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私たちが恋人になる理由  作者: YOGOSI
二話目
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私が欲張りになる理由Ⅳ

「な、なっ」


 気付けば晴彦の口が耳に接していて、鼻は頭に押し付けられていて、身体は心臓の鼓動が感じられるほど近い。


 驚きはしたが、私の身体は逃げるどころか、晴彦の熱と匂いを求めて近づいていた。


「こうすれば明日音だって一撃で覚える、って奈美さん言ってたけど、どうだ?嫌ならやめるが……」


 驚いたことに、晴彦は私の耳元で話すということに、一切の羞恥を感じていない。


 何だか、悔しかった。


 それが母の策略の中にあるような気がしたけれど、譲れないものは譲れない。


「ま、まあ、普通にするよりは、集中して覚えられる、かも」


 嘘ではない。


 身体に刻み込む、というのは、正しくこういう事なのだ、と脳が認識している。


 視覚と味覚を除く五感が、晴彦だけに集中している。


 晴彦の匂い、晴彦の体温、晴彦の声。


 目を瞑れば、もうそこは私と晴彦だけの世界。


「そか。じゃあ、後でテストな」


 もうその声すら、余りに近くて私の背筋を震わせる。


 晴彦が英単語を言い、その後に日本語訳を言う。ただそれだけ。


 鼓膜が単語を記憶する。脳に届くのは甘美な刺激だけ。


 力を抜くタイミングがわからない。常に力が入っていると思えば、晴彦の囁きとともに力が抜けていく。


 早く終わって欲しいと思う気持ちと、永遠に続けばいいという身体の反応が矛盾して、私の中に混沌を生み出していた。


「ん?ん――……」


 刺激の強さに、若干、惚けていた。次の瞬間。


「ひゃあ!!」


 晴彦が、私の耳たぶを甘噛みした。


 私にあったのは、まるで全身を食べられたかのような、幸福感だった。


『恋ってのはね、結果はともあれ、好きになった方が負けなの。だって、もう心が落ちちゃってる訳だし。振られたら悲しいし、触れられたら嬉しい。身体の反応は、嫌でもついてくるものよ』



 今朝の母の言葉思い出す。私の心は、もうとっくに落ちている。


「ちゃんと覚えてるか?なんてな。ちょっとした悪戯だ」


「も、もう、真面目にやってよね」


 必死に、普段の声を搾り出す。


『恋に落ちる、ってよく言うでしょ。でも、落ちるのって底なし沼なのよね。一旦落ちたらなかなか出れない。落ちても落ちても底にはつかない。落ちるのが怖くなくて、むしろ幸せなの。すると、沼から出るのが怖くなるのよね』


