印象的な事件だ。
「なんだよ?俺は勉強なんてしてないぞ?それより、早く試合やろうぜ試合!」
あのやり方と似ているのだ、と感じる。
トラウマになるまで追い詰めて、身体に、脳に刻み込むやり方。
「おっと、皆いい感じに出来上がってるね。じゃあ、試合やるけど、その前にこれね」
嶋村先輩がラジカセを取り出す。
そして取り出したのは、何とテープ。
「うわっ、先輩なんすかそれ!古っ!」
部員が茶化すようにそれを眺める。
確かに、俺たちが物心ついた時にはCDの時代だったし、今では再生機器も少なくなっている。
そもそもテープは劣化するのが難点だった。あの変な薄い紐はよく絡まるし、切れる。
「音楽でもかけるんですか?」
しかし、驚くべきは、あの中に音楽の情報が入っているということ。レコードもCDもそうだが、今ひとつ俺にはどんな原理なのかよくわからない。
理系には進む理由がないな、と、俺は直ぐそこに控えた二年の文理の選択に答えを出す。技術者なんて柄でもない。
「ああ、ちょっと、待ってね……」
嶋村先輩がテープをセットし、回すと。
流れてきたのは、なんと般若心経。
「なんでこれ――」
俺が嶋村先輩に問いかけるより早く、部員に変化が訪れる。
小刻みに震え、顔色は悪く、というより、無表情に。
一瞬にして、バスケ部部員のすべての表情から、充足感や疲労が消える。そこにあるのは諸行無常の断りである。いや、俺も良くはわからないけれど。
「先輩、これは――?」
俺が尋ねると、意気揚々と先輩は語る。
「合宿でひたすら般若心経を聞いて書いて読んだからね。もうみんな一字一句間違いなく言えるはずさ。そんなものを聞きながらバスケをする方が、動きが良くなるような気がしないかい?」
嶋村先輩は笑顔で言うが、これは洗脳に近い手段のような気がした。先輩だって『そんなもの』扱いなのだ。別に般若心経でなくても良かったのだろう。
バスケでより良い動きを身に付け忘れないために、まずトラウマを植えつけ、それと一緒に別の作業をさせることによって、その作業の効率をあげようというのだ。
般若心経が唐突に流れ、向かいのコートで練習しているバレー部にも動揺が走る。
「きっと般若心経をかけながらバスケをやれば、般若心経を覚えたように、皆いい動きを覚えるんじゃないかなって」
練習法というには、余りにサディステックな手法だった。
嶋村先輩は家では虐げ得られる立場だと、以前聞いた。しかし、家系的にサディズムの血を受け継いた先輩が、それを発散する場所がここなのかもしれない。
「……まあ、ちょっとやりすぎな気はしますけど」
皆の様子を見て、俺はバスケ部の合宿には絶対参加しないことを心に誓う。
「確かに、今はちょっと皆の反応も過剰だけど、慣れれば絶対プラスになると思うんだよね」
過剰というより、皆悟りを開いたような無表情なのだが。後が怖いのでそこには触れないでおく。
「まあ、取り敢えず試合してみようか?」
「……先輩がそう言うなら」
かすれた声の般若心経が流れ、となりのコートのバレー部の視線もある中、試合形式の練習は始まる、のだが。
「無表情なの、どうにかできませんか……?」
皆同じ表情なので、正直敵と見方の区別がつきにくいし、咄嗟の判断も鈍る。
ここぞという時に、その分野で輝く人間は、表情が違うのだが。
「これはこれで、攪乱できると思わない?」
「まあ、相手からしたら不気味なのは認めますが……」
まるで機械か、そうでなければキョンシーを相手にしているような不気味な印象がある。
「でも、確かに本気で人間性が削がれるのは問題かな。冬の合宿はそこのところうまくやらないとね」
この先輩には何があっても逆らうまい。そう誓った。