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「君が文官試験に受かるわけがない」と笑う婚約者と、もう結婚するつもりはありません

掲載日:2026/09/29

 不合格。


 覚悟していたとはいえ、こうして結果を突きつけられるとショックだ。

 子爵令嬢のコレット・ヴェルニエは先ほど届いたばかりの文官試験の合否通知を手に、しばしの間固まっていた。


 何度も見直すけれど、手紙に書いてある文字が急に合格に変化するなんてこともない。

 紛れもなく、結果は不合格だ。


 悔しい。文官試験のためにずっと図書館で毎日勉強していた。

 模擬試験だってかなりとけるようになっていた。

 応援してくれるひとだっていた。

 なのに。よりによって試験の日に体調を崩してしまうなんて。


 体調管理も試験のうち。万全の状態で臨んだはずなのに、当日お腹をこわしてしまったのだ。

 お腹が痛い。そう思ったらもうそれしか考えられなくて。

 いつもなら解ける問題も解けないまま、切り上げるしかなかった。

 本当に悔しい。唇をかみしめる。


(せめて、体調が万全だったら、受かったかもしれないのに)


 そう思っても、もう遅い。







 それは、コレットが十歳の頃だった。

 コレットが暮らす領地で大きな災害が起きた。

 そのときに王都から視察に来たのが、女性文官だったのだ。

 テキパキと仕事をする姿はとってもかっこよくて憧れた。思わずどうしたら彼女みたいになれるのかを聞いてしまったくらいだ。

 その日から、コレットの夢は文官になった。


 父も王都で働く文官だ。だが、コレットの夢には難色を示した。

 このヴァレーヌ王国では女性の社会進出が進みつつあるけれど、文官になった女性はどうしても婚期が遅れる。

 金色のまっすぐな髪に大きな青い瞳。少し気弱そうな印象のコレットは男性の庇護欲をそそる容姿をしているらしい。

 娘には、若いうちにさっさと家のための結婚をしてほしかったのだろう。


 だから、勉強は父の目を盗んで行われた。

 幸い、領地の家庭教師が理解あるひとで、令嬢の範囲を超えたところまで教えてくれたけれど、それにも限界はある。あとはほぼ独学だ。


 文官試験は十八歳から受けられる。


 母の力を借りてなんとか父を説得し、試験勉強の名目で王都のタウンハウスまでやってきたのが一年前。

 王都には文官試験対策の私塾もあると聞くけれど、もちろん父がお金を出してくれるわけもない。

 それでも、領地で一人勉強するよりは環境がいい。一年の間に少しずつ交流は広がった。

 そしてようやく迎えた当日、だったのに。


『体調が悪かったのなら仕方がないだろう。体調管理も実力のうちだ』


 父の言葉は正論だったけれど、だからこそ胸に刺さった。

 こんな半端な形になってしまったのが悔しい。


(領地に戻ろう)


 王宮で文官として働く人を視界に入れたくない。傷が癒えてからまた今後のことを考えよう。

 文官の勉強で得た知識で父に代わって領地運営をしている兄の手伝いで忙しくしていれば、夢のことも忘れられそうな気がした。


 なのに。

 父はそれを許してくれなかった。その理由は一週間後にわかる。







「久しぶりだな。コレット」


 にっこりと笑うのは、ロラン・サヴィニー、コレットより二つ上――二十歳の青年だ。茶色の髪に緑色の瞳。甘いマスクは女性受けするだろう。

 彼は、王宮の文官として働いているが、サヴィニー伯爵家の嫡男でもある。

 王都のタウンハウス。久しぶりに父から呼び出されたと思ったら、用意されていたのはお見合いの場だった。だまし討ちのような形になったのは、コレットが逃げるのを警戒してのことだろう。


 コレットは父が引き留めた理由を悟る。

 お見合い用にいつもより華やかなデイドレスを着たコレットは、応接室に現れた相手を見て、目の前が真っ暗になった。


(よりによって、サヴィニー伯爵令息だなんて)


 世間的に見れば、格上のしかも嫡男に嫁げるなんて幸せなのだろう。年齢のつり合いだってとれている。


 それはコレットもわかっている。だが、コレットはロランが苦手なのだ。領地がとなり合っており、彼とは、幼い頃からそれなりに交流があった。ロランは人当たりよくにこにこ笑っているけれど、コレットのことはいつも小馬鹿にしてくるのだ。コレットには出来ないと決めつけて話してくる。


 そんなコレットの気持ちも知らず、父はロランの隣に座るサヴィニー伯爵となごやかに話をしている。


「コレット嬢は領地経営の手伝いもしているとか」

「いやあ。女だてらに文官試験を受けたくらいですからね。合格はできませんでしたが」


 ぐさり、とコレットの胸に冷たい刃が刺さる。


「まあ、文官試験は難しいですからね。落ちるのは仕方ないですよ。私も必死になって勉強しましたから。受けただけでもすごいですよ」


 ロランがにこやかに言う。

 違う。コレットは本気だった。本気でがんばった。受かるつもりだった。

 けれど、彼らの言い方は、貴族令嬢の手遊び、くらいの扱い。


「私は……本気でした」


 コレットは小さな声を絞り出した。

 父たちの視線がコレットに集まった。

 彼らはきょとんとした顔をしてから、笑い声を上げた。


「ああ。そうだな。本気だったんだな。すまない。まあロラン殿、そんなわけで嫁いだら領地運営の手伝いでもさせてやってください」

「ええ。私は文官の仕事で忙しいですからね。願ったり叶ったりですよ」


 コレットはきゅっと膝の上で拳を握る。皆コレットが本気で勉強していたことを理解していない。

 ――夢が終わった、と思った。

 そのあとも、コレットは置いてけぼりで話は進んでいき、――ロランとの婚約が結ばれてしまった。


「僕は文官だからね。仕事が忙しくて領地運営は手薄になると思うんだ。信頼できるものに任せているけれど、君にも少し手伝ってほしいと思ってる。――君と婚約できて嬉しいよ。コレット」


 ロランが甘い微笑みを浮かべる。

 けれど、全然ときめかなかった。







 ロランと婚約して約三ヶ月。

 一緒に出かけるため迎えに来たロランは、コレットが姿を現すとにっこりと笑った。


「今日はきちんとしたドレスを着ているね。よかった。この前着ていたドレスは地味で伯爵夫人にはふさわしくないものだったからね」


 今日コレットが着ているのは、この前ロランから送られたフリルの多いデイドレスだ。コレットはシンプルなデザインが好きなのだが、それはロラン曰く「地味」らしい。


「じゃあ、行こうか」


 そう言ってコレットに腕を差し出してくる。コレットはその腕をおずおずととった。

 きっとロランは周囲から見て理想的な婚約者なのだろう。


 伯爵家の嫡男だし、容姿もいい。エスコートもスマートだし、贈り物も欠かさない。

 けれど、細かな言動にひっかかるところがある。

 どこかコレットを下に見ているように思えてならない。

 それが言動の端々からにじみ出ている。

 将来を共にするのだから、さらりと流すべきなのだろう。

 わかっているのだけれど。


(――本当にこのままでいいの?)


