姉、来る理由
不味い、という言葉がある。
これは美味い、ということの対義語であるとされる。が、旨味と呼ばれる成分が発見されたにもかかわらず、まず味などという成分は未だにない。
なら、どんな物が『不味い』のだろうか。
晴彦はトマトを含め、色んな食べ物が嫌い、というか苦手だが、それはあくまで苦手、であり、不味いという言葉は使わない。
『苦い』というのが不味いのか。これは人によって分かれるだろう。ピーマンのような苦味は、大人になってから好きになる場合もある。
違う。『不味い』というのは、そんなものではない。
不味い、というのは、美味い、と同じように、好き嫌いを超え、全人類で共有できる感情だ。
私も滅多に口にしない『不味い』。実は、世の中には、そこまで『不味い』と称することができるものは存在しないのかもしれない。
だとすると、『不味い』ものは実は途轍もなくすごいのではないだろうか。
人種や、国や、国境を越えて。
私たち人間は、『不味い』という概念で笑い合えるのではないか。そして、世界は平和に――。
そんなおかしな夢幻から、私は目が覚める。場所はいつもの家庭科室だった。
「はい、じゃあうちの夏休みの活動は、キャンプ場で二泊三日、完全自炊サバイバル生活に決まり、ということで」
一学期最後の料理研究部の活動は、半数が生きる屍と化していた。
かくいう私も、そのうちの一人だ。
彩瀬副部長が、夏休みの活動の議決を取り、確定する。
部員の半数が、言葉にならない『不味さ』に、考えることもままならないまま、その活動は決まった。
「楽しみですねぇ」
春風部長も楽しそうにしているが、私を含め数人は、それどころではない。
「春風ぁ……。あんたって奴は……」
先輩の一人が、恨みがましい視線を向ける。
「しょ、しょうがないじゃないですかぁ。ゲームはゲームなんですから!」
春風部長は精一杯の抵抗を見せた。
本日の部活動は、晴彦の試合の時に思いついた、『夏休みの活動に無理を言える権利』を賭けたゲーム。
その内容は簡単。
春風部長特製、激マズシュークリームを食べた人が当たりであり、夏休みの活動に何か一つだけ、我が儘を言える。
「いつもながら、強烈だわ、春風の料理は……」
「私の料理が全部不味いみたいに言わないでください!普通の料理だって作れますから!」
春風部長は、不味い料理を作るのが上手い。
何を言っているのかよく分からないだろうが、実物を食べてみれば良くわかる。
不味い、と一般的に言われるのは身体が受け付けないものだ。味が、ではなく、身体が体内に入れたら危険だ、と判断した時のみに脳が発する信号。それが『不味さ』であると私は思う。
苦い薬を大人は不味い、とは言わない。それが薬であることを理解しているから。しかし、子どもはその苦さが体への驚異に感じるので、『不味い』という言葉をよく使う。
つまり、『不味い』というのは、料理として未完成、または食べ物ではないという意味合いで使われる。
しかし、この世にはその『不味い』という味覚を、完全な料理として提供する人間が世の中には居るのだ。
どう考えても『不味い』ミスマッチな味のアイスや飲み物を、商品として売り、そして買う人間がいるという事実。
春風部長もその料理人の一人。
普通の料理も無論作れるが、『不味い』物を作ることに関して、春風部長の右に出るものはそう居ないだろう。
「ちなみに、あのシュークリームのクリームはなんだったんですか?」
私が痺れる舌と、胃の不快感に耐えて問う。しかし、身体はあの物体を「食べ物」だとギリギリ認識していて、吐き気はない。
当たりのシュークリームの味を表現することは、不可能に近い。
苦いとも、辛いとも言えない。食べ物とそれ以外の一線をギリギリ超えないラインの味。
「……秘密です」
にこやかな笑顔で言われると、こちらとしても聞くのが怖い。あれを食べたものは、皆視線を合わせて真実から目を背ける。
「一応、食えないものは使ってないことは保証する」
彩瀬副部長が頭を抑えて言う。シュークリームは春風部長が自前で持ってきていた。
『自分たちで作ったら、加減しちゃうでしょう?』とのこと。
部長は、相変わらず悪魔だった。ちなみに、二人も勿論食べた。彩瀬副部長は神に祈り、ハズレだとわかった瞬間ガッツポーズをした。
「今年の文化祭はこれにしようか?」
「いや、流石にこれは……。食中毒とかに間違えられたらヤバくない?」
助かった皆が、口々に春風シュークリームを評価する。
「食中毒って……。あんまりじゃないですか……。そりゃあ、確かに美味しくないように作りましたけど」
「春風も昨日、どうしたら不味くなるか、魔女のような不気味な笑顔で考えてたじゃないか」
「そんな顔してません!」
「いや、してた。焼きあがった時に紫色の煙が上がったとき、私は心底、これを企画したことを後悔したね」
楽しそうなやり取りが続く中、私たち当たり組は見事なまでにダウンしていた。
夏休みの部活に、何か一つ我が儘を言える権利。これが夏休みの活動を楽しむためのエッセンスではあるものの、その代償は大きかった。
私には、この権利をどうしても得なければいけない理由があったのだ。
「部長、早速、権利を使いたいのですけど」
「今ですか?焦らずに、もう少し考えてもいいんですよ」
「いえ、決めてたんで」
「ほう、いい度胸だ。よし、何でもどんときな!」
次の瞬間、家庭科室に驚きの声が上がった。