結婚が重い理由Ⅱ
「お疲れさん」
そうして明日音の頬を触って遊んでいると。
「おおっ?」
ぐるり、と明日音の身体が半回転し、顔を俺の胸に押し付け、両腕をだらりと垂らす、所謂海老反りの体型になった。頬を触られるのが嫌だったのだろうか。
「く、苦しくないか?」
返事は帰ってこない。寝ているのだから当然なのだが、俺が寝ている時にこの格好になったらかなり苦しいと思う。
しかし、明日音は全くそんな素振りもなく、まるで寝返りだと言わんばかりにすやすやと寝続ける。
「……変な奴だよ」
撫でやすくなった後頭部と、寒そうに時折身じろぐ背中を撫でながら、時を過ごす。
寝ている明日音の体温は意外に暖かく、炬燵に半分以上身体が入っていなくとも寒いと思うことはなかった。
よほど疲れていたのだろうか。
「まあ、家事に勉強にだもんな。俺だったらやれん」
いたわりの気持ちを込めて撫でてやると、なんだか嬉しそうに顔をこすりつけてくる。
「そういえば、うつ伏せで寝るタイプだっけ」
明日音は半分起きた状態で、うつ伏せで寝ていることが多かった。この体制が明日音にとっていろいろと都合がいいのかもしれない。
そうしながらテレビを見たり、余りにも暇なので一人勝手に鞄から宿題を出して少しやったり。
結構激しく動いたりする時もあったけれど、明日音は俺の胸か腹にぴったりとくっついていた。少し体制がずれるたび、おんぶした子供の位置を整えるようにしてやると、とても喜んでいるような声を上げる。動物みたいで少し面白い。
そんな反応を楽しんでいるうち、母さんが帰ってくる。
「ただいまー!」
母さんの挨拶は、俺が居間にいると知ると無遠慮だ。明かりがついてないとしれっと入って来るだけ。
「おかえり」
直ぐに居間に顔を見せた母さんは、明日音の様子を見て直様声を潜める。
「なぁに、明日音ちゃん寝てるの?珍しー」
「今回はテスト勉強気合入れたから」
起こしてやるといった手前はあるが、ここまで爆睡されると起こすのも悪いような気もする。それに起きる気配が全くないということもある。
下手にリアクションをすると、ますます喜んでからかってくるのだ、母さんは。
「べっつに二人とも成績悪くないんだし、そこまで気合入れなくても問題ないと思うんだけど」
母さんはそこそこ高学歴の癖に学業に五月蝿くない。赤点でなければ怒ることもない。
奈美さんもそうだが、うちの母さんはかなり変わっている。
「っていうか、明日音ちゃんが寝てたら今日の晩御飯は!?」
悲惨な顔で俺に見る。
息子の同級生に夕飯を期待する母親というのはなかなかに言葉に詰まるものがある。
「今日は出前でも取ればいいんじゃない?明日音も疲れてるみたいだし」
大袈裟に表現した割には、母さんは直ぐに冷静になる。
「ま、そうね。何がいいかしら。チラシどこよ?」
どうも俺の学校生活には興味が無いようで、さっさと夕飯候補のチラシを漁り始める。
「晩御飯代はこれでねー」
そう言いながら、おもむろに携帯を出し明日音の寝ている写真を撮ろうとする。
「勝手に寝てる写真撮るのは少し失礼じゃないか?」
「勝手に人の家で寝ているんだから、容赦は要らないんじゃない?ほら、晴彦もピースピース」
どうやら俺と明日音のツーショットで撮りたいようだ。
「まあ、いいけどね……」
誰に流出するわけでもあるまい。どうせなら、と俺は明日音の顔をはっきりと見えるように動かし、腕を掴んで格好を整えてやる。
「もっと顔近づけなよ。ラブラブー、って感じで!」
「はいはい……」
適当に顔を近づけると、母さんはまるでやばいカメラマンのようにシャッターを切る。
何が楽しいのかよくわからないけれど、父さんのように写真を撮ることが楽しいのではないことはわかった。