 この婚約は父だけじゃなく母や兄も喜んでいる。

 婚約を知った友人たちは、素敵な婚約者でうらやましい、と皆口を揃えて言う。

 サヴィニー伯爵家と縁を結ぶのはいいことなのも理解している。

 貴族は政略結婚ありきなのもわかっている。

 貴族令嬢は家長である父の決めた婚姻に従うべきであることも。

 それでも、心は非常に重い。

 馬車の中で過ぎゆく景色を眺めながらそんなことを考えていると、ロランから声をかけられた。


「コレット。どうしたのかな。そろそろ予約したレストランに着くよ。今日は君に本物の料理の味というものを知ってもらおうと思う」


 恩着せがましい内容が優しい口調で紡がれる。


「はい」


 いつもこんな調子だ。彼にとってコレットは何もできない不足ばかりの婚約者。

 少しずつすり減っていく自分を感じながら、コレットはこくりとうなずいた。








 数日後。気分が滅入ったコレットは、気分転換に侍女を連れて出かけることにした。

 ロランと出かけても、彼はコレットが好きな物が気に食わないらしく、コレットの意見は全く聞いてもらえないのだ。


 ロランに会う予定はないので、自分の好きな水色のシンプルなデイドレスを選ぶ。それだけで少し気分が上がった。

 自分の好きな物を買おうと、若い女性向けの店が並ぶ通りを歩く。

 一緒に出かけたとき、ロランが「君はこんな低俗な店が並ぶ場所に近づかないよね?」と言っていた通りだ。


 可愛らしい小物が置いてあっても、ロランのことを考えてしまうと手が伸びない。

 質が悪いから伯爵夫人にはふさわしくない、と却下されてしまう姿がありありと思い浮かぶからだ。

 何もかも否定されるので、ロランと出かけるときは彼から送られた趣味ではないものしか身につけなくなってしまった。


(駄目だなあ。本当に)


 せっかく自分の好きな物を見ようとしているのに、ロランのことを思い出して気が重くなる。

 それだけではない。

 コレットが文官試験に落ちたことを知っているくせに、やたら自慢げに仕事のことを話してくるのだ。しかも「あ。すまなかった。君は不合格だったんだな」の一言つき。

 ガリガリとコレットの中の何かが削られていく。


 婚約中からこの調子で結婚してやっていけるのだろうか。

 憂鬱になりながら歩いていると、コレットの視界になじみの書店が飛び込んできた。


「……」


 文官試験のための参考書が揃っている店だ。

 そしてある意味、コレットには特別な場所だった。


(結局、報告できなかったな……)


 脳裏に浮かぶのは、コレットの文官試験を応援してくれた青年だ。彼もまた文官だった。

 胸の奥が鈍く痛む。


「お嬢様。入らないのですか?」


 侍女が尋ねてくる。彼女はコレットがよくこの本屋へ寄っていたことを知っている。

 コレットは力なく微笑んだ。


「今日はいいわ」


 そうして去ろうとしたときだった。


「ヴェルニエ子爵令嬢……?」


 聞き心地の良いバリトンの声で名前を呼ばれる。

 コレットは思わず立ち止まって声がした方を見た。声を聞いただけでわかる。


(まさか……)


 ある意味、文官試験に落ちたとき、一番顔を合わせたくなかったひと。


「ラロシュ卿」


 コレットはかすれた声で彼の名前を呼んだ。

 先ほど思い浮かべた青年が、ちょうど本屋から出てくるところだったのだ。


「ああ。久しぶりだね。しばらく顔を見なかったらから心配していたんだ」


 穏やかな笑みを浮かべるのは、マクシム・ラロシュ卿。

 黒い艶やかな髪に琥珀色の瞳。派手さはないけれど整った顔立ちをしている。シンプルな黒い上着にトラウザーズと言った格好をした彼は、本がつまった紙袋を抱えている。侯爵家の嫡男である彼もまた、王宮の文官だった。法務関係の仕事についている。


 数ヶ月ぶりに会う彼は、記憶と変わらない穏やかな笑みを浮かべていた。


「その、きちんとしたご報告もできずにすみません……」


 コレットは頭を下げた。


 マクシムとはこの本屋で知り合った。コレットが文官の参考書について悩んでいるところを見かねて声をかけてくれたのだ。最初は警戒してしまったのだけれど、当然だと彼は自ら身元を明かしてくれた。まさか、侯爵家の人とは思わず驚いてしまったけれど。

 王宮図書館に通うようになったのも、マクシムの勧めがあったからだ。

 王宮図書館はマクシムの職場に近いらしく、休み時間に顔を覗かせてくれることもあった。休日に勉強を教えてもらったこともある。


『君ならきっと合格するよ』


 そうやって励ましてくれていたのに……。

 結局不合格だったことを彼に直接報告しないまま、コレットは婚約してしまい、彼に手紙を出せるような状況ではなくなってしまった。

 いや、それは言い訳だったのかもしれない。


「気にしないでいいよ。――せっかく会えたんだ。少し話をする時間はあるかな?」


 マクシムの申し出に、コレットはほんの少し迷った。一応婚約者がいる身だ。

 ――でも。

 コレットには侍女もいるし、マクシムもまた従者を連れている。二人きりではないし大丈夫だろう。


 それに、彼に謝罪もしたかった。応援してくれたのに合格できなくてすみません、と。 マクシムが選んだのは、侯爵家御用達だという落ち着いたレストランだった。

 個室に通される。食事の時間に関係なく、あまり人に知られたくない会談などによく使われるのだ、と教えられた。

 出てきたのも紅茶だけだ。ケーキを勧められたけどコレットは断った。


「――親身になってくださったのに、報告もできないままで申し訳ありません」


 改めて頭を下げるコレットに、マクシムはゆっくりと首を振る。


「気にしなくていいよ。僕も『君なら絶対受かる』なんてプレッシャーかけちゃったな、と反省したし。試験に絶対なんてないのにね」

「はい」

「残念だったね」


 コレットは無言でうなずいた。

 マクシムの言葉がしみる。

 責めることも何もせず、ただ受け止めてくれる。


「その、気のせいかもしれないけど、もしかして試験当日に何かあったのかい?」


 マクシムの質問にコレットは小さく息を呑む。息を吐き出すと、当日体調を崩してしまったことをマクシムに説明をした。


「体調不良か。なるほど。納得したよ」

「体調管理も試験のうち、ですから」


 コレットは微笑んで見せたが、あまりうまくいっているとは思わなかった。


「ただ、万全な態勢で臨めなかったのがショックで。それでラロシュ卿に報告できなかったんです。すみません」


 不合格通知を受け取ったとき、当然脳裏にマクシムのことが思い浮かんだ。

 でも、不義理とわかっていても、彼に報告することがこわかった。失望されたら、と想像するとどうしても足が向かなかったのだ。そんな人ではないとわかっているのに。


「いや、そんなことは気にしなくていいよ。それは――余計に悔しかったね」


 マクシムの静かな声に、コレットは一瞬目を見開いた。


「はい」


 文官試験に不合格だったことを、こんな風に寄り添ってもらったのは初めてだった。父はあの通りだし、母と兄はひたすら励まして慰めてくれた。もちろんそれもありがたかったけれど。


