私の幼馴染が学校を休む理由Ⅱ
晴彦が休みでも、恭子さんがいない場合は鍵がかかっている。
玄関の鍵を開け、中に入る。
「お邪魔します」
一階に人の気配はない。やはりまだ晴彦は寝込んでいるのだろう。家には音がない。
靴を脱ぎ、少し躊躇ってから、音を消して二階へ。
こんな私たちだが、互いの部屋に入った経験は数える程だ。
晴彦の部屋にはこうして病気で寝込んだとき入るくらい。階段の何処の床が軋むのか、私にはわからない。寝ているだろう晴彦を起こさないように、慎重に進む。
そもそも、私たちは双方の部屋に入る理由があまりない。
晴彦の家はご両親が不在の時が大半で、かつ晴彦の部屋にも、私の部屋にも勉強机くらいしかものがない。そんなに広くもないし。
そう、私はまた忘れていた。忘れたまま、そのドアノブに手をかける。
『幼馴染の部屋に入る』ということと、『好きな男の部屋に入る』これがどれほど違うものか、私は今に思い知るのだ。
かちゃり、と静かにドアを開けて、ちらりと中を覗くと、ベッドには人一人分の布団の盛り上がりが確認できる。
やっぱり、寝ている。寝顔でも見ようか、と迂闊な気持ちで部屋に一歩足を踏み入れる。
「――」
そこで感じるのは、部屋中に満ちる晴彦の匂い。
それは当然だ。だって、ここで毎日晴彦は寝ているのだから。
そして、知られてこそいないが私は重度の匂いフェチなのだ。私にとってしてみれば、ここは危険区域であった。
「す、凄い……」
変態的にも、そう呟いてし、すん、と鼻を鳴らしてしまう。
何がすごいのか、自分でもよくわかっていない。晴彦のフェロモンとでも言うのか、私を引きつけて止まない匂いが、部屋中に満ち溢れているのだ。
私の胸を高鳴らせ、そして落ち着けるという、相反する作用を同時にもたらすそれは、やはり晴彦本人から強く発せられている。
「そう言えば、昨日お風呂入ってないんじゃ……」
それを汚い、とは何故か思わなかった。顔を見るため、ベッドに近づく。
晴彦はやっぱり寝ていた。静かな吐息が定期的なリズムを刻んでいる。
「ごめんね」
おでこに手を当てる。まだ少し熱いが、微熱といった程度にまで落ちてきてはいるようだ。
「うん、良かった」
その片に置かれた、薬の袋と僅かに水が残ったコップが入ったお盆を持ち上げ、台所へと向かうことに。
部屋から出ると、冷たい空気が私を包む。どこか名残惜しさを感じながら私は一階へ降りる。
コップを流しに起き、私も一息をつく。晴彦の無事を確認できて、私の心の中に余裕が生まれつつあった。
「着替えてこよっかな」
看病と言いつつ、私に出来ることは少ない。ましてや、本業である看護師の恭子さんも寝てれば治るというのだ。私がいても晴彦の体調が良くなるわけでもない。
これは実質、晴彦の傍に居たい私の我が儘でしかない。
だが、それがどうしたというのだ。私は、誰よりも晴彦の傍に長く居たいのだ。だから私は、同級生の予定より晴彦の予定を優先する。
思いやりがあるとか、そういう話ではない。私はただのわがまま娘に過ぎない。他には何もない。だからこそ、私はこのたった一つ我が儘を譲る気はない。
一旦晴彦の家を出て、自分の家に戻る。
「お帰り。晴彦くんはどうだった?」
まるで私がここに来る前に、晴彦の家に寄ってきたことを見通すような口調。事実、その通りなのだが、それが何か馬鹿にされているようにしか思えないのは、まだ子供なのだろうか。
「うん、寝てた。熱も少し下がったみたい」
「そ、良かった。恭子さん、今日夜勤だって。あんた、面倒見てあげなさいね」
晴彦くんの家に泊まってもいいから、と母さんは言う。
「……出かけるの?」
「うん、ちょっと小夜のとこにね。羽を伸ばしに」
リビングには荷物が纏められてる。どうやら今日の夜から出かけるよだ。別に珍しいことじゃない。
「小夜は明日音と違って料理とか家事とかさっぱりだからね。敷金礼金のために、ね」
父と小夜姉さんは、掃除などをやらない。故に、母さんが掃除などをしに月に一回程出向く。メインの目的は遊びなのだろうが、専業主婦の少ないお休みといったところだろうか。
「そう。お土産、よろしくね」
あ、後、と思い出したように私は母に告げる。
「姉さんに言っておいて。晴彦は渡さないって」
「はいはい。でも逆効果だと思うけど?更に言っちゃえば、明日音と晴彦くんが結婚しても、義理の姉って立場を利用して近づいてくると思うわよ?」
むう、と唸る。姉は、もうそれほど追い詰められているというのだろうか。
「明日音にとっちゃ大変だと思うけど、小夜も小夜で必死なのよ?そこはわかってあげなさいね」
「……やっぱさっきの、言わないで」
選ぶのは、晴彦。
それでいいのだと思う。私が晴彦の周囲にいる女性を追い払うこともできる。しかし、私が欲しいのはそうではない。 世界に二人しかいない状況で、私は晴彦に選ばれたいのではない。
茉莉も、風華も、そして小夜姉さんもいる、この世界で。私は、その中から晴彦に私を選んで欲しい。
「あんたも、きっちり女になったわねー」
母さんは嬉しそうに私の頭を撫でた。
「そ、そう、かな?」
「そうよー。これなら晴彦くんに嫁いでも問題ないわね」
「と、とつ……?」
結婚。今まで散々私をからかってきたその話題が、突如現実味を帯びて私の前に姿を現した。