「んー、相変わらず明日音ちゃんはラブリーねー。早く嫁に来て私を世話して欲しいわ」
看護師ならではの願望なのだろうか。いつも世話をする側の白衣の天使は実に下衆な表情でその画像を見ていた。ある意味父さんの前では未だに猫を被っているといってもいい。
そのままポチポチと携帯を弄る。保存しているのか、加工しているのか。それを奈美さんに送りつけるつもりなのはわかっている。きっと晩御飯のお誘いなのだろう。
「だいぶ先の話だと思いますけどねー」
嫁とか婿だとか、そういう話はよくある。が、そのヴィジョンは全くない。結婚という物事を想像するには、まだ色々足りない。
「まあ、結婚する気はあるとか言ってたしね。そこはまあいいとしても。よく明日音ちゃんはこんなドラ息子を選んだもんよねぇ」
「ドラ息子ね……」
「あんたあんま良いところないじゃない?明日音ちゃんは料理できるし気立てもいいし。あんたには勿体無いくらいよ」
言い返す言葉はあるような気はしたが、何を言い返せばいいのかはわからなかった。
「こっんばんわー!」
家族の会話をする前に、奈美さんの声が聞こえた。許可の返事もなくどかどかと居間に上がってくる。
「ごめんね晴彦くん、重くない?明日音ってああみえて結構太ってるからー」
やけに嬉しそうに奈美さんは俺に絡む。
「え、ええ、まあ、大丈夫です」
流石に気安い中とはいえ、少し恥ずかしい。明日音はこの騒ぎにも動じず、相変わらず静かに吐息を漏らしている。
「おーおー、すやすやと寝ちゃってまあ……。リビングで寝ることなんて滅多にないのに」
奈美さんは明日音の寝顔を懐かしそうな顔で眺めていた。母さんは寿司屋のチラシを片手に電話をしている。どうやら今日は宅配寿司になるようだった。
「しっかも晴彦くんをベッド替わりとか……。豪勢にも程があるわね」
その時の言葉は、小さい頃にによく聞いていた、母親としての奈美さんの言葉だった。
「あんたもよく居間でそんな格好してられるわよね」
母さんが携帯電話を閉じながら、炬燵に潜る。奈美さんもそれに習い、母さんの反対側に。
「前々から不思議に思ってたけど、晴彦君って明日音にむらむらとかしないの?」
奈美さんがド直球に訪ねてくる。
「ムラムラですか」
「そう、むらむらよ。仮にも女の子がこんな引っ付いてきたら、間違いの一つや二つ起きるもんじゃない?」
ねえ、とそこで母さんに話をふる。母さんはこういうことを言わないが、奈美さんは姉のようなスタンスで俺と話す事が多い。オバさんとは呼べはしないだろう。
「うちの入院患者も多いわよー。若い子なんてのは特にそうね。ま、病院なんて何もすることないんだから気持ちはわからなくないけど、四人部屋なんだから節度を守っていちゃつきなさいよ。ほかの人から苦情を受けるのは私らなのよ?」
ま、流石にやっちゃう奴はいないけどね。
母さんは躊躇いもなくそう言った。
「ま、まあ。そう言う奴よ」
それには流石の奈美さんもちょっとばかし引き気味になった。
「うちの娘じゃないし、まだ子どもの手前、やってしまえとも言えないわけだけど。あんた昔っから男っぽところとかないし。男性ホルモン分泌されてんの?」
「言えないんなら心にしまっておいたほうがいいんじゃない?」
いくら親しいし、看護婦というある意味では人間の仕組みに詳しい俺の母親は、そのかわり大切な何かを忘れてしまったようだ。
「流石にさぁ、息子が女に興味ないとかそういう方向には行かせたくないし?明日音ちゃんと付き合ってるっていうのはあるけど、孫の顔が見れるのか母さん心配でねぇ」
「わ、私はまだいいかなって、私は思ってるよ?まだ高校一年だし」
どこか焦ったような奈美さんがいる。