「ついつい考えてしまうんです。万全の体調で受けられていたらどうなっていただろう、って。そうしたら合格していたんじゃないかって」

「ああ」


 マクシムはコレットのそんな気持ちを否定せずに受け止めてくれる。

 それがコレットにはとても嬉しかった。


「僕は君の努力を見ていたからね。君の気持ちはよくわかる。どんな形であれ、全力を出せないまま終わってしまったのは、悔しいよ。当然だ」


(――ラロシュ卿はやっぱり私のことをわかってくれた)


「はい」

「――だから、そんなに浮かない顔をしていたのかい?」

「え?」


 コレットは顔を上げた。


「本屋で見かけたとき、少し思い詰めたような顔をしていたから。その、君は、サヴィニー伯爵家の嫡男と婚約したと聞いたけれど」


 どこか言いにくそうにマクシムは婚約の話を出した。


(やっぱり、ご存じだったのね)


 コレットはマクシムにロランとの婚約について知られたくなかったことに気づく。

 ロランとの婚約に不安がある。そんなこと、彼に言えるわけがない。

 だから曖昧に濁して笑う。


「そうですね。まだ試験のことが引っかかっているからかもしれません」


 嘘ではない。自分にそう言い聞かせながら、コレットは答えた。


「……」


 ――その後、マクシムとは他愛もない話をして別れた。

 コレットが試験に落ちたことを知っているせいか、仕事の話は避けてくれたように思う。そんな気を遣わなくても大丈夫なのに。

 でも、その心遣いが嬉しかった。






 その日コレットは屋敷に帰ると、自室の隅の山にかけてある白い布を取った。

 文官試験の勉強で使った本たちが現れる。

 捨てようと思ったけれど、捨てきれなくて取っておいたものだ。でも視界に入るのは辛くて、こうして見えないように隠していた。


(試験勉強は楽しかったな……)


 もともと文官になるのは夢だったけれど、その気持ちが強くなったのはマクシムのおかげでもあったと思う。

 会うたびに、彼がいろいろ文官の仕事について教えてくれたのだ。

 マクシムは法務関係で働いている。漠然とした憧れが、マクシムのおかげで具体的な夢になったといってもいい。

 コレットはマクシムに最初に選んでもらった本を手に取る。


『いつか、君と一緒に働ける日がくるのを楽しみにしているよ』


 マクシムの励ましの言葉がコレットの脳裏に浮かぶ。

 それはコレットの試験勉強の一つの動機になった。


(一緒に、働きたかった)


 ぎゅっと胸が掴まれるような気持ちになった。

 体調を崩したのは自分が悪いのかもしれない。

 でも、そのせいでくすぶってしまっているのも確かだ。

 ロランと結婚する以上、文官になることはできないだろう。

 だからといって、このままずっとこのもやもやを引きずっていくのだろうか。

 そして毎日家で夫の仕事の話を聞く。


 ――無理だ。コレットはそう思った。


 だったら。

 コレットはぱたんと本を閉じた。

 青い瞳に決意の色が宿る。

 





「文官試験を受けたい? 何を言ってるんだ。君は」


 案の定、ロランは鼻で笑うような反応だった。

 もっとも、父親も同じような反応だった。何馬鹿なことを言っているんだ、と一笑に付されそうになったところをなんとか食い下がって、「ロランが許可を出せばいい」とまで言わせた。

