第三話
深い眠りの中、昔の夢を見ていると、ふいに誰かの声が聞こえたような気がした。重い瞼を押し開き、窓のほうを見ると、そこにはあの少年の姿があって──
少年は窓枠に腰を掛けていた。風が、少年の髪とカーテンをふわりとなびかせる。
私はあまりに驚いて、あれだけ言うのが精一杯だった。
そのまま動かなくなった私に、感情の読めない表情で、少年が声をかける。
「窓、開いたままだったぞ? 不用心だな」
私は衝撃が続いたままだったので、一瞬何を言われたのか理解できなかった。が、理解したときにはもう、怒鳴っていた。
「不用心だ、なんてあなたに言われる筋合いないわ! 大体、ここは二階なのよ? あぁ…もうっ! あなたが来ると知っていたら鍵の二つや三つ掛けておい──」
はたと、重要な事に気がついた。
そうだ、この少年さえ来なければ、普段は不用心でもいいのだ。用心する必要もない。
何故なら、ここは二階なのだ。
──少年は、一体どうやってここへ来たのだろう。
血相を変えて怒鳴っていた私が、いきなりしぼんだように黙ったのを不信に思ったのか、少年は首を傾げていた。困惑した様子の少年が、何か言おうと口を開きかけたとき、私はそれを遮るように声をだした。
「…ねぇ。あなた、どうやって来たの? ここ、二階なのに」
一瞬きょとんとした顔を見せた後、少年は納得したように頷き、ふいに空を指さした。
訳がわからず、眉根を寄せたまま私は首を傾げる。
「──空を、飛んだ」
少年はそう言うと、私に微笑みかけた。
その微笑みからは、いつもの少年らしさよりも、何故か青年のような雰囲気を感じた。
姿形はまったく変わっていないというのに。
私はこの不思議な少年に、時折そう感じることがあった。
──いや、そんなことはどうでもいい。
それよりも、少年は今『空を飛んだ』と言わなかっただろうか?
私はちらりと少年を覗き見た。
この少年なら本当にやれそうで、「冗談でしょう?」と、笑いとばすこともできなかった。
混乱した頭を抱えて黙っていると、少年が口を開いた。
「と、言うのは冗談だ。…まぁ、方法は秘密」
私はがくりと肩を落とした。ただ、ため息をつくばかりである。
もう先ほどのような苛つきも、怒鳴る気力も、失せてしまっていた。
──私は、気づいていなかった。この少年にいつものペースを、狂わされていることに──
「あー…なんかもうどうでもよくなってきた」
私はベッドから降りると、窓際にいる少年のところに近づいた。
立ち止まって少年を見上げる。
普段は私の方が少年を見下ろすかたちなのだが、少年は窓枠に腰掛けているので今は私が見下ろされている状態だ。
じいっと、少々失礼にあたりそうなぐらい、食い入るように少年をみつめる。
改めて眺める少年の顔は、際だつ緑の瞳以下、通った鼻梁や長い睫、薄い唇など、確かに整っていた。
しかし、そんなことにはお構いなしなのか、唐突に少年は口を開いた。
「中、入ってもいいか?」
「ダメよ」
私は即答した。
少年は眉をよせる。その緑の瞳には文句がありありと見て取れた。
「なんでだよ」
「ダメなものはダメ」
少年は肩をすくめた。その様子が私を馬鹿にしているような気がして、腹が立った。
私は負けじと──一方的にではあるが──少年を睨み返す。
「ここは私の家で、私はここの主人。あなたは玄関からでもなく窓から来た不審者で、しかも得体がしれない。よって私はあなたを家に入れるわけにはいかないの。どう? 納得のいく理由だと思わない?」
少年はそう言った私をじっと見つめた。
私はどうだ言い返してみろと、腰に手をあてて、少年が口を開くのを待った。
だが、少年は黙ったまま、いつまでも言葉を返そうとしない。
きこえなかったのだろうかと、もう一度口を開こうとしたとき、少年ははっきりと言った。
「俺のことは…今は言えない」
私ははっとして少年を見た。顔の半分が影になってはっきりとは見えなかったが、見えている半分の顔は──寂しそうに見えた。
言えないと言った声にも、表情と同じものが含まれていた…ように思う。
それは私にとって、意外なものだった。
まさか、この少年がそんな表情をするとは思わなかったのだ。
いつも自信に満ちあふれたような態度で、どんな時でも胸を張っているような少年。
感情のままに怒鳴り散らしては、きつい態度で接する私に、それでも引くことはなかった。
私はどう声をかけていいかわからなくて、ただ少年が口を開くのを待つばかりだった。
(どうしよう…そんなに傷つくことを言ってしまったのかな……)
「…あ、あの」
私が謝ろうと、小さく声を出したとき、
その寂しそうな顔で私を見ていた少年はふいに顔を背けた。
そして、小さくつぶやいた。
「だいたい…お前が思い出さないから悪いんだ…」
少年は独り言のつもりで言ったのかもしれない。
いや、でもこれはあれか? 遠回しに私に文句をいっているんじゃないのだろうか?
そう考えてしまったと同時──どこか遠くで、糸の切れる音を聞いたような気がした。
「! お、わっ!?」
少年が驚きの声をあげた。
当然だろう、私がいきなり少年の胸ぐらをつかんだのだから。
少年は心底驚いたような顔をしていた。
そんな余裕のない表情をみたのは初めてだったので、私は少し気をよくしたがそれでも怒りは収まらず、少年をさらにぐいと引き寄せた。そうすると、目を見開いて少年は体を強ばらせた。
「あなたねぇ……っ」
「わっ! ちょ、ちょっと待……!!」
私が少年を揺さぶり始めたので、少年は慌て始めた。
必死になって私の手をはずそうとしている。
「少し勝手すぎない? 会えば思い出せ、本当に覚えていないのか。今私、傷つけたと思って謝ろうとしてたのに、しまいには『お前が悪い』ですって? もう、いいかげんにしてよ……」
私は一際深く息を吸い込んだ。
「…うんざりなのよ!」
──一瞬、少年の表情に影が走った気がした。
「だ…やめろって……!?」
私は言い終えるとぱっと少年を揺さぶるのをやめて掴んでいた胸ぐらを離した。
こんなに怒鳴ったのは初めてで、下を向いて呼吸を整えていた。
なんだか上で少年が慌てている気配がしたが、怒っていたのでほうっておいたところ、ふっとその気配が消えた。
その直後。外でドサリと、何かが落ちたような音がした。
「…え?」
私は顔をあげて、上を見た。目に飛び込んだのは真っ直ぐに伸びた庭の大きな木と、その上にちょうど被さった月。
だが、すぐそこの窓枠に腰掛けていたはずの少年の姿が──ない。
「!!」
私は窓枠から急いで身を乗り出し、下をのぞき込んだ。──血の気が引いていくのが、わかった。
それが目に飛び込んだ瞬間、頭が真っ白になった。何も考えられなくなった。
それでもわかったのは、一つ。
あの音は、少年が二階から落ちた時のものだと、いうこと。
──私の、せいで──
今回は少々長めです。いつもよりは、という程度ですが。次、次こそは名前を出したいです…!