早川家の仲がいい理由
その日はこれで終われば、いい日だったのだ。
「今日は着替えないのか?」
家に着くと、明日音は自宅に寄らずに俺について俺の家に入ろうとする。
この頃の明日音は自信をつけたのか、お洒落をして来る。まあ、俺が選んでいるものが殆どだが。明日音は自分のそういったセンスを全く信用していないらしい。
「姉さんいるから」
そこで、それまで上機嫌だったものが下がる気配がする、
「あ、そう……」
やはり、まだ喧嘩中であるのだ。小夜さんの話題を避けて正解だったのだ。
「お邪魔します」
明日音の相変わらず慇懃な挨拶。
家に入ると、人の気配がない。母さんがいるのといないのでは、声の響き方が違う。
「どこか行ったのかな」
「買い物とかじゃない。昨日見たけど、冷蔵庫にあんまり物入ってなかったし」
我が家の冷蔵庫の中を、幼馴染は把握しているらしい。
そうしていつものように、夏休みの宿題を終わすべく努力をする。このペースで行けば、七月中には大半が終わるはずだ。
しかし、六時を過ぎても母さんは帰ってこない。
「恭子さん、何かあったんじゃ……?」
俺より先に明日音が心配し始める。
「二日酔いは治ってたみたいだけど……」
明日音はこういうことによく不安になる。携帯電話が普及する前は、俺との約束を確認するために何度も家に連絡をよこした。俺が風邪をひいた時もそうだ。
普通が壊れることを恐れているとも言える。
そして今ではたまに、寝る前に電話が来る。話すことは普段と変わらない。新たな普通を、俺たちは築いている。
「仕事じゃないにしても、心配するだけ損だぞ。こういうのは、大抵何でもないんだよ」
「ただいまぁー」
玄関の方から疲れた声がする。
ほらな、と視線で合図をすると、明日音も可笑しそうに頷いた。
「おかえり」
「おかえりなさい」
二人で挨拶をすると、母さんは直ぐ居間に顔を見せた。珍しく、他所へ行く時のきっちりとした格好をしていた。
「晴彦、今日明日音ちゃんの家でご飯食べるから」
「は?どういうこと?」
「お見合いよ、お見合い」
いやー、若いっていいわね。そう言って、母さんは自室へと消えた。
何かが折れる音がした。
振り返ると、明日音がシャープペンシルの芯を豪快に折っていた。誤って折ったのではないと、なんとなくわかる。
「……ほらな、心配するだけ損だろ?」
俺の言葉は、多分もう明日音の耳に入っていなかった。
そして場面は、早川家の前。
俺と明日音は、神妙な顔で灯りの着いた家を見つめていた。この先にあるのは天国か魔界か。
「行くか」
家に帰るだけなのに、何故か明日音の方が緊迫しているようだった。
明日音の家の玄関をくぐると、すぐにお洒落なダイニングキッチン。そして隣接するリビングには、高そうなソファが鎮座している。
女世帯であり、綺麗好きの奈美さんと明日音が管理しているだけあって、家の中は新築同様、明るく綺麗だ。女性らしい内装が、家にはないような緊張感を高める。
「お、来たわね。ささ、座って座って」
小夜さんが俺たちをテーブルに案内する。
「姉さん、これ、なんなの?」
明日音が警戒するが、小夜さんはひらりとその視線を躱す。
「べっつに?私の帰省パーティと、一学期お疲れの意味を込めて、ささやかな宴会を企画してあげたのよ」
勿論、ノンアルコールでね、と小夜さんは付け足した。
地面に座るのではなく、椅子に座るという食事スタイルは、家ではなれないが学校で会得している。
「さあ、今日は一杯食べてね!」
ご機嫌な明日音の母さん。机の上に並ぶメニューはからあげや手の込んだシーザーサラダなど、家では滅多に出ない品々。
キッチンでまだ作業をしている奈美さんの姿は、まさに若奥様である。まだ料理はでてくるようだ。
「わお、流石専業主婦は仕込みの仕方からして違うわね!」
「ふふん、伊達に時間余らせてないのよ?」
母さんは先にテーブルに座り、出てくる料理に目を光らせていた。
「母さんは基本冷凍食品か惣菜だからね……」
「出てくるだけましでしょ。まともなご飯が欲しかったらさっさとできる嫁を貰いなさいよ」
長方形の机の短い一片に母さん。そして向かいの席は恐らく奈美さん。そして長い方には、方や一つ、そしてもう片方は二つ。
俺はこっちなんだろうな、と一つしかない椅子に腰掛ける。
「何よ?」
「……別に」
小夜さんと明日音が並んで座る。その絶妙に離れた距離は正しく山あり谷有り。
俺と二人が向かい合うその様子は正しくお見合い。
小夜さんは俺をまるで獲物を見るような目つきで見ているし、その横では明日音が小夜さんをフルに警戒している。
「なんなんだこれは……」
俺が小さく呟いた言葉を、母さんは目ざとく聞いていた。
「ご近所付き合いよ。未来の嫁を今選べとは言わないわ」
「未来の嫁だなんて、お母様、気が早い!」
小夜さんは母さんと楽しそうに笑い合う。
そこはかとなく仕組まれた、胡散臭い宴に、俺は明日音に助けを求めるように視線を伸ばす。
が、そこには全力で小夜さんを睨みつける明日音がいた。
完全に冷静さを失っていらっしゃる。
俺はこの女性だらけの食事会で孤立無援。今日ほど父親が恋しい時間はない。
「はいはい、じゃあ始めましょうか!」
テーブルには香り高い白米と、数々のオードブル。注がれるジュース。きっとデザートも用意されているだろう。
「じゃあ、かんぱーい!」
奈美さんの高らかな声で、宴は始まる。よくよく見れば、俺が生贄のように見えないこともない。