嫌い。
「そうなの」
「うん、でねっ」
「っ…」
イライラする。
私は教室の一番後ろの一番端っこの席だから、嫌でも教室全体の様子が目に入る。
視界の端っこで談笑する真面目グループ。その中のリーダー役で、学年トップの成績の彼女は微かに微笑んで友人と話をしている。
それを見ると、イライラする。
別に私は誰かが談笑してる姿を見てイライラする、という訳ではもちろんない。ただあの眼鏡が、真面目が服を着て歩いているような、青井涼子が、嫌いなのだ。存在が嫌いだ。見ているだけでイライラして不快な気分になる。
どうしてこんなに嫌いなのかはわからない。だけど2週間前に彼女が転校してきて、初めて姿を見たその瞬間から、私は彼女が嫌いなのだ。
「ちーちゃんちーちゃん、知ってる? 青井さん、学年トップだって。凄いよね。いきなりの試験だったのに」
「知ってるよ、凄いよね」
うちの学校は今だに成績上位者の名前を張り出すシステムなので、転校翌日からの中間試験でトップをとった青井涼子は今や一躍有名人だった。
私はだいたいいつも10位くらいで結構できる方だけど、だからって一つ順位が下がったことで逆恨みしているわけじゃない。
ただ、本当に自分でもわからないのだけど、彼女を見るだけでイライラして、彼女を前にすると息苦しくなるのだ。だからまだ最初に話したきりろくに会話もしていない。どうしてこんなに嫌いなのかわからない。こんなに誰かを嫌うなんて始めてで、どうしていいのかわからなくて困ってしまう。
だから余計に、私は彼女が嫌いで、苦しい。
○
「武川さん」
「…なぁに? 青井さん?」
話しかけられてしまった。
声は上擦ってないだろうか。顔は強張っていないだろうか。
いつもは作り笑いも愛想よくするのも簡単にできるのに、彼女が目の前にいるとできない。自分をコントロールできない。
感情を映さないビー玉みたいな目に威圧されてるような気になる。圧迫感を感じる。苦しい。
どうして誰も何もないみたいに、普通に彼女と話せるのか。こんなに彼女は気持ち悪いのに。
「武川さん、文芸部なんでしょう? 私、入部しようと思うんだけど」
「え…な、なんで?」
「坂之上さんに頼まれたから。あなたもそうだって聞いたけれど?」
坂之上隆美ちゃんは、私の友人だ。諸事情で文芸部を存続させたい彼女は知り合いを幽霊部員としていれるだけでは足りず、暇人な私を門番的に配置させた。私が占領してただだらだらしてるだけだけど、使う以上は多少掃除とかせざるを得ない。それが彼女の目的だ。
要は良いように使われてるんだけど、一室を好きなように使えるというメリットがあってむしろ私の方が得をしてるので気にしていなかった。
けど彼女はたまに私に暇じゃないかと心配していたので、多分新しくきた青井さんを派遣すれば寂しくないからと勧誘したんだろう。彼女は善人ではあるけど独断的な人だから。
「…何か、入りたい部活はなかったの?」
「特にないわ。だから坂之上さんの話は渡りに船というわけ。何をしてもいいというお話だしね」
「そう、なんだ。じゃあ…案内するからついてきて」
「ええ」
横に並んでついてくる青井さん。ただそこにいるだけなのに、存在感がハンパない。無意識に彼女と距離をとってしまいそうになるのを何とか堪える。
「武川さん、下の名前は智佳子さん、よね」
どきっとした。下の名前をそのまま呼ばれることが少ない私は彼女に名前を口にされただけで苦しくなる。
「そ、そうだけど?」
嫌悪を悟られないように相槌をうつと彼女は微笑む。ごまかせたみたいだ。
「坂之上さんはちーちゃんって呼んでたみたいだけど…私もそう呼んでいいかしら?」
「…もちろん、いいよ。じゃあ私はりょうちゃんって呼ぶね」
名前を呼ぶよりあだ名の方が幾分ましだ。呼ばれるだけならまだしも、私はけして彼女の下の名前なんて口に出せないだろう。そんな単語を口にする苦痛を味わうくらいなら一日中うんこと連呼した方がましなくらいだ。…少し言いすぎた。
「ええ。仲良くしましょう」
「うん、そうだね。よろしく」
ああ、イライラする。