 なので早速、次の休日に顔を合わせたロランに切り出してみたのだ。


 ――文官試験をもう一度受けたい。

 反応は予想通りだったけれども。


「受けたところで、君の実力で受かるわけがないだろう?」


 ロランのこの態度は予想通りだった。けれど、ここでコレットも引くわけにはいかない。

 ロランが仕事のことを口にするたびにもやもやするのは、きっとコレットの中でまだ文官に対する憧れに区切りがついていないからだろう。

 思いがけない体調不良で実力を出せなかったことが引っかかっているのだ。

 だから。次の文官試験を受けて、コレットの中で終わりにしたい。


「このもやもやを忘れるためにも、試験を受けて見事に散りたいんです」


 コレットは懸命にロランに説明をした。


「散りたい、か」


 不合格を前提としたからだろうか。ロランがようやく耳を傾けてくれる。


「はい。受かるとは思ってません。なので、私の結婚前のわがままだと思って認めてもらえませんか?」

「わかった。認めよう」


 下手に出たのがよかったのだろうか。鷹揚にロランがうなずく。


「ありがとうございます。ロラン様」


 コレットは唇のはしをあげて笑みの形を作った








 翌日からコレットは長らく中断していた文官試験を再開した。


 ロランの休日は彼に付き合う必要があるから、それ以外を全部勉強に費やすことになる。

 幸い、恐れていたほどブランクは大きくなかったようで、大体のことを覚えていた。

 これなら思ったよりも行けるかもしれない。

 侍女には夜遅くまで起きていることに苦言を呈されるけれど、でも表情が明るくなった、とも言われる。


 王宮の図書館通いも復活させた。

 家よりも静かな空間は勉強がはかどるし、調べ物もすぐに出来る。

 ――というのは言い訳なのだろう。

 マクシムに会えたらいいな、という下心もある。けれど、婚約者がいる身。コレットから連絡を取るわけにはいかない。

 だから、小さな奇跡にかけて、コレットは王宮の図書館で勉強をする。


 このまま王宮で勉強を続けていれば、また会えるかもしれない。

 そのささやかな願いが叶ったのは、二週間後のことだった。


「ヴェルニエ子爵令嬢――?」


 王宮図書館に行く途中だった。

 マクシムはその琥珀色の目を見開くと、こちらに慌てたように駆け寄ってきた。


「どうしたんだい? 君が王宮にいるなんて。もしかして」


 マクシムはコレットが大きな鞄を持っていることに気づいたらしい。

 コレットは大きくうなずいた。


「はい。文官試験を受けることにしたんです。――区切りをつけるために」

「区切り?」

「はい。こんなに引きずってしまうのは、きっと全力を出せなかったせいだろうなって。だから、最後に全力で頑張ることにしました」

「……そうか」


 元気よく笑うコレットにマクシムが微笑む。


「頑張って。君ならきっと合格するよ」

「ありがとうございます」


 マクシムは仕事中だったのだろう。慌ただしく去って行く。

 コレットはその後ろ姿が見えなくなってから、王宮図書館へと向かって歩き始めた。

 あのときとは違い、今はコレットは婚約者がいる身。誤解を与えるような行動は慎まないといけない。

 だから、マクシムと話せただけでも十分なのだ。


 王宮図書館についたコレットは日当たりがあまり良くない隅っこの席でいつも通り勉強を始める。人気がなくてあまり周囲に人がいないのがお気に入りだ。

 数学の参考書を開きながら、問題を解き始める。

 コレットは無心にペンを走らせる。


「ヴェルニエ子爵令嬢」


 ふと声をかけられてコレットはペンを止めた。


「マクシム様、と……」


 そこには、マクシムの他に二十代半ばと思しき女性が立っていた。黒髪の琥珀色の目をした綺麗な顔立ちの女性で、紺色の制服は文官のものだ。

 といってもここは図書館。あまり話を続けて良い場所ではない。

 紹介はあとでする、とマクシムは笑った。


「お昼だよ。一緒に食べに行かないか?」


 もちろん、コレットはその誘いを受けたのだけれど。


(一体、どういう関係の女性なんだろう……)


 マクシムと女性が一緒にいるところを見たことはなかった。

 ただ、彼の整った容姿と侯爵家の嫡男という立場を考えれば、親しい女性がいても全然不思議ではない。ただコレットが知らなかっただけなのかも。

 そう思ったのだけど。


「僕の姉のオレリーだ。今はベルガルド侯爵家に嫁いでいる。制服を見ればわかるが、彼女も文官なんだ。王妃陛下の秘書官をしている。――その僕たちが二人きりで会うのは外聞が悪いから」


 図書館を出るなり紹介された女性は、マクシムの姉だった。言われてみれば、顔立ちはあまり似ていないが、髪と目の色は同じだ。マクシムの配慮がありがたい。


「オレリー・ベルガルドよ。よろしくね。名前で呼んでもいいかしら? 私もオレリーでいいから」


 にこにこと笑う女性の迫力に押されて、思わずコレットはうなずいてしまう。


「話はマクシムからいろいろ聞いているわ。ずっと会ってみたかったのよ。文官試験、目指しているんだって?」

「あ。はい」

「可愛い後輩が出来るのは大歓迎よ」


 にっこりと笑うオレリーにコレットは小さく笑んだ。

 三人揃って王宮の食堂へ行く。混雑した食堂の中、運良くまとまった席に座ることができた。三人とも同じ日替わりランチ。今日はチキンソテーだ。

 オレリーはとにかくよく話す女性だった。ただ、嫌な印象は全くない。


「姉上は結婚しても文官を続けてるんだよ」

「だってこの仕事が肌に合っているんだもの。幸い夫も理解があったしね」


(いいなあ)


 コレットは、本当に区切りをつけるためだけの受験だ。先はない。

 ロランのことを考えるとちょっと気分が暗くなる。でもコレットは笑顔を作った。


「理解にある旦那さんで素敵ですね」

「ああ。姉上をもらってくれたありがたい男性だからね」

「ちょっとマクシム。聞き捨てならないわね」


 じろり、とオレリーがにらみつける。

 そのやりとりが面白くて、コレットは小さく微笑んだ。






 その日から、マクシムと会うときには必ずオレリーが一緒になった。

 いつも間にか、マクシム抜きでも会うようになる。

 オレリーは素敵な女性だった。頭の回転が速いのがわかる。

 マクシムやオレリーの助言のおかげで勉強ははかどっていた。

 おかげで試験勉強は順調に進んでいる。


 ロランとの関係は相変わらずだ。結婚式の準備も始まりつつある。式は来年の秋に決定した。


「そんなことも自分で判断出来ないのか? まあ、僕がいないと駄目だからしかたない」


 ロランは、結婚式について少し相談をするとすぐそんなことを言い始めるので、とても辛い。相談せずに一人で決めると、それはそれで機嫌があからさまに悪くなるのだ。

 文官試験と、マクシムやオレリーと会う時間だけがコレットの励みだった。これがなかったら、とうの昔に自分は心を失ってしまっていた気がする。


 いつの間にか季節は過ぎ、試験まであと三ヶ月ほどになったある日のこと。

 その日、コレットは図書館まで迎えに来てくれたオレリーと一緒にお昼を食べに行こうとしていた。最近ではオレリーと一緒にいることの方が多い。


 マクシムとも会っているけれど、コレットが既に婚約しているからだろう、必ずオレリーか同僚などの第三者が一緒だ。


「今日のランチはなにかしらねえ」


 オレリーの楽しげな声に思わずコレットも表情を緩めていたのだけれど。


「コレット?」


 訝しげな声が聞こえて、コレットは思わず立ち止まる。


「ロラン、様」


 え? とオレリーが小さく声をあげた。コレットはあまり婚約者について話さない。でもその存在だけは知っていたからだろう。

 表情が途端にこわばるのを感じた。

 文官の制服を着たロランは、きゅっと形の良い眉をひそめた。つかつかとこちらにやってくる。


「どうして君がここに?」

「王宮図書館に寄ってました」

「無駄なことを。落ちるために頑張るなんて俺はできないな」


 そして、ようやくロランは隣にいるオレリーの存在に気づいたらしい。いや、コレットの連れだと思っていなかったというのが正しいだろう。


「ベルガルド夫人。もしかして、コレットと知り合いですか?」

「ええ。ちょっと縁があってね。勉強を教えたりしているの」

「ありがとうございます。出来が悪い婚約者のために、こうして時間を割いていただいて」

「いえ。私が好きでやっていることだから気にしないで」


 ロランは愛想良くオレリーと話した後、再びコレットに視線を向けた。


「君もベルガルド夫人に迷惑をかけたりしないように。それくらいはできるだろう。じゃあ俺は忙しいから去るよ」

「はい。お仕事頑張ってください」


 コレットは頭を下げた。


「……行ったわよ」


 ため息交じりの声でオレリーが言う。

 ああ。見られたくなかった。理解のある夫をもつオレリーには余計に。

 コレットは泣き笑いのような表情になってしまう。


「コレットもあんな婚約者をもって大変ね」


 もちろん、コレットが力強く肯定するわけにはいかないので、曖昧に微笑むにとどめる。ただ、救われた気はした。


「本当はコレットが出来が悪いわけがないわよって否定してあげたかったんだけど、ああいう輩は言うことを否定すると後で激昂しないとも限らないから、できなかったわ。ごめんなさいね」

「いえ。十分です」

「ほんと、マクシムがぐずぐずしているから……」


 オレリーの呟きは小さくてよく聞こえなかった。


「オレリーさん?」

「なんでもないわ。ああいうタイプは女だからってだけで一段下に見るのよね。コレット。絶対文官試験合格して、婚約者のことを見返してやりましょう」


 にっこりとオレリーは微笑んだ。


「できるといいんですけど」

「できるわよ。コレットなら!」

「ありがとうございます」

「ああ。本当にコレットは素直で可愛い。あの男には本当にもったいないわ」


 鉛を呑み込んだような気分になっていたのが少し晴れたのは、他でもないオレリーのおかげだ。






 ロランは相変わらずだ。コレットのことは何もかも否定して、だから自分がいろいろ教えてやるんだ、と言う。

 コレットは曖昧な笑みを浮かべながら、その話を聞き流す。

 彼に教えられたことなど何もない。


(――本当にこの人と私は結婚するの?)


