俺の幼馴染が不機嫌な理由Ⅲ
「どうした?」
「……ううん、別に」
しかし、それは一瞬のことで。直ぐにいつもの明日音に戻っていく。
何が不満だったのか。風華と接触したことか?そんなに特殊なことをした気はないが。
「はい、次、数学。これも範囲狭いから、公式だけ暗記するだけで赤点は回避できる」
また暗記かよ、と裕翔が愚痴る。
「基本的に、必要なことを覚えていさえいれば赤点を取ることはない。けれど、そのうちこれが積み重なっていく。一夜漬けでは限界が来る。そうして皆、赤点を取るようになるのよ」
風華の言うことは、最もだ。
一夜漬けという行為の限界を、二人は知らねばならない。茉莉と裕翔は、今、赤点を回避できればいいのかもしれない。ただ、風華はその先の二人のことまで心配しているような気がした。
「お優しいことで」
「何か言った?」
やや頬を赤らめた風華が俺を睨む。思えばこの勉強会、一番特をしないのは、きっと風華なのだから。
「いーや。ほら、裕翔。お前の大嫌いな数学だぞ」
俺が裕翔を誂う。裕翔は数学が苦手だ。なぜ苦手なのかは知らない。苦手だといつも言い張っているから。
「数学、苦手なの?」
風華がキツい視線を向ける。が、その裏側に優しさが隠れていることに気づける人間は少ない。
「まあな……。中学から、四十点以上を取ったことがねぇぜ!」
自慢げに親指を立てる裕翔に、風華は物憂げな息を吐いた。
「ちょっと、私がつくから。晴彦は茉莉見といて」
「俺で大丈夫なのか?」
言うと、茉莉が俺に近づく。
「失敬だな!私は結構数学得意だぞ!」
明日音とは違う、女の匂いがする。汗と、肌と。言葉にはできない、健康的な香り。それでいて、屈託のない笑顔と、やたらと多いスキンシップ。
大型犬のように、茉莉は俺に近づいてくる。誰にでもこうなのだろう。
「へぇ、意外だな」
俺が言うと、茉莉は豊満な胸を張る。
「時間と速さを掛けると、距離が出る!全てはこう言う公式の応用なんだ!」
確かにそうなのかもしれない。公式、という概念を得ている時点で、茉莉は数学の極意を得ているようなものだ。
公式というのは覚えて当てはめるもので、つまりは暗記するものだから。
応用は解けずとも、赤点を取る心配はないだろう。
「そう言えば、裕翔も物理は好きだったよな?」
尋ねると、裕翔は頷く。
「バスケのボールも落ちるからな。斜角とか重力加速度とか、何となく応用できそうな気がするだろ?」
それをする計算は数学なのだが、何故かこちらは苦手だったりする。方程式などは、物理的に想像しにくいものが多いからだろうか。
「好きこそものの、って奴か」
「理解しやすいってだけでしょ。そういうことだから、そっちはよろしく」
そういうことで、なし崩し的に俺が茉莉の面倒を。風華が裕翔の面倒を見ることに。
「はるひこぉ……」
済まない裕翔。お前を救う方法は、この部屋に入った時から既にないのだ。
「ほら、さっさと書く。書いてしか覚えられない奴は、書くしかない」
目の前で鬼のように見下すその番人が、実は優しいのだと言える空気ではなかった。
さて、茉莉の面倒を任された俺と明日音。
「ねぇ、これ分かんないんだけど」
茉莉が擦り寄ってくる。
「どこだ?」
「ここ。これであってる?」
数学というのは、『公式を使えば解けるもの』『公式を使い、そこから更に式を変化させて解くもの』『文章、または図から式を組み立てて解くも
の』の三つがよくテストに使われる。無論、後者になるほど難易度は上がる。
茉莉は最後の問題にもある程度理解を示し、正しい式を組み立てることができる。それが解けるかどうかはともかくとしても、だ。
手こずっているのは、図形の問題だ。
「これで使うのは、この公式とここの角度だな」
茉莉はどうやら、図形問題が苦手らしい。俺はアプローチの方法が複数あって、面白いと思うのだが。
「なんかさー、正解に辿り着く無駄のない方法ってないの?」
証明問題と図形は、数学の真骨頂とも言える。
答えを出す、のではなく、これが正しいか否か。学術的問題に挑む証明。
図形とはすなわち造形。それに数字で挑む冒涜感と、それでしか理解し得ない美的要素。
数字と、成否の美しさ。それが数学。大半の人間が嫌いだというが、当然だ。数学とは、実の所、数式の美しさに価値があるのだ。
公式と人は簡単に言うが、全てのパターンにおいて、この法則が成り立つというのは画期的なことだ。
端的に言えば、どんな男でも、この方法を使えば、こういう女性は彼女にできる方法があるとする。そんな実に胡散臭い方法が、数学では確実に成り立つ。言い換えれば、世界の真理の一つなのだ。
それはさておき、無駄な計算を省き、最短で解を得るという茉莉の思考は、実に数学的だと言える。
「んー、そればかりはな……。直感、みたいなもんだし」
故に、公式というのは多岐に渡る。特に図形問題において公式や法則は多く、どれが正解に結びつくのか。無駄のない思考をするのは才能と努力と経験が必要だ。
数学的発想。
それは、全く無意識に、正解への道を見出す特別な才能。
ゲームで適当に進んでいると、多数の分岐があるのに、不思議と目的地まで一直線に来ることがある。これは俺の持論だが、それを是とする人間は本質的に数学が得意だ。そこでわざと遠回りする、遠回りして喜ぶ人は、国語系の成績が良い気がする。まあ、これはあくまで持論。ちなみに俺は前者だ。
「直感かぁ。勘はいい方なんだけど」
茉莉が深く悩む。
まあ、そんな方法があれば大抵の学生は苦労しないわけで。
「セオリーとしては、片っ端から公式に当てはめて、その情報を書き足していくことだな」
数学が苦手な理由として挙げられるのが、公式が覚えられない。
それは苦痛に決まっている。なぜなら、公式というのは、数学者が自らの時間を削って、膨大な式を簡易化したものだから。
それを覚えていないということは、その問題を解く為に、数学に人生をかけた人間の苦悩を味わっているのと同じなのだ。
そんなものを普通の人間が味わったなら、数学が嫌いになるのは当然なのだ。だから教師は言う。
『公式を覚えろ』と。
「うーん、それしかないかぁ」
茉莉を散々、馬鹿だと思っていた。だが、茉莉は勉強さえすれば、数学の成績は伸びるだろう。その素質は、十分にあるような気がした。
「なんにせよ、まずは試してみること。この調子なら赤点はないだろうし、もしかしたら時間も余るかもしれない。手に余るようなら後に回して、余った時間でゆっくりと考えればいいさ」
テストにおける図形問題の比率は、そう高くはないだろう。
解けそうな問題からやる。これは全科目に言える手段でもある。一夜漬けの場合は特に。