彼女はとても私をイライラさせる。でも彼女が私に何もしていないことは理解している。彼女に非がないことはわかっている。今のところ嫌う要素がないこともわかっている。
だからおかしな態度をとるわけにはいかない。
それでも、どうしても彼女が嫌いだ。生理的に受け付けられない。どうしてか彼女が傍にいると落ち着かない。胸がざわざわするのだ。
最悪だ。何とか彼女を文芸部から追い出さないと。私の安息の時間が奪われてしまう。
「ここが部室よ。ようこそ、文芸部へ。形だけだけど、部長として歓迎するわ」
「ありがとう。これからお願いするわね」
ドアを開けて振り向きながら言うとにっこりと青井さんは微笑んだ。
その笑顔に何故か鳥肌がたった。目眩までする。直視できなくて視線をそらしながら部室に向き直り、部屋に入った。
「そこに座って。コーヒー、飲む?」
「あら、お願いしてもいい?」
「インスタントだけどね。ミルクと砂糖は?」
「お願いするわ」
滅多に誰もこないけどたまーに隆美ちゃんたちが来るから初期からある長机二つと折りたたみの椅子が4つは常にある。
棚には隆美ちゃん他幽霊部員たちの私物が結構入ってるけど、本棚やクッションにカーテン、机の上の小物という目につくものはだいたい私のものなので、殆ど私の部屋の風体だ。このコーヒーメーカーも豆も私が用意した。といっても勿論、部費で買ったものなのだけど。
「どうぞ」
用意して渡し……はっ、普通にいれてどうする!? こういう時の定番は…雑巾絞り………いやいや、それはさすがに。ひど過ぎる。辞めさせる程度の嫌がらせって何をすればいいんだろう。
「ありがとう」
普通に出した。
私がいつも座る席に座る。図らずも青井さん、もといりょうちゃんの向かいだ。
「りょうちゃんは本好きなの?」
「ええ。人並みには。ちーちゃんは好きなのよね。本棚は殆どあなたのだって聞いたわよ」
「うん、まあ…気になるのがあるなら、好きに読んでいいから」
言いながら私は読みかけの小説を鞄から出して広げる。これで話しかけてこないだろう。考えよう。
嫌いだからと思うままに嫌がらせをしてしまっては、私が嫌なやつだ。何故なら私は別段りょうちゃんに嫌なことはされていないのだから。
「好きなことをしていいのよね?」
「う、うん。私はだいたい本を読んでるけど、寝ててもいいし。好きにしていいんだよ」
「そう。じゃあ私は絵を描くわね」
「え…絵?」
「面白くないわよ」
「は……ぎゃ、ギャグじゃないっ。じゃなくて、絵を描くのが好きなら美術部に行けばいいじゃない」
「美術部も見てきたけど、凄く和気藹々とした雰囲気だったわ。描いているのも漫画絵ばかりだし…好みじゃないのよ。こっちで好き勝手に描いている方が気楽でいいわ」
な…なに言ってるのかわからない。だいたい、文化系の部活なんてだいたいそんな気楽なものだろう。人に見られるのが嫌なのだろうか。それとも自分は漫画なんてくだらないものは書かないプロ思考だとも言いたいのか。確かに美術部に一度お邪魔した時、殆ど漫研だった。
でもそれならそれで幽霊部員でいればいいのに。わざわざ文芸部の部室に来なくても……いるだけでいいからとか、隆美ちゃんに頼まれたんだろうなぁ。
好きに描ければどこでもいいなら余所でもいいけど、頼まれたからここでいいかなってノリなのか。
「そう…じゃあ、まあ、頑張って」
「ありがと」
スケッチブックを取り出して、鉛筆をいくつか並べて描き出した。鉛筆とはまた、本格的な。シャーペンじゃ駄目なのかな。
りょうちゃんが鉛筆を動かすとサラサラと音がした。紙の上を滑る鉛筆は、撫であうような優しい音で、いらいらする。
どうしてだかわからない。
視線をはずして本に視線をおとす。なのに意識が彼女から離れない。カリカリサラサラと鉛筆がたてる音がいやに大きく耳につく。
それ以外に音がない小さな部室だからか、彼女の吐息まで聞こえてしまう。聞きたくなんかないのに。鉛筆の音の合間に、本当に僅かにだけど呼吸によって空気が振動しているのが感じられる。
