たまに一人になりたくなる理由Ⅱ
「じゃあもし、明日音が晴彦に振られたとして――」
風華の瞳に、真剣な光が宿る。
「もちろん、私と茉莉は明日音のことを心配してあげるし、晴彦のことを悪く言うかもしれない。気安い言葉も沢山かけてあげるわ。『別にいい男じゃなかった』『もっといい男はこの世に腐る程いる』『大丈夫、すぐに次の男ができるって』とかね」
捲し立てるように発せられた言葉はどれも優しく、そしてどれもに感情が篭っていなかった。
「うまく慰めることはできないかもしれない。けど、やれることはやってあげるわ。でも、明日音」
風華はそこで一泊置く。明日音はもう、下を向いていた。
「あんたそれで、失恋から立ち直れる?」
明日音の答えは沈黙。どこか泣きそうな気配にと共に、明日音の不安そうな瞳がこちらを向いた。
「あんまり虐めてやるなよ」
俺が風華に言うと、風華は呆れたように息を吐いた。
「別に虐めてないわよ。私の意見の具体例を出しただけじゃない」
俺が軽く返してやると、明日音はようやく現実に戻ったように前を向いた。
「失恋したなら、傷つくべきだ、ってことか?」
茉莉は何事もなかったのかのように食事を続けている。それでいて、理解するべきところは理解している。茉莉は勉強はできないが、バカではないのかもしれない。そういう意味なら、裕翔は確かに、『馬鹿』だったのだろう。
「そうね。そして、他人がその傷を癒すこともできない。絆創膏だってそうでしょ。放っておくしか私たちにはできないのよ」
そして風華は、ちら、とこちらを見る。
なるほど、と俺は痛感する。
「それを俺ができるか、ってことか」
「そういうことね」
風華が笑って昼食を再開する。
茉莉や明日音は、理解していないような顔をしていた。
「自分で傷を治すしかないんなら、裕翔はどれくらいかかるだろうな?」
茉莉が何気なく声を出す。今まで恋愛をしたことがないような素振りは、事実そうなのだろう。容姿が優れているし、事実告白も数回受けているらしい茉莉は、しかし誰とも交際を望まない。
断り方は、『私バカだから』と決まっているらしく、告白した相手との関係も未だ良好らしい。
「さあね。本気であればあるほど深いし、深ければ深いほど時間もかかるでしょうね」
それでも、と風華は続ける。
「それは当然のことだから。見守ってやりましょう」
風華のいい所である。風華の理屈は、『重力があるから、この世のすべてのものは地面に引っ張られる』というような、当たり前のことを当たり前に捉える。
裕翔が失恋して傷つくのは裕翔が人間だからであるし、心が簡単に癒せないこともそうだ。
裕翔のことを思った理屈ではないし、友人であるなら『ちょっと酷い』と言われても仕方のない結論。しかし、最後まで話してみればきちんと裕翔のことを考えてくれている。
『裕翔はバカだから』と、人間が創造した何かに括ってしまわない。それが風華の優しさなのである。
だからこそ風華と付き合うには、彼女の意図を、最初から最後まで話し合える人でないとダメだ、
『放っておきましょう』という彼女なりの結論に、『酷い!』と感情的になるのではなく、『どうして?』と問える人。または、その意図を彼女の言葉だけで理解する人。風華に彼氏ができるのだとしたら、きっとそんな人で。
それはきっと探すのは大変だろうけれど、見つかったらお似合いのカップルだろう。俺はそう思う。
「風華ってさ、いい人だよね」
明日音が可笑しそうに小さく笑い出す。
「そうだな。もっとわかりやすくそういうことを言えるんなら、人気も出ると思うんだけどなー」
茉莉も賛同する。明日音と茉莉は、風華の意図を言葉だけで全て汲み取れるだけではない。
茉莉はそもそも風華の理屈を直感的に理解しているし、明日音は感情的に風華の意見に疑問を抱いても、それを正式な手段を踏んで問うことができる。
時たま茉莉のことを『馬鹿』であるとか、明日音のことを『鈍臭い』と言う人もいるが、逆を返せばこういうことでもある。
この三人はだからこそ、なかなかに上手いこと噛み合っているのだ。
珍しく褒めちぎられ、風華が居心地を悪くする。白い肌に赤みが差し、前髪がその表情を隠す。長い髪が、嬉しそうに揺れているようだった。
「何よ、あんたら……」
一年二組の小さな賢者は、褒めちぎられるのに滅法弱いのだ。
その日の帰り道。俺と明日音は約束通り買い物をする。
クラスと同じ質問が飛びそうで、バスケ部には顔を出していない。
「うーん……。豚でいいかな?牛肉は匂いが凄いし、ちょっと重いよね」
「おお、任せる」
