それぞれの理由 ―晴彦―
キャンプ場に温泉。
「何かミスマッチだけど、こんなのもありだよなぁ」
深夜の温泉は、今までに体感したことのない開放感だった。普通の露天風呂ではありえない、本当の自然の中なのだから。
お湯はそれなりに心地よく、まあ温泉という気分はそんなにないが、足を伸ばして浸かれ、空が見える風呂場というのはなかなかないものだ。
浴槽はその辺りの石を重ねた様な作りで、凸凹してるが、そこがまた面白い。底は流石に削られている。気に入った位置に頭を乗せ、好きな感覚、体制でお湯に身体を浸して楽しむことができる。
俺はタオルを頭の下に敷き、寝るような姿勢で揺れる水を楽しんでいた。目の前には夜空がある。
「独占じゃない、ってのがちょっと残念だな」
今は女子は入ってこないだろうが、男の親御さんが来ることはある。そうしたら、あまりの気まずさに耐えられず、湯船を出てしまうだろう。
風呂は好きだ。温泉も好きだが、露天風呂は景観を楽しみにしている節はある。夜景というより、今眺めるのは星空だが。
「一人ってのも、悪くはない、かな」
落ち着けるときは、誰にだって必要だ。俺にも明日音にも。
まあ、実際は今日も一人で過ごした時間は多くないのだけれど。
「小夜さんとこんなに一緒だったのは初めてかも」
大人だと思っていた彼女は、接してみれば実に子どもっぽく、まるで年下のよう。
明日も、今日のような一日になるだろうか。それなら退屈はしなさそうだ。そう思う自分がいた。
一時間ほど温泉に浸かり、着替えて外に出る。更衣室の明かりが朧げに森を照らしている。
「遅いですっ!!」
突如かけられたその声に、身体が一瞬硬直する。
振り返るように横を向くと、そこには見たことのある顔がしゃがんでいた。
「えーっと、五十嵐春風、部長、でしたっけ」
「そうです!ここに入るのを確認して、出てくるまでずっと待ってました!なのになんですか!長風呂過ぎます!」
「す、すいません……」
何故か、謝っていた。
「あーもうっ!トイレに行ってくるって抜け出したのに!皆になんて言い訳すればいいんですか!」
「べ、便秘とかですかね?」
「そういうのは女の子には結構深刻な問題なんですからね!女子同士ならともかく、男子に言われたらちょっと凹みます!」
「そういうもんなんですかね」
「そういうもんです!」
そこまでの言葉の応酬が済み、春風先輩は息を深く吸った。
「全く、結構意気込んで来たのに、気が抜けちゃいました」
そう言って、顔を綻ばせた。
何というか、小夜さんとは違う魅力に溢れた人である。
接しているだけで心が温まるような笑顔。こちらまで飾らないで接することができる柔らかな声。
美人というにはだいぶ可愛らしいが、小夜さんがモデルなら。春風先輩はやはり『アイドル』だろうか。一挙一動に、人を魅了する天然の何かがある。
「だけど、なんでここに?」
俺が改めて問うと、先輩はコロコロと表情を変える。見ていて飽きない気持ちがわかる。
「話がしたかったんです」
「……俺と?」
「そうです。晴彦くん、あなたと」
それはそれは、非常に光栄な言葉だったが、どこか冗談めいて聞こえた。
「……歩きながらでも?」
「長い話になりそうなので、どこか休めて、虫が少ないところを」
弱い光でも、虫が飛び回る。嫌いな人には、やはり山は試練の場所。
「じゃあ、適当にその片で」
夜間に川は危険だろうと、あのベンチを目指す。俺を待っていたということは、何かしら皆の前では話しにくいことがあるということだ。
普通ならばドキドキでもしそうなシュチュエーションではあるが、生憎俺にはそんな魅力もない。何の話かはわからないが、期待するだけ損というものだ。
昼間来た、いい風景が見える開けた場所は、夜になるとその恐ろしさを惜しげもなく晒す。
一歩道を間違えたら生きて変えれはしない闇がそこにはある。自然というものの厳しさと恐ろしさを知る。これを受け入れられない俺は、野生には向いていないのだ。
「なんか怖いですねぇ」
そんなことを欠片も思ってはいなさそうな、楽しそうな表情で先輩は暗闇を除く。
「で、話とは?」
タオルで髪を拭きながら尋ねる。
「そうですね。ちょっと、お話をしたくなって」
「俺と?」
「そう、晴彦くんとです」
俺と話したいこと。一体何について話したいというのか。俺は別に何かを得意としているわけでもないのだけれど。
「晴彦くんは、私のいいところって、どこだと思います?」
それは、唐突な話だった。
そりゃあ、まずその見た目があるのだろうけれど。それを俺に褒めて欲しいわけではなさそうだ。
ならば性格的なものか?
