恋の病が治る理由Ⅲ
「じゃあ、俺はプロになるまで恋人とかできねーってことか?」
俺はなんとなく狙いをつけてシュートを打つ。が、暗闇ではそう簡単に点が入るはずもない。
「んなことはねーよ。ただ、あの人はお前のそういう不安定な部分と付き合っていくことはできない、って思ったんだろ」
裕翔が本気でプロを目指すのかどうなのか、それはわからない。しかし、世の中にはそんなリスキーな職業を好まない人も確かにいて、彼女がまさしくそうなのだ。
だから彼女も悪くはない。あと数年が経ち、彼女が大人としての自分の生活を保つ余裕ができ、裕翔がプロとしての道を歩みつつあるのであれば、そこに障害はないだろう。
「お前は顔だけはいいからな。別の道なら幾らでも稼げるだろうし、バスケに拘らないなら色々選択肢もあるんだよ。お前、バスケのプロになるとか、そういうこと言ったろ」
いや、恐らくそういうことしか言わなかったのである。裕翔は。自分の主張を押し付けるだけの子供だった。
「そんなに悪いことか、スポーツ選手目指すのは」
「悪くはないが、凡人にはわからん世界なのは確かだ」
二人が分かり合うことはやはり、なかったのだと思う。求める何かが決定的に違うのだから。
何回かシュートを重ねて、ようやく一回が入る。明かりがあるのとないのではこうもちがう。ゴールが遠い。
「やっぱ女としたら、普通に大学とか言って就職する奴がいいのかな?」
「個人によるだろ。夢追い人が好きなもの好きもいる。そのへん気にする必要がないのがお前の人生の楽なとこなんだぞ?」
裕翔は性格はともかく、顔はべらぼうにいい。
恋人候補なら、掃いて捨てるほどいるような男だ。夢を追おうが、安定を求めようが、一定の需要は確立されているといってもいい。今回は失敗したが、それもそれで必要だったのだと今は思う。裕翔は色々と特別な部分がある。
「なーんだかなぁ。マジ。やってらんねーよな」
どういった意味で同意を求められているのかはわからない。が、どこか落ち着くところに落ち着いた、という感じがした。
「好きになってくれる人だけを好きになれたら楽なんだろうな、恋ってのは」
裕翔が何かを悟ったように言う。
「そうだな」
ただしそれは自身の感情なのか妥協なのかという問題も付き纏う。結局のところ、人は恋に悩まない時などないのだ。
「纏まったか?」
裕翔に問いかける。暗闇の中でその表情はみてとれない。
「わからん。まだショックだってのはあるし、振られたことに対してまだ腹を立ててるとも思う」
でも、と続ける。
「まぁ、お前に当たるのは場違いだよな、とも思う」
さっきは悪かった、と裕翔は言いながら目を逸らす。
「そうだな」
俺がすっぱり言い放つと、しかし裕翔は小さく笑った。
「でも晴彦、お前その言い方だと多分俺が振られるってわかってたろ?」
「俺だけじゃなく風華もそう思ってたぞ」
「なんだよなんだよ、いい奴ばっかだな俺の周りは」
裕翔が一人勝手に踊っていた事実にようやく気づく。
立ち上がってボールを催促するので、パスを回してやる。夜中には不似合いな跳ねる音が木霊する。車の通りも少なくなっていた。
「どうすんだ、これから」
何気なく尋ねる。心配なのはバスケットへのモチベーションだ。こいつは才能がある。凡人の俺としては、その才能を消してしまうには惜しいと思っている。
「変わんねーよ。俺はプロクラスのプレーヤーになる。それだけだ」
そうか、と返すと、裕翔の手から迷いのない動作でボールが放たれる。暗闇の中で、ネットが揺れる音がした。
「有名になったら、懐かしのエピソードの一つにしてやるぜ」
それが裕翔の選んだ、失恋の乗り越えかたなのだろう。
「そか、じゃあ帰ろうぜ。補導されてもたまらんし、流石に冷える」
俺が言うと、裕翔は転がってくるボールを拾った。
「俺はもう少し身体を動かして帰る。悪かったな、こんな時間に」
いいさ、と言って、俺は背を向けようとして、言い忘れたことがあったと振り返る。
「たとえ十億積んできても、俺はお前には明日音はやらんからな」
なんとなく、言っておかなければならない気がした。
俺が言うと、裕翔は馬鹿らしいと笑った。
「わかってるよ。さっさと帰れバカップル」
そう答える裕翔の顔つきは、どこか男らしくなっていたような気がする。
寂しく帰る道中、やはり、人はいつか失恋から立ち上がるのだな、と思う。
始まって終わって、また始まってまたいつか終わる。
中学が終わって、高校が始まり、それが終われば大学。
人間というのは、常に新しい刺激を求めながら、いつも同じことを繰り返しているように思える。
「……俺もいつか失恋すんのかな」
何事もなければいい、とは思う。だが、だからこそ何かあるのではないか、とも思う。
