姉妹の仲が悪い理由Ⅲ
私が実の姉、早川小夜を嫌うのには、幾つかの理由がある。
先に晴彦に述べたように、姉は容姿良し、成績良し、性格もまあ、酒を飲まなければ良し、と、根掘り葉掘り探ることなければ完璧な人間に見える。それに対し、男にだらしなかったのが一つ。
性格も異なる。小夜姉さんは外交的で、私は内気。
姉さんを妬ましいと思ったことがないと思えば嘘になる。だが、正直に言えばさほど気にしたことがないというのが本音である。
四年という年月は、姉妹を引き剥がすには十分な年の差だったのだ。
そして、私にはその頃、もう晴彦が傍に居たのだから。
ずっと昔から、晴彦は私の宝物だった。言い換えれば、晴彦は、ずっと私のものだった。
下賎な独占欲だが、本当に、私は晴彦さえいれば他のことは何でも良かったのだ。
「何よ?」
それが今、姉の腕の中にある。
腸が煮えくり返る、という感情を、私は初めて知った。声を荒げたのも初めてだ。
取り返さなければ。私の中の嫌悪が、燃えたぎる。
「離して」
自分でも聞いたことのない怖い声。
晴彦を引っ張る力はしかし、子どもが親を縋るように弱々しい。手も震えていた。
「嫌だ、って言ったら?」
勝ち誇ったような視線が、腹立たしい。
「姉さんには、他に一杯いるじゃない!」
「そりゃそうだけど……。よく知らない男子より、ずっと昔から知ってる男の子のほうがいいかなって」
晴彦を抱きしめるその手は、まるで自分のものを扱うかのようで、更に気に食わない。私だって、あんな風に晴彦を抱きしめたことは少ないのに。
「姉さんが晴彦の何を知ってるって言うの!?」
「知ってるわよー。小学校低学年とか、幼稚園の時とか、晴くん可愛かったのよ?」
あんたと違ってね、と小さく姉さんは付け加える。流石に幼少の頃の記憶は少ない、小学校高学年以降の記憶が殆どだ。
「瞳がきらきらでね、私が来るたびにこっち見るの。あんたは五月蝿かったけど、晴くんは良い子だったわ」
「……よく覚えてるね」
「そりゃあね。私に初めてできた弟分だし。それに、良い所そのまんま大きくなってる」
「小さい頃の思い出だけで結婚するの?」
「他にも、あんたが幸せそうにしてるの見ると、晴くんがどんなにいい男かわかるもの」
私は歯を強く食いしばる。
やっぱり、これは当てつけなのだ。
恐らく、姉さんは晴彦を恋人のように思ってはいない。けれど、私が晴彦と、遅かれ早かれそうなるだろうとふんで、それを邪魔しに来たのだ。
それも、本当に、晴彦を私から奪うような形で。戯れに、子どもが昆虫を遊びでその命を手折るような、そんな手軽さで。
そんな遊び感覚で、私のこれまでを、私のこれからを台無しにされたくない。
春風部長が晴彦を好きになって、晴彦が私の下から去っていくのは、仕方がないだろう。春風部長なら、許せる。それは茉莉や、風華でも同様だ。
しかし、姉さんだけは許せない。だって、姉さんは本気じゃないから。
これが姉のやることだろうか。何故姉さんはそんなことをするのか。
そんな理論的な答えより、ただ許せないということだけが、私の中に渦巻いていた。
「なぁに?五月蝿いわね」
母さんが和室から顔を出した。恭子さんはまだ寝ているらしい。
私たちが睨み合う中、母さんは緊迫感もなしに晴彦に近づく。
「あら、晴彦くんお酒大丈夫……なわけじゃなさそうね。何やってるの、小夜。晴彦くんグロッキーじゃない。明日終業式なんだから、離してあげなさいな」
「えー……」
さしもの姉さんも、家事をしに来てくれる母さんには弱いらしい。晴彦の拘束が緩む。
「晴彦くんも恭子さんと同じで、お酒の適正ないのねぇ。婿に来ても詰まらないじゃない。ほらほら、どっちが未来のお嫁さんでもいいけど、旦那の身体は一つなんだからね」
母さんが晴彦を抱きかかえて、私に近づく。
晴彦の顔は、風邪をひいた時より真っ赤だった。
「晴彦、大丈夫?」
私が駆け寄るも、晴彦はもう寝ていた。というより、意識が混濁していた。
「死にはしないけど、暫く気持ち悪いかもね。水でも飲ませてあげなさい。小夜、持ってきてあげて」
はーい、とやる気のない声で、姉さんが台所へと向かう。
晴彦は譫言のように唸り声を上げていた。
「大丈夫?」
私が聞くと、晴彦は意識を取り戻したように動き出す。
「……気持ち悪い」
案の定である。
