私が欲張りになる理由Ⅲ
「――時間!」
約束の時間を、とっくに過ぎていた。私は焦って、飛び出そうとする。が。
「明日音!あんたまだ寝起きのままでしょ!私が説明しといてあげるから、準備してきなさい!」
私はまだ髪の毛も整えていなければ、寝巻きのままだ。
「う、うん!」
「晴彦くんを落とすことを考えてて、晴彦くんとの約束を破ってちゃ本末転倒よね」
「母さんのせいでしょ!?」
私が晴彦との約束を破るなんて、これが初めてだった。どう謝ろうか考えつつも、私は自室へと戻る。
お洒落を意識する時間もない。髪を整えて、服を着替える。化粧なんかをしていれば、もう少し時間がかかっただろう。それでも、二十分ほどの時間がかかった。
玄関に降りると、母さんと晴彦が楽しそうに談笑をしていた。
「あら、もう終わったの?もう少し時間かけても良かったのだけれど」
「よう。迎えに来てやったぞ」
晴彦が不機嫌な様子はない。良かった。私はようやく一息つける心地がした。
「ご、ごめん」
「いや、いいって。部活やらなくなってから、明日音を待つのは慣れたからな」
まあ、流石に今回は忘れてんのかと思ったけど、と晴彦は笑う。部屋に置きっぱなしにしていた携帯には、二回程電話が来ていた。
「あらあら。じゃ、明日音のこと宜しくね、晴彦くん」
「い、行ってくるから」
そう言って玄関を飛び出す。晴彦の家に行くのに、母さんに見送られるというのはなんとも恥ずかしい。
いつものことながら、母さんは晴彦に一言二言声をかけるため、晴彦が家から出てくるのを私が逆に待つことになる。本の数秒の間が、惜しい。言わなければいけない言葉が山ほどあるような気がした。
「時間になっても来ないし、電話も出ないし。なんかあったのかって、ちょっと心配したぞ」
家を出ると、怒ってはいない、という厳しくも優しい顔で、晴彦が私を嗜める。
「うん、ごめん。ちょっと母さんと話してて」
どうやったら晴彦に振り向いてもらえるのか。それを母さんと考えて居たとは言えない。
「こう言うとあれだけど、明日音が奈美さんと長話するのは珍しいよな」
「……母さんは、私をからかうから」
その実、それが私を思っての発言であったことを、ついさっき知った。悪し様に母を否定することは、私にはもうできない。
「放っておかれる俺よりはいいと思うけど。明日音がいなかったら、俺は一体どうなっていたことやら」
確かに、恭子さんが家にいる頻度は少ない。
もし私が、晴彦の幼馴染ではなかったら。今はもう、想像はできない空想の世界。
「晴彦は、私が幼馴染で良かった?」
ふと、言ってしまってから気づく。私は今、かなり微妙な問題を訪ねているのではないか。
「ああ、勿論。明日音がいなかったら、俺はきっとグレて不良にでもなってたかもな」
私が欲しい答えではなかったきがする。その答えを晴彦から聞くためには、まだ色々と足りないものがある。
「それは良かった」
だから、今はこれでいい。
先程、小夜姉さんに感じていた不安など、晴彦と二人でいればどこ吹く風。
「しかし、もう十一時前だ。遅れた罰として、昼ごはんを作ってもらおうかな」
「恭子さんは?」
「休みだけど、出かけてるよ。たまの休みでもこれだからな」
母さんの話を聞くと、恭子さんも気を使ってくれているんじゃないかとも思えてくる。私が晴彦の家によくお邪魔するのは、二人きりになれるからという理由以外にない。
たまには母親らしいことをして欲しいもんだ、と晴彦は呆れ顔だ。だが、恭子さんはとても気の利く、大人の女性なのだ。
「罰なら仕方ないね。でも、昼までに時間あるし、ちょっとだけやろう?」
「そうだな。いつものように冷蔵庫の中身は自由に使ってくれていいから」
「うん、わかった」
人の家の冷蔵庫の中身を勝手に使うのは、正直今でも気が引ける。が、認められているということでもあると思えると、少し誇らしい。
いつものように家に上がり、居間へ。今日すべきことは英語。
「つっても、英語は何よりの暗記科目だよなぁ」
「そうだね。文法とかもあるけど、やっぱり基本は単語だし」
英語は何より単語力。それは否定しない。どんな問題を解くにしても、問題が分からなければ解きようがない。
過去形や過去分詞など、時制の問題もあるが、基礎の単語力を鍛えることに損はない。
午前で単語を軽くやって、午後に文法問題を重点的にやることに。単語を覚えるだけなら、そんなに時間は取らないだろう。
「そう言えば、奈美さんに勉強法みたいなもの教えてもらったんだけど。やる?」
「母さんに?」
「そ。奈美さんはこれでテスト勉強したんだってさ」
私はその話を聞いていない。本当かどうかという問題ではなく、母の思惑特有の嫌な予感が頭をよぎる。
「これ使うんだって」
「耳栓?」
晴彦が取り出したのは、真新しい耳栓だった。
「それをつけると集中力が上がるとか?」
確かに、静かな方が集中力は上がると言われる。が、それならば二人で勉強会をする意味はどこにあるのか。
「片方に付けるんだってさ」
ほら、と渡されたそれを、何気なく右耳に付ける。
「うわ、変な感じ」
中々に性能のいい耳栓らしく、右耳に空気の振動は全く伝わらない。
「で、こう」
晴彦が私の左耳に急接近する。
何が起こるのか、私はその未来を予測して先に身震いをした。
「――――」
晴彦が何といったのかは理解できない。ただ、私の無防備な左耳の鼓膜に、熱い息が吹きかけられた。
私の体を、今まで感じたことのない電流が走った。