いやしかし、まともに口を聞いた事のない後輩に、そんな質問をするだろうか。
そういった無駄な疑心暗鬼が、俺の口を閉ざしていた。
「……やっぱり、ちょっと難しい質問でしたか」
彼女はどこか、失望的な笑顔を俺に向けていた。
どんな答えが欲しかったのかはわからない。けれど、彼女が何かしらの答えを欲していることだけは確かだった。
「……すいません」
「罰ゲーム、します?」
彼女はペットボトルを差し出す。
「いえ、結構です」
即座に否定すると、先輩は普通の笑顔を俺に見せた。
「大丈夫ですよ、これは普通のジュースです」
先輩がキャップを開けて、一口飲む。確かに、平気そうだ。
「間接キスとか、気にする方でしたか?」
なんだろう、狙ってやっているのか、それとも天然なのか。
「いえ、しないですけど……」
「じゃあ、友好の印に」
口をつけたペットボトルを俺に躊躇なく差し出す。
「じゃあ、遠慮なく……」
貰わないのもまた失礼だろう。受け取って、一口飲む。
「私独自の調合で、たまたま美味しく出来たんですよ」
その言葉とともに、少し吐き出してしまう。
「……晴彦くんも、私があんまり料理できないと思ってますね?」
すぐ隣から送られる懐疑的な瞳。
「……まあ、印象的には。すいません」
「いえいえ、いいですよ。私もアレの不味さを初めて思い知りましたからね……」
春風ドリンクEX。話を聞けば、ああいったものを毎回作ってこそ居るが、食べるのは初めてだったのだという。
「自分で言うのもなんですが、あれをどうやって作ったのか、私自身もう思い出せないんですよね……」
「無理に思い出さなくても、いいと思いますよ……」
その方が世界のためだ。あれの作り方がネットに乗り、皆がおもしろおかしく真似したら一大事だ。
「でも、普通の料理だってできるんですからね!」
直ぐに機嫌を直してくれる。付き合いやすい人だ。
「分かってます。先輩の班のカレーも、美味しかったですよ」
「一票しかもらえませんでしたけどね」
「それはただの戦略ミスです。カレー自体は、全然おいしかったですよ」
「戦略、ですか」
これがただの料理対決ではないことを、明日音は気付いている。だからこそ、手の込んでないカレーで勝利できた。
「……聞きます?」
「……教えてくれるんですか?」
今日の様子を見て、彩瀬先輩はそれに気づいただろう。ある意味では、春風先輩だけが不公平。
「知りたければ」
だから俺は、その権利を彼女に託す。
「教えてください!」
思ったより即答で、その答えは返ってきた。
「あれをあと四回飲む機会があると思うと、折角の合宿も全く楽しめません!明日の試合は最下位は避けます!」
どうやら、意気込みはあるようだった。
「最下位を確実に避けるのには、何票必要かわかりますよね?」
「えーっと、四票、でしょうか」
「そうですね。つまり、四票以上取ればいいわけです」
「それができたら苦労はしませんよ……」
まあそうですね、と笑う。不正な取引をしない限りは、確実に四票が入る保証はない。
「春風さん料理は特徴的でわかり易いです。そして、春風さんのお父さんはそれを的確に見分け、一票を入れています。他にも、やっぱり親心というか、自分の娘のいる班に票を入れたいものです」
「じゃあ、どうして私の班のカレーには一票しか入らなかったのでしょうか」
その答えは明白である。
「それは、春風先輩の味しかしなかったからですよ」
というよりも、今夜の勝負は、皆張り切りすぎて家庭的な味は明日音の班のポークカレーしかなかった。更に言えば、あれも懐かしい味、であり、明日音のカレーの味ではないのだが。