二人で買い物といっても、俺は籠を持つだけだ。お菓子が欲しいと泣き喚くことこそないが、他に役に立つこともない。
制服姿の二人というのは、スーパーでは中々に目立つものだ。まあ、俺たちの場合土地柄もあり、どんな間柄かというのは知っている人は知っている。それが幼馴染か恋人か、という違いはさて置き、である。
「風華に言った言葉の意味、聞いてもいいかな?」
「お?どれだ?」
明日音がどこか不安げな瞳を揺らす。
「俺ができるかどうか、ってとこ」
ああ、それか、と俺は返す。
「裕翔に何もできないってわかってても、やっぱ落ち込んでるのを見るのは可愛そうだと思うだろ?それに、クラスのみんなも善意で俺を焚きつけてる。何もしないのが正しいと言っても、正直に納得できる人はやっぱ少ないさ」
捨て猫を拾うことは簡単だが、育てることは難しい。
ただたんに可哀想だからという理由で干渉することは、必ずしも正しいとは限らない。それは皆知っているはずなのだけれど。
やはり、佐々木裕翔というのは良くも悪くも一年三組の主要人物の一人であり。奴がいなければ、うちのクラスはどこか静かで、落ち着かないのだ。
「つまり、晴彦が周囲の視線に耐えることができるか、ってこと?」
「まあ、そういうことだな」
適当に野菜や果物を買い詰める。会計時にお金を払うのは俺だ。母さんに請求する。
いつもならマイバックを持っている明日音も、今日は袋を購入する。数円だけれど、今まで当たり前のようにもらえたものを下さいというのは中々勇気がいるものである。
察するほどに多くのものは買わなかったが、なんとなく豚肉の生姜焼きになりそうな気がする。それか中華料理だ。
やや重いビニール袋を持ちながら、茜色の空を見上げて歩く。夏に比べて日が落ちるスピードが早くなり、空を流れる雲も一日一日速度を上げているように見える。
秋であるのだけれど、夕方になればやや肌寒く、長袖を着用してもいい季節になってきた。文化祭を終えれば十月。衣替えの時期。
食欲の秋だとか読書の秋だとか言うけれど、結局皆、何かにつけてお祭り騒ぎか、商売をしたいだけなのだと思う。
「秋っつったら梨だよな梨」
俺は今から秋の味覚が楽しみだった。料理上手な幼馴染兼恋人がいると、まあそこそこ季節ごとの、所謂『旬』と呼ばれる食べ物が楽しみになるものだ。梨は向くだけ、というより皮も食べるので洗って切るだけだが。
しかし、明日音の反応は薄い。
「どうした?」
俺が顔を覗き込むと、不安を通り越して少しだけ涙を浮かべた明日音がいた。
驚くことはあまりない。そもそも明日音はお涙頂戴のドラマでよく泣くし、作り物だと分かっていても感動する。
俺はその裏に金の匂いがして、素直に泣けるものというのはあまりない。
「う、うーんと、なんでもない」
「なんでもなくはないだろ……」
だが流石に、こんな何もない場所で涙ぐまれると気になるのは仕方ないだろう。
「……もし私が、その、晴彦に振られたら、どのくらい悲しいんだろうなって」
何を馬鹿なことを、とも思ったが、まあ確かに、可能性としてはない話ではないのだ。
「そうだなー。俺が明日音に振られた時と同じくらい悲しいんじゃないか?」
明日音と俺の関係は、永遠ではない。
俺が明日音に振られるか、その逆かは定かではないけれど。この関係も、些細なすれ違いや食い違いでご破産になる可能性は決してゼロではない。
「晴彦も私に振られるとか、考えたことあるの?」
明日音が意外そうな瞳で俺を見た。
多少恥ずかしい妄想ではあるが、まあ隠すこともない。
「そりゃああるぞ。人生何が起こるかわからんしな。とりわけ、人の気持ちなんてもんは何かで測れるようなもんでもないし」
俺が言うと、明日音の涙も引き、本気で信じられない、という顔が俺の様子を伺っていた。
「そ、それで?」
結論が気になるのか、答えを求めてきた。
「んー、やっぱ一時期は傷心状態になるだろうけど、やっぱりそのうち癒えるんじゃないかな、と」
俺が言うと、明日音はあからさまにがっかりした様子で肩を落とした。俺はどことなく可笑しくて、小さく笑った。
「明日音もそうだと思うぞ。大学に入ればもっといろんな人と出会う。俺よりもっといい人が見つかるかもしれない。そうして、俺のことをきっと忘れて、俺も明日音のことは学生時代のいい思い出になる。現実ってさ、そんなもんだよ」
嫌が応にも、時計の針は進む。人は変化した現実に慣れ、適応していく事ができる。俺が明日音の周囲からいなくなれば、それが明日音の現実であり、今の俺は思い出の俺となる。
思い出は思い出だ。懐かしさこそあれ、涙を流す程の物ではない。思い出に浸る間もなく、現実は押し寄せてくる。