私が欲張りになる理由Ⅱ
確かに、母さんは私と晴彦のことをよく焚きつけてくる。いたずらか嫌がらせだと、今までは思っていた。
「言っちゃなんだけど、明日音ってさ、普通の恋愛もうできないでしょ」
「そ、そんなことないと思うけど」
「いーや、無理無理。あんた、もう晴彦くんしかもう好きになれないよ」
否定できる要素は、全くなかった。
「恋ってさ、片思いから始まって、それとなく相手にもアピールして。告白して、恋人になって、さらにそこから色んなことを一緒に経験して、両想いになっていくのよ」
「それっておかしくない?恋人になるんなら、その時点で両想いなんじゃないの?」
「そんな都合のいい話あるわけないでしょ。皆最初は形から入って、そこから中身をつくるものなのよ。両想いで付き合うなんて、実際は夢物語」
母はコーヒーを淹れてくれる。私にはカフェオレ。嗅ぎなれない苦い匂いが広がる。
「でも、娘が、誰もができないようなロマンチックな恋をしてる。そりゃ応援したくなるのが親の性ってもんでしょ」
「ロマンチック、かな」
「そうよー。幼馴染なんてのもともかく、両思いになってから恋人になりたいなんて、小夜に言ったらきっと笑われるわね」
それは失敗するのが怖いからなのだが、確かに考えると両想いで恋人になるというのは難しい話だ。ずっと一緒にいる私たちでさえこうなのだから。
「じゃあ、母さんも、全く相手の気持ちがわからない状態で告白したの?」
「言ったでしょ。それとなく、匂わせるのよ。気があるって。で、告白でそれを確かめるの」
皆、恐ろしい橋を渡っているのだな、と、感心さえ覚える。
「でも、今の状態だと、明日音は晴彦くんしか好きになれないけど、晴彦くんはまだ他の子を普通に好きになれる。恋人には、両想いでなくてもなれるから」
それはつまり、私でも恋人になることはできるという意味だったが、私の幼馴染というアドバンテージなどないにも等しいということだった。
告白さえすれば、私たちは皆同じ土俵にいるのだ。風華も、茉莉も。友人であり、恋敵でもある。女子の世界は、かくも激しいものなのか。
「まあ、大半が明日音の背を押してくれるようだし、晴彦くんも今のところ浮気はしないと思う。でもね、時間だけかければいいってものじゃないのよ?」
「それはわかってるけど……」
私としても、もう幼馴染で満足できる時間がほぼないことを昨日気づかされたばかりだった。
「それに、明日音の友人とか、晴彦くんのクラスメイトより、最大のライバルは多分小夜よ」
「小夜姉さんが?」
早川小夜は私の姉。今は大学で上京している。春と夏休み、それに年末に帰省する。
私と違い垢抜けた女性。彼氏を取っ替えひっかえしていて、あまり良い印象はない。
「あんたたち、性格とか真逆だけど、好きな男のタイプ一緒なのよね」
「どういうこと……?」
「小夜はね、明日音の知らないとこで結構晴彦くん可愛がってたのよ。でも、ほら、明日音が晴彦くんとあんな感じじゃない?流石に妹の男を盗るのは悪い、っていって、諦めたのよ」
でもね、と母さんは困ったように続ける。
「二人を見てたら、恋愛の敷居上がっちゃってね。晴彦くんみたいな彼氏が欲しいって、大学でもずっと愚痴ってるわ」
「知らなかった」
私がカフェオレに口を付ける。なんだか、知らなくてもよかったことを知らされている気分だった。いつだって、こんな現実は苦い。
「妹には言えないでしょ。でもねぇ、大学でだいぶ擦れちゃってね。前、電話でこう言ってたわ」
『まだあの二人が恋人ゴッコだったら、私本気で晴彦くん狙うから』
「……本当?」
「本当本当。男に飢えてるってわけじゃないけど、あの子は明日音と違って、男運ないのよねぇ」
明日音は幼稚園の時からずっと晴彦くんに捕まえられてるからわからないかもしれないけど、と母さんは言う。
「べ、別にそんなのじゃない」
大昔の自分に言ってやりたい。私は、晴彦のことが好きなんだと。この気持ちを小学校から持っていれば、きっと今、こんなに悩むことはなかったのかもしれない。
ふーん、と母さんは意味ありげに微笑んだ。
「でもほら、一応気をつけたほうがいいかもよ。小夜は経験だけはあるし。明日音と違って大胆だから。何とは言わないけどさ。いつの間にか既成事実作ってるとか、そーゆーことやるよ、小夜は」
「ま、まさかそこまでは……」
「女子大生舐めんなって。私だってそうだったんだぞ」
「いや、でも、晴彦も抵抗するだろうし」
「できない。見知らぬ女ならともかく、あんたの姉だし、子供の頃は可愛がってもらってたし。それに、晴彦くん優しいし。あの子が本気でやろうと思えば、いくら晴彦くんだろうと拒めない」
据え膳食わぬは、っていうでしょ。と母が付け足した。
正直に言って、小夜姉さんの本気の誘惑を見たことがないので、なんとも言い難い。だがよく考えれば、晴彦を本気で奪おうとするのは、確かに小夜姉さんであるような気がするのだった。
「夏にまた帰ってくるしさ。それまで、ちょっとでも進展させないと、ひと夏のアバンチュールされるかも、っていう母からのありがたい忠告よ」
私の知らない晴彦と、小夜姉さんの、一夏のアバンチュール。それが私の網膜に、悪夢のようにくっきりと浮かび上がる。
「……どうしよう」
夏休みまで後二ヶ月。二ヶ月で、晴彦との関係を進める。
不可能ではないのだろうが、見通しは全く立たない。
「さあ?それは自分で考えな。私はどっちの娘を応援しても、優秀な婿ができるだけだから」
茉莉、風華、そして小夜姉さん。恋という病気にかかってから、私の心配事は増えていくばかり。
しかし、知らなければよかった、などということは全くない。むしろ、それが今の私を動かしている。
苦い液体を飲み干したマグカップを、流しに置く。
「母さんは、どうやって父さんと恋人になったの?」
時代は変わっても、変わらないものは多々ある。告白の方法は今は昔とだいぶ違うだろうが、やっていることは全く同じ。
「知りたい?私とお父さんはねー……」
そこからは、母さんと父さんの出会いと恋の物語。順風満帆というわけには行かず、二回、三回と離別していた。が、やはり戻るのは元の鞘。
告白は父さんから。母さんは散々アピールを繰り返し、高校二年でようやく付き合うことに。結婚の決め手はやはり小夜姉さんの妊娠だったということ。
「まあ、遅かれ早かれ、結婚はしてたと――」
その話を聞いている途中、インターホンが鳴った。
「……あら?」
母さんが焦ったように時計を見る。私も視線を泳がすと、短い針は十を過ぎていて。長い針は真下に伸びていた。