「まあ、言ってしまえば親補正ですね。班員のご両親がいるかいないかは賭けになりますが、通じれば三票くらいは得票できるでしょう」
美味しさは重要だが、それは今は二の次とする。
親としても、『ああ、これは家のだ』と思えば、情が湧くというものだ。
「そこは皆さんで相談して決めていただくと、効率がいいかと。あとは、普通に美味しく作れば負けはありません」
親に通じるか通じないか、というのはいわゆる賭けであるが。何の策もなく勝負に挑むより勝率はいいはずだ。
「な、なんか卑怯っぽくないですか?」
「卑怯ではないです。卑怯っぽいですけど」
料理で表を集めるのだから、ルールには抵触しないはずだ。
そう言うと、春風先輩は笑った。
「なんだか、私の思っていた人とは少し違うみたいですね」
「人づての評価なんて、そんなものですよ」
失望させたのか、どうなのか。しかしまあ、俺はこの程度の人間でしかないのだ。
「晴彦くんは、明日音さんのどんなところが好きですか?」
また、唐突な質問。しかし、答えを求めていないのかその顔は朗らかで。
「明日音が幼馴染だから好きだとか、料理が上手いから好きだとか、そういうのはなんであれ、説得力があるように言うことはできますけど……」
しかし、である。
「料理ができなかったら好きにならなかったのか。幼馴染でなかったら好きでなかったのか。そうだったかもしれないし、そうじゃないかもしれない。でも、俺はきっと、明日音のそんな些細な一部を好きな訳じゃないんだと思うんです。だから悩むし、考える」
好きというのは、単純で奥深い。
光のように照らすときもあれば、闇に迷い込むこともある。俺は、ずっとその狭間を歩いているような気がする。
「先輩も、自分の一部だけを好きになって貰いたいわけじゃないでしょう?」
容姿が優れているからと言って、それだけで人は恋をしない。小夜さんがいい例だ。そこを好きになって貰おうとしても、それだけでは続かない。
「さっきの質問は、好きな人にはしないほうがいいかもしれないですね」
「……どうしてですか?」
先輩の視線が真剣さを増す。
「あの質問に答えて貰っても、先輩が納得する答えはないでしょうし。相手も、先輩が好きなら答えてあげたくて何かを考えるでしょうし」
相手が本気なら本気であるほど、そういうことを聞きたがるものだ。
しかし、そういうものが自分を縛る。
言葉で伝えられるものはほんの少しでしかないことを、人は知っているはずなのにすぐ忘れる。
相手と絡み合うのならともかく、自分で自分を縛ると、どうしても解けにくい縛り方になるものだ。
暫く間が空いて、ふふ、と可愛らしい笑い声。
「さっきの発言は、撤回しますね」
満足気な瞳は、太陽のようだ。
「晴彦くんは、私が思った通りの人でした」
俺は首を振る。先輩がどんな想像を俺にしたのか。良くは分からないが、そういうものはやはり当てはまらないものだ。
「ちょっと悪知恵が働くだけですよ」
俺がどんな人物なのか。それは俺が一番知りたかった。
「そろそろ戻りましょうか」
夜は時間の経過がよくわからない。だからこそ、話をするにはいい。
「言い訳、大丈夫ですか?」
俺が立ち上がると、先輩も立ち上がる。
「忘れてました……。どうしましょう?」
「考えながら行きましょうか。何かいい案が思いつくかも」
コテージへの道を、二人で歩く。
妙な合宿の、一日目が終わろうとしていた。
「明日の朝の対決は、絶対勝ってみせますからね?」
先輩は、そう言って笑っていた。