 未来を考えると憂鬱になってしまうから。

 だから、コレットは猛然と勉強をする。


 

 そして、試験まであと一月ほどになったある日のことだった。







 その日、ついつい勉強に夢中になってしまったコレットは、お昼をかなり過ぎた時間に食堂へ向かっていた。時間帯を外したせいか人は少ない。


 食堂近くには談話用の場所があり、そこには休憩中らしき文官の姿が見える。


「ああ。俺の婚約者は文官試験を受けるんだよ。受かるわけもないのに毎日頑張っている」


 前を通ろうとしたコレットの耳に飛び込んできたのは、聞き慣れたロランの声だった。文官のうちの一人はロランだったらしい。万が一にも見つかりたくなくて、コレットは身を隠すように立ち止まる。

 ロランたちからコレットがいる場所は死角だ。それでもなるべく気配を消しながら通り過ぎようとして――。


「もし、合格したらどうするんだ? 文官にするのか?」

「まさか。そもそも合格しないさ。できるわけがない。文官を馬鹿にしてもらっては困る」

「でも万が一ってことがあるだろう」

「ないさ。万が一なんてことはね。俺は用意周到だから」

「どういうことだ?」


(どういうこと?)


 コレットもロランに尋ねた同僚らしき男性と同じ気持ちだった。


「薬だよ。少し調子が悪くなるような薬を食事に盛る。去年もそれでうまくいった。本当はもっと早く婚約する予定だったんだけど、向こうが文官試験があるって頑なだったからな。一応終わるまではまってやったんだ」


 どこか得意げにロランが言う。

 コレットはお腹の辺りがどんどん冷たくなっていくのを感じた。

 心臓の鼓動だけがどくどくと大きく聞こえる。


(――薬を……盛った?)


 あれだけ体調に気をつけていたのに、試験当日にいきなり調子が悪くなったお腹。

 緊張のせいなのかと思ったこともある。

 下剤のようなものであれば、比較的簡単に手に入る。


「そのために彼女の家の使用人と仲良くしているんだ」

「……お前、マジか?」

「万が一にでも合格して、調子づかせるとあとあと面倒だろう? 文官の仕事をやりたいって言い出すに決まってる。僕の妻としての仕事をおろそかにされては困る。文官の仕事はままごとじゃないんだ」


 ロランのその口調に罪悪感はまったくなく、当然だとでも言いたげだ。


(そんな……嘘よ)


 コレットは食堂とは別方向へと駆けだした。

 体調管理が出来ない自分が悪いと思っていた。

 会場を出るときは断腸の思いだったし、本番当日に限って調子を崩してしまう自分を責めた。

 不合格通知をもらったときはショックだった。


(なのにまさか)


 それが、ロランがたくらんだことだなんて。

 しかも彼は、それを悪いと思っていない。

 コレットが文官試験に合格すると面倒だから。それだけの理由で。


(信じられない)


 気の進まない婚約だった。それでも結婚したら伯爵家のために尽くすつもりでいた。

 コレットは王宮の人目につかない場所でしゃがみ込む。

 こらえていた涙がぽろぽろと零れてきた。

 ショックだった。

 ロランは、人が努力していることを平気で踏みつけにする人間だったのだ。


(もう絶対に無理……)