はっ、と今更気づく。密閉された空間で、私は彼女と同じ空気を吸っている。つまり、私の吐いた気体を彼女は吸い込むし、逆に私も彼女の体に一度入った気体を体にとりこんでいる。
「っ」
立ち上がって窓を開けた。
同じ空気を共有するだなんて真っ平ごめんだ。吐き気がするほど気持ち悪くて息ができなくなる。こんな考えにたどり着いてしまった自分が最悪だ。他の人ならこんな風に考えないのに、彼女を嫌いすぎて神経質になっている。
新鮮な空気を吸って息を吐くとドクドクと、脈が早くなっていたことに気づいた。どうやら私は脈まで反応するほど彼女が嫌いらしい。少し熱さえ感じる。
「どうかしたの?」
「ちょっと…空気の入れ換えを。開けたままでも大丈夫?」
「今日は暖かいから大丈夫よ」
「そう」
顔をあげたりょうちゃんは直ぐにまた俯いて鉛筆を動かし出す。それを確認してから私はゆっくり改めて席につく。
本を開いて、字を見つめる。
全く、頭に入らない。りょうちゃんの姿は視界にないのに。窓を開けたからグラウンドから声や音がするから、もう彼女がだす音も聞こえないのに。
なのに彼女がそこに、すぐそこにいると、分かっているからなのか、知ってるからなのか、彼女をいないものとして扱えない。彼女の存在を無視できない。
彼女が近くにいると意識すると、熱い。彼女の存在が熱い。彼女の存在が重い。どうしよう。こんな状態ではろくに嫌がらせのアイデアも思い浮かばない。
こうなったらもう本はやめだ。話し掛けて彼女の邪魔をしてやろう。
「っ…な、なに?」
顔をあげて驚いて思わず椅子をひきながら、何とか尋ねる。
りょうちゃんは私を見ていた。いつから? 私が彼女から必死に目をそらしていた今まで、ずっと見られてたの?
かーっと熱があがる。倒れてしまいそうだ。やだ。恥ずかしい。何か変なことをしなかっただろうか。私が彼女を大嫌いだと、ばれなかっただろうか。
「いいえ、ただ…ちーちゃんはやっぱりとても可愛らしい人だな、と思って」
「なっ」
なにを
「初めて会った時から、私、あなたのこと好きよ」
「…っ…」
なん、なに、これ。意味、わかんない。だって、え?
混乱する私に彼女はにっこりと、花が咲くように柔らかに、艶やかに、微笑んだ。
それを見て、私はもう我慢ができなくなった。あまりに眩しくて目がくらむ。彼女を見ていられない。
彼女が私を見ているという事実が私の心臓を加速させて痛い。息もできなくて苦しい。
そこにいるだけなのに、緊張で震えそうだ。声が裏返る。嫌いだ。嫌い。嫌い嫌い嫌い。
私は彼女がいるだけで苦しい。体が彼女を拒否してるんだ。だから私はつまり彼女が嫌いなんだ。大嫌い。
「っ…ばっ…馬鹿じゃないのっ」
だから、嬉しいと思ったのは気のせいだ。言われた瞬間、一気に辛く苦しくなったのに、これが嬉しいという感情なわけがない。
私は部屋を飛び出した。
苦しい。息ができない。目眩がしてくらくらして、頭まで痛い気がする。
彼女の戯れの一言がこんなに苦しいのは、私が彼女を嫌いだからだ。そうじゃなきゃ理由がつかない。
初めて目が会った瞬間から、彼女が目について、存在が気になって、仕方ない。こんな風になるのは彼女がうざくて、生理的に受け付けられなくて、死ぬほど嫌いだからだ。
視界に入るだけでうざくて、笑ってるとムカついて、近寄られると気持ち悪い。そう思うのに、どうして私はそう彼女に言わなかったんだろう。
絶対に私は彼女が嫌いなはずなのに、さっきまで気持ち悪くて堪らなくて、今だって彼女と離れたくて、彼女と関わりたくなんてないのに、どうして、今も彼女のことを考えるんだろう。
「っ…最悪っ」
彼女は特別なことは何もしてない。なのに嫌いだ。傍にいると鳥肌がたって仕方ない。気持ち悪い。存在を抹消したい。
なのに、彼女のことばかり考えてしまう。
気持ち悪い。自分の存在すら気持ち悪い。自分のことすら理解できない。
「っ」
何故か唐突に涙が出た。
彼女に会うまでこんなことはなかったのに。彼女だけが私を苦しめる。
ああ、もう、世界が爆発してしまえばいいのに。全部、この苦しみごとなくなればいいのに。
○