私と姉が疎遠な理由Ⅱ
さて、ここで終わればいい話なのだけれど。現実はいつも都合よくいかない。
「へぇ、そんなことがね」
翌日から、私と晴彦の勉強会が始まる。毎年恒例で、全ての宿題を七月中に終わして、後は遊ぶなりなんなりである。
驚くことに、晴彦は私と姉さんの茶番、というわけでもないが、姉さんの思惑におおかた気づいていたようで。
『これからは明日音を怒らせないようにする』
と、晴彦は笑顔で私をからかうだけだった。
「姉さんも姉さんで、大変だったみたい」
小夜姉さんと少し打ち解けて、昨日は眠るまで話し続けた。
姉さんの男性遍歴は凄まじく、顔がいいだとか、家柄がいいだとか、運動ができるとかそういうことにとにかく拘っていた。聞いていて少し呆れるほどだ。
『普通の人とは付き合わなかったの?』
と聞けば、
『普通ってなんだか中途半端じゃない?』
と返ってくる。
短期間で別れて、前の彼氏や、歴代の彼氏とヨリを戻して。別れて、戻って、また別れる。
大学生活はほとんどそれの繰り返しだったのだそうだ。今は奇跡的にフリー。携帯電話は忙しそうに鳴っているが、出る気配はない。
「姉ができた気分はどうだ?」
晴彦と話している間は、ペンを動かしたり止めたり。効率が悪いが、どうせ一日中やっているのだ。というより、こうすると一日中やれるのだ。
「どうだろ。別に変わらないかも。家に帰って、ご飯の時に話す機会が多くなる、位かな」
何かが変わった、と言うほどの出来事ではない。何も変わらない。変わっていない。
「昨日はどうなることかと思ったけど、まあ上手くいってよかったよ」
そう晴彦が言って、私の顔をじっと見る。
「……なに?」
その瞳に、私の鼓動がギアを一段階上げる。
「なんつーか、明日音も言いたいことあるんなら、我慢せずに言ってもいいんだぞ?」
晴彦が、妙に神妙な顔をした。
「なにそれ。どういうこと?」
晴彦に関して、我慢していることがないとは言わない。
「いや、俺に対しても、何か言いたいこと、我慢してるのかな、とかさ。昨日のあれで思った」
確かにあるにはある。しかし、それは姉さんに言った言葉とはベクトルが真逆になる。別の意味で、言えない。
「う、ううん、大丈夫。晴彦には、ないよ」
言えるものか。それこそ恥ずかしすぎて、埋まる穴を掘ってからでないとダメだ。
「そうか……?まあ、遠慮はするなよ」
「うん。晴彦もね」
そうして、また文字列に視線を落とす。こんな会話が、とても嬉しい。
だって、遠慮をするなというのは、つまるところ他人以上であるということで。私に近づきたいと、晴彦が言っているような気がするのだ。
「はっ、るっ、くーん!!」
玄関の扉が開く音より大声で、姉さんの声がする。
余す力でシャープペンシルの芯が折れた。
間もなく、小夜姉さんが晴彦の家の居間に顔を出す。
「晴くん晴くん!そうめん作ってみたの!食べに来ない?」
「あ、お昼ですか?じゃあ――」
晴彦が答えを出す前に、もう既に姉さんは晴彦の腕を取っている。
「ほらほら、早く行こ!乾いちゃうよ!」
「姉さん、普通の男子には興味ないんじゃなかったの?」
私も咄嗟に、晴彦の腕を掴む。
お、おお?と、晴彦が戸惑うように私と小夜さんを交互に見る。その姿は姉妹に気に入られたお気に入りの人形。
何かが裂ける気配。それは人形の肌か、それとも姉妹の絆か。
晴彦は、私と姉さんが和解した、と思っているのだろう。事実、今の今まで、私もそう思っていた。そう思って、油断していたことを後悔した。
「だからぁ、晴くんに普通の男子の魅力、教えてもらおうかなってぇ」
媚びるような声に、晴彦に擦り寄る小夜姉さん。
「大学に戻ったら選び放題でしょ。少し我慢したら?」
「同じ夏は二度と来ないんだよ?時間がもったいないじゃない。それに、丁度いい相手もいるし」
小夜姉さんが、晴彦の首に腕を回す。
夏。
それは薄着の季節。
晴彦の家にはエアコンがなく、私たちは扇風機で厚さを凌いでいた。しかし、やはり多少の汗は出る。
そう言う意味で、私は夏が大好きだ。ああやって晴彦の首周りに腕を回せば、晴彦の匂いが鼻腔を擽る。なぜ姉さんがやっているのか、ということはさておき。
「小夜さん、暑いですって」
晴彦が姉さんの腕を解く。
私と姉さんは、互いに打ち解けたが、理解し合ったわけじゃない。
むしろ、未だに私は姉さんという人間がよくわからない。分かり合う瞬間は、もしかしたらないのかもしれない。
晴彦への言葉と態度は、本気なのかもしれないし、昨日のように私をからかっているのかもしれない。
不器用なのかもしれないし、そうでないのかもしれない。
しかし、それが本気でも悪戯でも、やっていいことと、悪いことがあるのだ。
私は晴彦の腕を掴んでいる力を強め、こちらに引き寄せる。
「おわっ!?」
晴彦が声を上げると、私の腕の中に返ってくる。落ち着く匂い。感触、鼓動の音。
昨日、無意識に言葉に出していたらしい。
晴彦は、私のものだ。そんな独占欲を、私はもう抑えられない。だって、欲を出さなければ奪われてしまうから。
「そうめん作ったって、茹でただけじゃない」
「そうだけどー。いいじゃない、夏はこれでしょ」
私と姉さんの妙に熱い視線のぶつかり合いに、晴彦がため息のようなものを吐く気配がする。思えば、今回は晴彦は私たち姉妹に振り回されっぱなしだ。
「仲良くしてくれよ……?」
耳元で囁かれるようなその言葉を、刷り込むように晴彦の身体を一度だけきつく抱き、そして解放する。
「仲良くできるかどうかは、姉さん次第」
私たちが打ち解けたのは、姉妹としてか、それとも、女としてか。
とにもかくにも、予想していたものと寸分の違いのない、気の抜けない夏が始まる。