 彼と結婚するなら死んだ方がマシだ。だって、彼と結婚したらコレットは自分の心を殺して彼の満足するように振る舞わなければいけなくなる。

 ロランと結婚して幸せになれる未来が全く見えない。

 どうすればいいんだろう。どうすれば……。






 三日後。お昼にオレリーと共に図書館にやってきたマクシムは、コレットの顔を覗き込んできた。


「ヴェルニエ子爵令嬢。顔色が悪くないか?」


 無心でペンを動かしていたコレットは、その声にようやくペンを止める。

 隣ではオレリーが心配そうな顔をしている。オレリーとは昨日も会っていて、心配そうな顔をされた。

 笑顔を作らなくちゃ。そう思うのにうまく笑えない。

 それどころか。


「ヴェ、ヴェルニエ子爵令嬢?」


 マクシムの顔を見たら、自然と涙がぼろぼろと零れてきた。

 マクシムが動揺している。コレットも涙を止めようとするけれど、なかなか止まらない。


「す、すみません」


 コレットは自分のハンカチで涙を拭った。力を抜くとすぐに目頭が熱くなってしまう。


「マクシム」


 オレリーがマクシムに静かに声をかけた。彼はこくりとうなずく。


「ヴェルニエ子爵令嬢。僕でよかったら話を聞くよ? ちょうど午後は休みなんだ」

「……え?」

「それがいいと思うわ。コレット」


 オレリーが力強く言う。こくりとコレットはうなずいた。

 二人の心遣いがありがたかった。

 オレリーとマクシムの三人でラロシュ侯爵家の馬車に乗る。マクシムがいろいろ手筈を整え、オレリーはずっとコレットに付き添ってくれた。

 馬車の中では二人とも、特に何も語りかけてこない。

 オレリーは仕事のためにラロシュ侯爵邸についてすぐ、馬車で王宮に向かっていった。余計な噂を立てられないためだけに付き合ってくれたのだろう。


 初めて足を踏み入れるラロシュ侯爵邸は、コレットの家の何倍も立派な屋敷だった。置かれている調度品も、比べものにならない。

 コレットが通されたのは応接室だった。調度品は落ち着いた色でまとめられていて、、壁には風景画が飾ってある。使用人が静かに香りのよい紅茶を運んできた。


「姉上曰く、昨日もかなり顔色がよくなかったようだけど、何かあったのかい? 根を詰めて勉強をしているから……だけではないよね?」


 コレットの向かい側に座ったマクシムが単刀直入に尋ねてくる。

 コレットは大きく息を吐き出した。


「実は……」


 王宮で立ち聞きしてしまったロランの話を説明する。

 ロランが得意そうに試験当日にコレットに薬を盛ったと話していたこと。そして、次もそうするつもりであること。

 そして――。


「ロラン様は使用人と通じていたみたいなんです。家で薬を盛られたって知ったら、何も食べられなくなって」


 そう。コレットは家で出された食事を受け付けなくなってしまった。

 話を聞いた日、そのまま家に帰って部屋に引きこもった。使用人が簡単な食事を運んでくれたのだけれど、手をつけようとして急に怖くなったのだ。


 ロランと通じていた使用人はわからない。でも、口にして体調が悪くなってしまったら? そう想ったら、怖くて食べられなくなってしまったのだ。まだ試験は先だというのに。

 王宮の食堂で食べるのはコレットの唯一の食事になっている。

 顔色が悪いのはきっとそのせいだろう。


「わかった」


 マクシムが短く言った。

 琥珀色の瞳がいつもより少し濃い気がする。


「ラロシュ、卿?」

「――君はどうしたい?」


 マクシムがまっすぐに質問してくる。


「私、は――」


 どうしたいのだろう。


「ゆっくりでいい。誰にも言わないから、教えて」

「どうにかロラン様との婚約を解消して、文官になりたいです」


 格下の家からの婚約解消は難しい。具体的な方法は思いつかないけれど。

 でも、きっと方法はあるはずだ。

 家族には迷惑をかけてしまうだろうけど、母や兄はきっとわかってくれる。

 家を出たってかまわない。


「そうか」


 コレットの言葉に、マクシムがほんの少し目元をやわらげた。しかしすぐに表情を引き締めた。


「出来たばかりであまり知られていないけど、王宮には望まない結婚を強いられる貴族の令息・令嬢のための窓口がある。親の利益のために子供が犠牲になってもいいのか。特に家に上下関係がある場合、立場が上の方が、下の方を自分の家来か何かと勘違いして隷属させようとする、という問題も多く発生しているからね。専門の法務官が交渉してくれる。君のパターンもそれに該当すると思う。必ず解消できる、とは言わないけど、相談してみるのはどうだろう。僕も関わっているし」

「本当、ですか……?」


 コレットは青い目を見開いた。ほんの少しだけど希望の光が差した気がする。


「ああ。サヴィニー伯爵令息の行いは同じ男としても許せない。君を支配したいだけじゃないか」

「はい」


 少しでも可能性が見えただけで十分だった。あとはコレットが頑張らなければならない。


「貴重な情報をありがとうございます。助かります」


 そう言うと、マクシムはゆっくりと首を振った。


「いや、まだだ。食事はどうする? 婚約解消の道筋が見えたとて、そちらは解決していないだろう?」


 確かにその通りだった。自立のためにも今年の文官試験を邪魔されるわけにはいかない。せっかくの決意がしぼんでいく。


「一つ提案なんだが――試験が終わるまで、君は家を出た方がいいんじゃないか? このままだと試験にむけての体調管理どころの話じゃないだろう?」


 マクシムの言う通りだ。


「はい。ですが、お恥ずかしながら、当てがなくて」

「本当は我が家に滞在してもらえたらよかったんだが、さすがに婚約者のいる君がうちの滞在するのは外聞が悪い。姉上あたりに頼んでみるか。君のことを気にしていたし、たぶん引き受けてくれるだろう。だめだったとしても、伝手を当たってくれるはずだ」

「ありがとう、ございます」


 親身になってもらって、とてもありがたい。

 安心したのかお腹がぐうと鳴る。コレットは恥ずかしくて土に埋まりたい気分になった。


「その、すみません……」


 マクシムがくすりと笑う。


「いいよ。お昼を食べに行くところだったんだから。そろそろ昼食の準備が出来たはずだよ。存分に食べていって」






 結局、コレットは試験までオレリーの屋敷に滞在することになった。オレリーもオレリーの夫もコレットを歓迎してくれる。


 万が一にもロランに居場所がばれないように、父には「試験勉強に集中ために友人の家に世話になる」という手紙を送るのみとした。ロランにも、試験が終わるまで会えない旨を伝える。ロランのことだ、激怒したかもしれないが、知ったことではない。試験が終わったら相談する予定でいる。

 ロランと顔を合わせると面倒なので、王宮図書館へ行くのもやめた。


「顔色がよくなってよかったよ」


 数日後、様子を見に来てくれたマクシムがほっとしたように言う。


「ありがとうございます。オレリーさんたちのおかげです」


 何も気にせず食べられる、ということはすごくありがたいのだ、ということをコレットは学んだ。

 静かな環境で勉強もはかどっている。オレリーも夫も文官なので、わからないところを教えてくれるのもありがたい。

 試験までは婚約のことは一度忘れ、勉強に集中するつもりだ。


「君と一緒に働くことができる日を楽しみにしているよ。頑張って」


 マクシムはコレットの可能性を信じてくれる。

 だから――。


「ありがとうございます」


 マクシムのためにも頑張ろう。






 オレリーの家にお世話になってから一週間が経った。


「ありがとう。コレット。この書類がないとすっごく困るところだったわ」


 コレットは王宮にオレリーの忘れ物を届けに来ていた。


「よかったです」

「ごめんね。王宮まで来てもらっちゃって」

「いえ。お世話になっていますから、これくらい当然です。さくっと帰りますから」


 コレットはオレリーに宣言したとおり、まっすぐ帰ることにする。

 婚約について片がつくまではなるべくロランと接触したくない。


(よし、がんばろう)


 王妃陛下の秘書官として働いているオレリーの職場は女性が多かった。キビキビと働いている彼女たちの姿を見て、コレットのやる気も刺激された。

 オレリーが働いている王宮の本殿を出て、そのまままっすぐ門へと進む。

 はやく敷地内から出てしまおう。そう思ったのに。


「コレット!」


 今、一番聞きたくなかった声がコレットの耳に飛び込んできた。。

 ――ロランだ。

 文官の制服をきたロランがこちらに近づいてくる。表情はやや穏やかではあるものの、その目は笑っていなかった。


(なんで)


 コレットの頭が真っ白になる。逃げようと思うのに、足が動かない。

 ロランが逃がすまいとコレットの腕を強い力で掴む。思わず痛みにコレットは顔を歪めた。


「今までどこに行っていたんだ? 何があったか知らないが、急にあんな手紙をよこして。心配したんだぞ」

「……」

「子爵もお前の帰りを待っている。俺も休みをとってやるから、一緒に戻ろう。もし帰りづらい理由があるなら、俺が口をきいてやってもいい」


 ロランのその口調から察するに、コレットが家に帰れない理由が自分にあるとはみじんも思っていないようだ。


「ほら。早く来い。まずは俺の半休の手続きだな。全く、余計な世話をかけさせて。かまってほしかったのならば、正直にそう言え」


 コレットの話も何も聞かずにロランは強引にことを進めようとする。コレットが言葉を発していたとて、彼はきっと聞く耳を持たなかっただろう。


「まったく。やっぱり文官試験を受ける、なんて許すんじゃなかったな。今からでも遅くない。子爵と話をするか」


(――え?)