眺めの散歩を終え家にたどり着くと、明日音が自分の家の玄関先で、どこか不安そうにウロウロしていた。
「こんな時間に何してんだ?」
俺が声をかけると、明日音はびくりと俺を見つめた。
「は、晴彦こそ、何処行ってたの?」
「裕翔に呼び出されてそこの河原まで」
「え、佐々木くんに?」
驚きの表情。だが、どこかおかしい。
「ああ。明日は学校来るんじゃないか。もう結構立ち直ってたぞ」
「そっか。それは、良かった」
明日音が目を逸らす。相変わらず誤魔化しや嘘が下手くそだ。
何かを隠している時、明日音は正面から視線を合わせず、しかし気になるのでちらちらとこっちを見るのだ。俺でなくとも、半年同じクラスならわかるだろう。
俺は明日音の両頬を軽く引っ張る。
「で?明日音ちゃんはなーんでこんなところで立ってるのかな?」
「いふ、いふよー」
簡単に降参するところを見ると、大した理由ではないのかもしれない。
よろしい、と手を離すと、うう、と痛みより恥ずかしさに明日音は悶えているようだった。
「その、恭子さんがうちに来て」
やはり原因は母さんである。録なことをしない。俺は無言でその先を促す。
「晴彦がこんな時間にでかけたって。それでその、直前に電話してたし、理由もその、誤魔化す感じだったから、浮気じゃないかって」
「ほう」
まあ確かに、俺が一度帰って夜に外出するということは、明確な要件がない限りしたことがないのは確かだ。
「で、で、心配になって……」
「帰りを待ってた、と」
明日音は頷く。
「まず、浮気とかではないし、するつもりもない」
俺がぴしゃりというと、明日音は反省したように少しだけ頭を垂れた。
まあ、今まで裕翔の件で別れる別れないという話題だけだったから、少し不安にでもなったのだろうか。
「ほら」
俺が明日音を覆うように抱きしめると、明日音は少しだけ硬直して、やがて俺に寄り添うように体重を預けた。
「別の匂いはしないだろ?」
「……うん、しない」
明日音は確認するかのように俺の身体に顔を埋めた。
「よし、じゃあ罰としてお茶でも注いでいけ」
「うん、わかった」
そんな言葉を交わしているうちに、この問題がようやく片付いたのだという実感が沸いた。
「母さん、明日音になに吹き込んでるんだよ」
その後、家に入り母さんに直訴する。なぜか奈美さんも居間で緑茶を飲んでいた。二人はよくお茶会らしきものをしているが、大抵明日音の家でやっている。母さんはおもてなしという技能を持っていないからだ。
「お帰り。あら、浮気じゃなかったのね」
奈美さんが作ったお菓子を摘みながら、母さんが図太い態度で言う。
「晴彦くんが浮気なんてしないわよねぇ。ああでも、明日音に飽きたならいつでも言ってね。小夜に伝えておくから」
こぢんまりとした日本の居間に、奈美さんはあまり似つかわしくない印象がある。他人の家だからということもあるが、座り方もお淑やかであるからかもしれない。
「母さんは黙ってて」
そしてなぜか、奈美さんには強く当たるようになった明日音。これが反抗期というやつだろうか。
「別に夜に出て行ったからって浮気と決めつけられるのは心外だな」
俺が座ると、その横に明日音も座る。
「晴彦凄いな。父さんはそこに入る度胸はないよ」
風呂上がりの父さんが台所で牛乳を飲んでいた。我が家の就寝時間は早い。
「俺は砂漠に三ヶ月いる度胸はないけどね」
こりゃ手痛い。父さんはそう言って自室へと戻って行った。
「で?結局何しに外言ってたわけ?」
「人生相談」
俺が言うと、母さんと奈美さんは目を合わせた。
「晴彦くんは確かに高校一年にしては大人びてるもんね」
「明日音ちゃんいるからって背伸びしちゃってまー」
いつものくだらないバラエティ番組を音楽に、奈美さんと母さんは踊るように話す。
「お茶淹れるね」
「明日音ー、母さんにもおかわり」
鋭い視線を送ったあと、それでも明日音は人数分のお茶を注ぎに台所へ。
「もう嫁いじゃった感じー。嫁姑戦争?」
「奈美さんとならただの親子ゲンカなんじゃないですかね」
「そうね。私は明日音ちゃんには頭上がんなさそうだし」
そんなこんなで、誰かの悩みとは裏腹に、今日も今日で割と穏やかに現実は流れていく。
案ずるがより産むがやすしとはいうが、現実はどうしたって流れていくし、人間は忘れて変わっていく。
それを悲しむのもまた一興ではあるのだけれど。
「お茶請けはどうしますか?」
「適当なお菓子出して頂戴」
普通に生きている限り、現実は、思った以上に悪くも良くもなりはしないものなのなのだと思う。
「嫁姑戦争……」
「なに奈美ちゃん、昼ドラに憧れてるの?」
奈美さんは未練がましくそれにこだわり。母さんは苦笑するように奈美さんを宥めていた。