それだけ言うと、晴彦は私の手を探し、ゆっくりと力強く握りしめてきた。
「匂いだけでここまでとはねぇ。まあ、恭子さんも十年私が鍛えてようやく酎ハイ二缶だし。遺伝かなぁ」
晴彦が私の傍に戻って来た。それだけで、私の心は一定の落ち着きを取り戻した。
「はいよ」
姉さんがコップに水道水を入れて、戻ってくる。
「私が飲ませてあげよっか?」
まだ、姉さんは私を挑発するような言葉を言う。
「こーら。あんたがやったら元も子もないでしょ。明日音に任せて、私らは家に戻って飲み直すわよ!明日音、晴彦くんと、恭子さんのことお願いね。最悪、お泊まりでもいいから」
謝罪のつもりなのだろうか。母さんは、私に向けてウインクをした。
「えー……。詰まんない」
小夜姉さんは不服そうだ。
何が不服なのか、私にはよくわからない。ただ、子どもがすぎた遊びをするような危機感を、私も、そして母さんも抱いたのだろう。
「じゃ、またねー」
家族に言うことはない挨拶を交わし、二人は渋々、家に戻っていく。何をしに来たのか、はたはた謎でさえある。これだから、お酒は好きになれないのだ。
「なんだったの……」
私は呆然としてそれを見送った。
後には、動かない二つの身体が残るだけ。
「取り敢えず、運ばないと」
恭子さんはともかく、晴彦を玄関に寝かせるのは問題だろう。
「ごめんね」
晴彦の身体を運ぶには、両手を持って引き摺るしか方法はなかった。綺麗なフローリングは、抵抗を弱める。
晴彦の身体は、以外に重かった。
畳の利便性を、今こそ私は感じていた。ソファの上に寝かせることは難しい。
「よい、しょっと」
晴彦を寝かせ、その頭を私の膝の上に乗せる。
皆でいる時も賑やかでいいが、やはり晴彦と二人の時間はいい。例え言葉がなくても、繋がってさえいれば私の心は安らかに高鳴る。
「うー……」
気分が悪そうな表情。太ももの上を頭が暴れる。くすぐったい。
「水、飲む?」
水の入ったコップは、テーブルの上に置いてある。未だ口を付けていない。匂いで酔ったのだから効果は薄いだろうが、気休めにはなる。
ぺち、と軽く晴彦の頬を叩く。それに気づいたのか、晴彦が目を覚ました。
起きるさまはまるで悪夢から目覚めたような様相で。本気で気分が悪いのだということがわかる。
「ほら、お水」
私がコップを差し出すと、晴彦は朧な瞳でそれを受け取って、一口、また一口と飲む。
「楽になった?」
そう問う私の瞳を、濁った晴彦の瞳が覗き込む。濁っていてもその瞳は愛おしく、私を映していることに喜びを覚える。
「んー……」
まるで譫言のような言葉。寝起きとは言い難い、二日酔い特有の雰囲気。まあ、私はなったことがないが。相当辛いらしい。
母さんが主婦じゃなかったらやばかったわ、と言っていたことがある。その時は、日本酒の大瓶が数本空いていた。
今思えば、あの空間は地獄のようだった酒の匂い以外にも、嘔吐した物質の臭いが混ざって、蓋をしたい世界だった。その時も、晴彦の家に逃げ込んだ。
やっぱり、お酒なんていいことない。そりゃあ、今この状況は少し嬉しいけど――。
そんなことを思っていた矢先だった。
「うンッ!?」
身体全体に、顔に、のしかかるような物体。それは、一瞬の事で。私は、その衝撃に、その一瞬だけ、目を瞑った。瞑ってしまった。
そして次の瞬間、目の前にあったものが離れていく。ずれるように下へ。顔に、そして胸に。
そして、私の余り自慢ではないその胸に顔を押し当て、晴彦はもう一度、寝た。
「わっ!?」
その衝撃に力が抜けて、私は晴彦に押し倒される。
唖然とした。
見慣れた天井が、やけに遠く感じた。
胸に顔を押し付け眠る晴彦は、安らかな心臓の鼓動をしていた。
今、なにが起こったのだろう。分かってはいるが、その一瞬を確かめるように思い出す。
残っているのは、最後に晴彦が私の唇を舐めた、妙に生暖かい感触だけ。
「うわ……」
その唇を、指でなぞる。その感触が消えてしまいそうで、強くは触れなかっ
た。
その手で、晴彦の頭を抱きしめる。
人は、嬉しすぎると無表情になるものなのだと知った。
「お酒も、まあ、悪くはないよね」
現金なもので、お酒への嫌悪感は薄れていた。酔うとその人間の本当の姿がみれるとも言う。都合のいい話だ、
後悔はただ一つ。
「――なんで目を瞑ったんだろ……!」
悔しさと嬉しさを抱きしめるように、私は強く晴彦の頭を抱きしめた。