 コレットははじかれたようにロランを見た。

 この人は、一体何の権利があって、コレットの邪魔をするのだろう。

 今まで、ロランの機嫌を伺っていた。だって何を言っても彼は聞いてくれないから。諦めの境地だった。

 でも、それが彼を増長させていたんではないだろうか。

 言いたいことはしっかり言わないといけなかったのだ。

 自分の夢を守るためにも、コレットはロランと対峙するべきなのだ。


「どうした。コレット。反省でもしたのか?」

「――どうして、試験を受けるのに、あなたの許しを請う必要があるんですか?」


 コレットの口から出たのは、自分でも驚くくらい平坦な声だった。


「決まっているだろう。俺がお前の婚約者だからだ」


 ロランが形の良い眉をひそめる。

 少しコレットの様子がおかしいことに気づいたのだろう。


「婚約者というのは、あなたの奴隷ではありません」

「何を言う。お前から許可を取ってきたんじゃないか」

「そうですね。それがそもそも間違っていました。あなたの許可なんて取らずに試験を受けるべきでした」

「生意気なことを言うな! お前は伯爵家に入るんだ。勝手なことは許さない。たとえ、受かるわけがないとしてもだ」

「本当にそうですか?」


 コレットはロランを静かに見つめた。


「受かるわけがないって思うのならば、何故試験当日に私の食事に下剤を入れたんですか?」


 ロランの顔に動揺が走った。


「そして、今回も同じことをするつもりだったんですよね? 一番安心できるはずの家で何かを盛られるかもしれない、なんて、家にいられなくなって当然じゃないですか? だから避難したんです」

「な、何を言っているんだ」

「自慢げに話していることをしっかり聞きました」

「立ち聞きしていたのか?」


 ロランが責めるように言う。立ち聞きしていたコレットが悪い、と持って行きたいのだろう。


「したくてしたわけじゃありません。とにかく、その事実を知った時点で、あなたへの信頼度はゼロになりました。もう無理です」


 本当は試験が終わってから、もっと穏便な形で告げるつもりだった。

 でも。いい。ここで本人に言ってしまおう。

 コレットの中でロランとの未来はないのだから。


「もう、あなたと結婚することはできません」


 ロランは一瞬ぽかんとした顔をしたかと思ったら、徐々に怒りの表情を浮かべる。


「コレット。お前がそんなことを言える立場だと思っているのか! 俺がもらってやるんだぞ!」

「もらってくださいとお願いしたことはありません」

「何を生意気なことを!」


 ぱしん、と乾いた音がした。

 ロランに頬を平手打ちされたのだ、ど理解するまでに少し時間がかかった。

 頬がじんじんと痛む。じわりと口の中に鉄の味がした。

 さすがに周囲もざわついた。なにせ、文官の男性が婚約者の女性に手をあげたのだ。

 怒りにまかせていたロランもはっと我に返ったのだろう。


「こ、これは、お、お前が悪いんだ。お前が生意気なことを言うから」


 ロランは目撃者たちに向かって、自分は悪くないの言い訳を始める。


「手を上げた男が一番悪いに決まっているだろう」


 冷たい声が耳に飛び込んできて、コレットは反射的にそちらを見た。マクシムだった。急いだのかかにしては珍しく服装が乱れている。


「お前には関係ないだろう!」

「関係あるよ。僕は法務部で働いていて、こういった婚約者間の問題を扱っている。さすがに暴力は見過ごせない」


 ロランがぎろりとコレットを睨む。その視線からかばうようにマクシムが前に出た。


「ロラン・サヴィニー殿。君はしばらく婚約者には接近禁止だ。今回の件についてヴェルニエ子爵令嬢との婚約については、きちんとこちらで調査確認をしてから、話し合いの場を設けよう」

「なんで法務部が俺たちの問題に口を出してくるんだ!」

「君みたいな人間がたくさんいたからだよ。最近相談窓口ができたんだ」


 マクシムがため息交じりに言う。


「こちらの手続きを疑うならそれはそれでかまわない。だが、動けば動くほど心象が悪くなることを忘れずに。特に、君が婚約者に手を上げたのは多くの人間が見ている。大人しくしていた方がいいと思うよ」

「……っ」


 マクシムの指摘にロランは悔しそうな顔をする。


「コレット! 悪いのはお前だからな!」


 まるで捨て台詞のように言うと、ロランは逃げるようにその場を去って行った。

 ふう、とコレットは大きく息を吐き出す。ぶたれた頬がじんじんする。


「ヴェルニエ子爵令嬢」


 マクシムに声をかけられて反射的に気をつけをしてしまったのは、マクシムが怒っているように感じたからだ。


「えっと……」

「とりあえず、医務室に行こうか。頬が腫れている」





 マクシムに連れて行かれた医務室で、コレットは医務官から簡単な手当を受けた。塗り薬を塗ってもらう。ロランが非力な文官だったのが幸いしたのか、腫れもおそらくすぐ引くだろうとのこと。まだ頬は少し熱を持っている気がする。


 手当を終えて医務室のソファに座って待っててくれたマクシムのところへ行く。

 コレットの姿を見て、マクシムは痛ましそうに顔を歪めた。


「まったく、君は無茶をする」

「すみません。またロラン様に夢を奪われるのかを思ったらかっとしてしまって」


 コレットとしては小さくなるしかない。まさかロランと会うとは思わなかったのだ、は言い訳だろう。


「でも、今まで呑み込んでばかりだったから、言いたいことを言えてすっきりしました」


 にっこりと笑った。


「……」


 マクシムは顔に手を空けて大きくため息をついている。


「本当に君は……」


 マクシムはどうやら心配したオレリーから連絡をコレットが王宮に来ていると受けていたらしい。それで慌てて駆けつけたところ、ちょうどコレットがロランに平手打ちされるところだったという。よりにもよって、と思わなくもない。


「あ。でも、公衆の面前で婚約者に暴力って、これは婚約解消の有力な材料になりますよね!」


 明るく言って見たところ、マクシムに深々とため息をつかれてしまった。


「まあ、確かにそれはその通りかもしれないが、まさか狙ってやった、とは言わないよな?」

「も、もちろんです。私だってロラン様が女性に暴力をふるうような人だとは思いませんでしたから」


 ただ、これが婚約解消への大きな材料になるのならば、叩かれたことも悪くない、と思える。


「ヴェルニエ子爵令嬢。いいか? 君の頬が腫れるくらいで済んだのは運が良かったからに過ぎないんだぞ。ロラン・サヴィニーが非力だったことや、人前だったこと、拳じゃなくて平手打ちだったこと。様々な要因が重なっている。それを忘れるな」