 母さんが今朝言っていたことが、今ならよくわかる。


 私はもう、自力でこの甘美な幸せから自力で出ることはできないのだろう。今日この日、私はより一層の深みへと到達する。


「ほい、じゃあ逆ね」


「え?」


 晴彦はもう片方の耳栓を左耳にして、右耳の耳栓を外す。そして、自らも私の右に回り込んで、英単語の続きを私に囁く。


 今この状態で、好きだ、などと呟かれたら、私はどうなってしまうのだろうか。そんな妄想でさえ、私の脳を蕩けさせる。


 まだ晴彦の吐息に慣れていない右耳の鼓膜は、待ちわびたかのようにその振動を受け入れた。


 受け入れたのはいいが、正直、体力の方が限界に近づいていた。


 体力がある方ではない、という次元の話ではないのだ。


 疲労ではなく、あまりの幸福感に、身体が限界だと、脳に危険信号を送り始めている。幸せすぎて、意識が飛んでしまうかもしれないという、未曾有の危機に私はあった。


 しかし、ここで晴彦の悪戯心が開花する。


「んー……」


 ちょっと飽きてきたのだろう。晴彦からすれば、ただ英単語を言葉にしているだけだ。


「――ひっ」


 耳たぶを噛まれたなどというレベルの衝撃ではなかった。


 晴彦の下が、私の耳の奥にまで侵入してきていた。


 耳栓により、私の右耳には、舌が蠢く粘着質な音と、晴彦の吐息のみが聞こえてくる。


 刺激に耐えられず、瞳を閉じるが、全くの逆効果。現実を超えて、私の意識は晴彦の下にのみ集中してしまった。


「――は、はるっ」


 言葉が言えない、舌が回らない。ああ、私が沈んで。私が満たされていく。満たされて、そしてそれ以上はない。私は、これでしか満たされない。


 晴彦も少し気に入ったのか、私が止めないからか。本当に私の脳に届く位、耳の奥に下を突き入れてくる。


「き、きたない、からっ!」 


 耳というのは、実際そこまで綺麗な機関ではない。化粧をする女子とは言え、耳の中まで綺麗にするなんて話聞いたこともない。


 耳垢というのは現実に存在する垢であり、私が耳掃除をした最後の記憶は数年前にもなる。


 そんな場所を、晴彦が舐めている。


 微かな高揚と、消えてしまいたいくらいの羞恥が私を襲った。


 だが、困ったことに逃げることができない。甘美な幸福がそこにあったのだ。


「んー……、らいひょふらいひょふ」


「――!!」


 私の言葉は聞こえているのだろう。舌を突き出したまま舌足らずな言葉を話す。


 その振動が舌を通じて、より事細かに私の鼓膜へ、私の体へ、私の脳へと伝導する。


 何が大丈夫なのだ。私の耳を舐めることが?それは身を焦がすほど嬉しい事柄ではあったが、その時の私はそれを素直に喜べるほど正常な判断力を失っていた。


「ふぅ」



 あれから、どの位耳の中を侵略されたろうか。


 私の体はもはや無条件降伏に近い形だったが、彼はそんなものは知らぬと、私の脳に攻め入っていた。


 時間の感覚はとうになく。ただ耳の奥に響く幸せに身を震わせて、快楽に精神が負けてしまわぬように耐えるという、耐え難い拷問を私は受けきったのだった。


「悪い悪い、なんだか悪戯したくなって」


 悪戯。晴彦にとって、この程度悪戯で済んでしまうのが恐ろしい。


 小悪魔系女子だとか、世の中にはある。だが、本当の悪魔は男女関係なく、心から好きな人間が出来た人に襲いかかる。


 私の脳には、無数の英単語が刻まれた記憶と、形容できない幸福が後に残り、姿勢を正すことさえ困難だった。


 息も粗く、身体の芯を溶かされた私は、机に顔を付ける。


「も、もう……。やりすぎ」


 そう答えるのが精一杯だった。耳の奥には、まだあの変態的な水音が残っている。


 晴彦は私がダウンする様を見て、容赦なく追い打ちに入る。


「右だけじゃ不公平だし、左もやるか」


 そう言うと、私の左耳に、同じように舌を突き入れた。


「ちょ……!!」


 衝撃だった。


 右の耳はもう限界だったので、机に接着させていた。そうすると、必然的に左耳が上になる。そこを狙われた。


 何が不公平なのかという理論的な反応が、できるはずもなかった。


 今度は丁寧に、まるで私の耳垢を舌でこそぎ取るように、優しく、隙間なく。私でさえも触れたことのない場所に、晴彦の暖かい舌がゆっくりと、それでいて優しく入ってくる。


 暴力的な優しさと、脳神経が焼ききれて後遺症が残るかもしれない程の快楽と幸福。


 耐えることができない。こんなの、無理に決まっている。理性はそう言うが、本能は違う。


 今まで満たされなかった身体に、溢れんばかりに注がれた何かを、私の身体は全て受けきってしまう。まだ、まだ欲しい。もっと欲しい。理性は、もう欠片も残っておらず、私は晴彦に為すがままだった。


 艶かしい音を立てて晴彦が舌を抜いたとき、私の身体と脳は蕩けきっていた。


「うーん、ちょっと夢中になりすぎた。明日音、大丈夫か?」


 私の様子を見て、晴彦がそう尋ねる。


「大丈夫じゃ、ないよ……」


 私は痺れた脳幹をなんとか理性的に働かせ、言葉を言うことに成功する。


「悪い悪い。なんだか、やり始めたら止まらなくてさ」


 晴彦はやはり何時も通り、というわけでは、多分決してないだろう。


 今までの晴彦なら、いくら母の甘言だろうと、こんなことをするはずがないのだ。


『あんたが女になれば、晴彦くんも男になる。晴彦くんが男になれば、あんたが女になる。そんな二人三脚で歩いていけるって、なかなかないわよ?』


 そう、これは晴彦の男としての行為なのだろう。


 そして、それを私にした、ということは、私を女だ、と晴彦が認識しているということで。


 そして、晴彦が男になったのは、私が女になったからで。


「耳とか、汚いよ?」


「まあ、でも明日音のだし?」


 理由になっていない理由は、私たちにだけ通じる魔法の言葉。


「なにそれ……」


 ちらりと時間を見て、戦慄する。


 あんなに長い間あの攻撃に耐えたのに、時間は未だ十二時前。


「それより、この方法で単語覚えられそうか?」


「え?……ああ、うん。まあ、いいんじゃないかな」


 これをノーと言って、二度とやってもらえないのはあまりに惜しい。咄嗟に、そう答えていた。


「じゃあ次からは問題形式で、間違えたら罰ゲームな」


 その罰ゲームは、本当に罰ゲームなのだろうか。楽しそうに晴彦は言う。


「わかったから、ちょっと休憩しよう?お昼だし、ご飯作るね」


 私が立ち上がろうとするも、腰に全く力が入らない。


「何やってんだ?」


 変なふうに崩れ落ちた私を、晴彦が素朴な顔で眺めていた。


「こ、腰が抜けちゃってる……」


 あれだけの刺激を受けたのだ。再起するには相応の時間がかかるだろう。


 私の身体は、まさに骨抜き状態。


「大丈夫か?」


「う、うん。ちょっとお昼ご飯は待ってね」


「じゃあ、勉強しながら待つか」


「え」




 結局、私が一人で立てるようになったのは、三時頃だった。久々に食べたカップラーメンの味を私は覚えていない。耳は晴彦の吐息を直に受けすぎて、麻痺したかのように疼いている。耳たぶも、歯型がついたのではないかと思うほど甘噛みされた。


 その日の夜、余りの披露にベッドに入った私は、気持ち悪いほどにやけていた。


「ふふ……」


 私が女だと、晴彦は認識し始めている。


 私の中に、焦りも何もない。ゆっくり、ゆっくりとだけれど。私と晴彦は、男と女になっていく。


 そして、晴彦を男にするのは、私なのだ。



 そのフレーズだけで、私は堪らないほど幸せに包まれることができたのだった。

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