「はい……」


「まあ、君の言うとおり、婚約解消の大きな材料にはなるだろう。試験前に悪いが、少し時間をもらえるか? これから君の相談内容の書類を作ってしまおう」

「わかりました。確かにその方がいいですね」

「こうなった以上、さっさと書類を作って進めてしまった方がいい。悪いな。試験前なのに」

「大丈夫です。一日予定が狂っただけで頭を抱えるような勉強の仕方はしていません」


 むしろ、オレリーの家に滞在してからというもの、ものすごく調子がいい。

 コレットが力強く言うと、マクシムがようやく少しだけ笑った。








 マクシムの頑張りで、婚約解消の話は一気に進んだ。

 やはり王宮で皆の前でコレットに暴力をふるった、というのが大きかった。人の口に戸は立てられない。ロランが婚約者を叩いたことは、あっという間に王宮内の噂になってしまい、父親のサヴィニー伯爵の耳にも届いてしまったのだ。

 そこでさらに婚約解消を拒否するなど恥の上塗り。

 ということで、試験の三日前に、無事に婚約解消が成立した。

 王宮で噂になってしまったロランは、領主の勉強を名目に文官をやめて領地に帰る、という噂がある。が、皆、噂のせいで職場にいづらくなったのだと知っている。

 そして。いくらロランが嫡男とはいえ、婚約者に暴力をふるったというレッテルがはられてしまった彼が今後婚約者を見つけるのは難しいだろう。








(やりきったわ!)


 試験会場を出たコレットは、解放感から大きくのびをした。

 なかなか難しかったけれど、手応えもそれなりにある。

 万が一駄目だったとしたら……あまり考えたくないけれど、また来年頑張ろう。

 今のコレットには、それが許されるはずだ。


(これも、ラロシュ卿たちのおかげね)


 これから、オレリーの屋敷に戻って荷物を整理しなければならない。

 明日、コレットは自分の家に帰る予定だ。

 ロランと婚約解消した今、薬を盛られる可能性は限りなく低かったが、それでも念のためと試験が終わるまではオレリーの屋敷にお世話になることにした。


(少し、さみしい気もするけれど)


 でも、合格したらきっとまた会えるはずだ。今度は職場で。

 試験が終わる時間に合わせて迎えに来てくれていたオレリーの家の馬車を見つける。

 駆け寄って――コレットは驚いた。


「ラロシュ卿?」


 そう。マクシムが馬車から降りてきたのだ。

 マクシムとは婚約解消が決まったときに会っている。


「試験お疲れ」

「ありがとうございます。……どうしてラロシュ卿がここに?」

「試験が終わったら、君に伝えたいことがあったんだ。だから姉上に無理を言った」


 マクシムが笑う。


「私に伝えたいこと、ですか?」

「まず、馬車に乗ろうか?」


 マクシムと向かい合って座る。馬車がゆっくりと走り出した。


「その、話って何ですか?」


 コレットが尋ねると、マクシムがこちらにまっすぐな視線を向けた。



「ヴェルニエ子爵令嬢。僕と結婚してほしい」



(――え?)


 コレットは思わず瞬きをしながらマクシムの顔を見る。彼は冗談を言っているようには見えない。


「本当は去年、君の試験結果が出てから言うつもりだった。でも、君からは連絡はなくて……こちらから連絡するのをためらっているうちに、君はサヴィニー伯爵令息と婚約してしまった。姉上には遅いって叱られるし、さんざんだったよ。だから、今度は試験が終わったらすぐに言おうと思ったんだ」


 マクシムが続ける。


「まっすぐ文官の夢に向かう君を見ていたら、いつのまにか、好きになっていた」

「嘘……」

「嘘じゃない。僕は、ずっと君と一緒にいたい」


 マクシムから紡がれる言葉に、コレットは固まった。

 まさか、彼の方から告白されるなんて。


 マクシムのことをどう思っているか。自分に問いかけると、答えは簡単に出てきた。

 ただ、今までコレットには婚約者がいたから、考えないようにしていただけだ。

 ロランの所業で追い詰められていたとき、マクシムの顔を見て思わず涙が零れてしまったのは、コレットが誰よりも彼を信頼しているからだろう。


「私も――好きです。何より、私を否定せずに私の夢を応援してくれた。だから、よろしくお願いします!」

「ありがとう。コレット」


 名前を呼ばれて、コレットの胸がどきりと跳ねる。

 マクシムはコレットの手をとると、そっと甲に口づけた。


「ラ、ラロシュ卿」

「マクシムだ」


 動揺するコレットにマクシムが上目遣いでいう。その色気たっぷりな仕草にコレットは動揺する。


「マ、マクシム様」


 コレットが名前を呼ぶと、マクシムは満足げに微笑んだ。


「コレット。――君を幸せにするよ」

 





* * *






「開けます」


 子爵家の応接室。ソファの隣に座るマクシムにそう宣言すると、震えるコレットは白い封筒の封をを切った。

 つい先ほど、子爵家に届けられた文官試験の結果通知だ。


 ――結果を一緒に確認してもらえますか?


 マクシムにそう頼んだのはコレットからだった。コレットが婚約解消したばかりということで、正式な婚約はまだだが、すでに父も認めている。


 マクシムがヴェルニエ邸を訪れるのは二回目。一度目は婚約の挨拶だった。


『文官試験なんて受けようとする娘ですがいいんですか?』


 挨拶の場でそんなことを言う父に対してマクシムはにっこりと笑った。


『文官試験に対する諦めない姿勢が彼女の好きなところの一つです』


 父はあたふたしていたけれど、もちろん助け船は出さなかった。

 ただ、それから少しだけ父からの当たりが弱くなったように思う。


(――どうか合格していて)


 見るのが怖い。怖いけれど、見なきゃいけない。

 そろそろと二つ折りの紙を開いて――。

 コレットは思わず息を呑んだ。


 書かれていた文字は――合格。


 何回見ても合格だった。


「やったーーーーー! やりました! マクシム様!! 合格です!」


 喜びのあまりコレットは通知を持ったまま隣に座るマクシムに抱きつく。


「コ、コレット?」

「私、合格しました。マクシム様やオレリーさんたちのおかげです!!」


 嬉しくて嬉しくて思わず涙が出てくる。


「本当にありがとうございます!」


 マクシムはコレットの手からそっと通知を取ると、そこに書かれている「合格」の文字を確認したようだ。


「おめでとう。コレット」


 優しい声が振ってきてぎゅっと抱きしめられる。

 自分から抱きついたのに、抱き寄せられる形になってしまい、コレットは今更大胆なことをしてしまったのでは? とドキドキしてきた。


「この結果も君が頑張ったからだ」


 一年前。不合格通知を受け取った時はショックだった。諦めようと思った。

 でも、再挑戦することを決めて良かった、とコレットは思う。

 この一年大変なことも多かったけれど、報われた気持ちが大きい。


「春からは一緒に働けるね」


 マクシムが耳元で囁く。


「はい!」


 コレットは元気よく返事をすると、マクシムの背中に回した手に力を込めた。

 自分の未来は自分で決める。

 マクシムの隣ならそれが叶う。それがとても幸せだ。




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