第4話:『白銀の牢獄』
館を包む霧を抜け、アイリスはエヴァリアの王都へと続く街道を歩いていた。
国境の「霧の壁」へ至るには、この国の中心を横切るしかない。彼女がかつて数え切れないほど往復し、その石畳の感覚を足裏ですべて記憶しているはずの道だ。
だが、今夜の道は、昨日までとは決定的に異なっていた。
(……冷たい。こんなに、刺すような風だっただろうか)
杖をつく音。自分の呼吸。
遠くで響く水琴窟のような街の仕掛け。
すべてが以前と同じはずなのに、それらを受け取るアイリスの感覚が、まるで「拒絶」されているかのように尖っていた。
背中に背負った始祖の剣。
剣を振るうことを許された一族の「伝承」。この国が数百年かけて守り続けてきた「永遠」を、一瞬で終わらせてしまう刃。
それを隠し持っているという事実が、彼女の歩みを鈍らせる。自分は女神の加護を盗み出し、祝福されたこの国に「死」という名の毒を撒き散らそうとしているのではないか。そんな罪の意識が、霧よりも深く彼女の視界を遮っていた。
あの男を斬った時に視た「黄金の夕刻」。
あれほどまでに美しいと感じた「終わり」の情景は、この国の人々にとっては、救いではなく最も忌むべき「消滅」に他ならない。
自分だけが、禁じられた果実の味を知ってしまった。その孤独が、肺を圧迫し、呼吸を浅くさせる。
「はぁ、っ、は……」
不意に、アイリスの足が止まった。
前方から、馴染みのある「震え」が近づいてきたからだ。
「……おや。こんな夜更けに、誰だい?」
穏やかで、包み込むような声音。
アイリスの聴覚は、即座にその主を特定した。王都の市場で、彼女が好む香草をいつも用意してくれていた店主の女性だ。
名はマーサ。
アイリスが一族の剣士であることを知りながらも、一人の娘として接し、よく世間話に花を咲かせた相手だった。
「マーサ……さん」
「おや、アイリスじゃないか。その足音、少し乱れているね。どうしたんだい、こんな時間に。館の用事かね?」
マーサの盲いた瞳は、優しくアイリスの方向を向いている。
この国では、表情を隠すことはできても、気配の乱れを隠すことは難しい。
特に、互いの呼吸の隙間を知るほど親しい間柄であれば尚更だ。
「ええ……。少し、確認しておきたいことがあって。急ぎの用なのです」
嘘をついた。 喉の奥が焼けるように熱い。
今まで何度も交わしてきた挨拶が、今は鋭い刃となって自分の胸を切り刻む。
たどたどしい口調。
わずかに震える杖。
アイリスが「何か」を隠していることは、マーサのような鋭敏な感覚の持ち主には明白だった。
沈黙が流れる。
エヴァリアの夜は、嘘を容易に暴き出す。
アイリスの心臓の鼓動が、マーサの足元の石畳にまで伝わっているのではないかと思うほど、静寂が重かった。
だが、マーサはそれ以上、何も追求しなかった。 彼女はただ、ふわりと微笑んだような気配を見せ、静かに口を開いた。
「そうかい。あんたは昔から、何でも一人で背負い込む癖があるからね。……でもね、アイリス。あんたがいつも買ってくれたあの香草、あれを煮出す時のあんたの気配は、私にとっても癒やしだったんだよ。日頃の感謝を、伝えておきたかったんだ」
「マーサさん、私は……」
「いいんだよ。夜道は冷える。女神様の月光が、あんたの歩む先を、ほんの少しでも導いてくれることを祈ってるよ」
日頃の感謝。
その言葉は、アイリスにとって、どんな罵倒よりも残酷に響いた。 これから自分が向かうのは、マーサが信じ、守り続けているこの国の平穏を、根底から否定する場所なのだ。その自分に、彼女は「女神の導き」を祈ってくれた。
(私は、あなたたちの愛する世界を、裏切ろうとしているのに)
アイリスは、こみ上げる嗚咽を飲み込み、深く頭を下げた。 答えを返せば、すべてが崩れてしまいそうだった。
彼女は逃げるように、マーサの横を通り過ぎようとした。
だが、背後からかけられたその一言が、アイリスの足を縫い止めた。
「ああ、そうだアイリス。明日はぜひ店に来ておくれよ。あんたがまだ小さい頃に好きだった、あの甘いセレナハーブが入ってくるんだ」
マーサの声は、春の陽だまりのように温かく、揺るぎない「明日」を信じていた。エヴァリアにおいて、明日は今日と同じであり、一年後もまた今日と同じである。
その確信に満ちた誘いが、今のアイリスにはあまりにも眩しく、そして鋭い棘となって胸に刺さる。
「……ありがとう。マーサさん」
絞り出すような声が、霧の中に震えて消える。
「明日もまた、待っているからね」
マーサの気配が遠ざかっていく。 アイリスは一人、夜の静寂に取り残された。
胸が、千切れるほどに締め付けられていた。
この国には、確かに「終わり」はない。しかし、ここにはマーサのような慈愛に満ちた人々がいて、彼女たちの紡ぐ日々は、決して偽りなどではなかった。アイリスの記憶に刻まれたハーブの香り、幼い頃に触れた石畳の熱、誰かが奏でる竪琴の音。
(私は、やっぱりこの国が好きだったんだ……。この香りが、この人たちの優しさが、たまらなく好きだったんだ)
改めて突きつけられた自覚が、彼女を責め立てる。 自分が始祖の剣で断ち切ろうとしているのは、醜い怪物だけではない。
こうした何気ない「明日への期待」や、穏やかな幸福の連続さえも、彼女は否定しようとしているのだ。
祝福を拒絶し、永遠を終わらせる死の毒を持ち出す自分。
アイリスは、自分がエヴァリアという美しい楽園を追われる、ただ一人の罪人であるかのように感じた。
「それでも……」
彼女は、震える手で自らの胸を強く押さえた。 マーサが信じる「明日」が、もしも永遠に繰り返されるだけの摩耗であるならば。いつか彼女のその慈しみさえもが、時間の重みに耐えかねて擦り切れてしまう日が来るとしたら。
(私は、行かなければならない。この温かさが、いつか醜い『歪み』に変わってしまう前に)
アイリスは再び杖を突き、歩き出した。 目に映ることのない街並みの輪郭が、今夜だけは異様に鮮明に感じられる。石造りの家々の隙間から漏れる眠りの気配。風が運んでくる、使い古された薪の匂い。 そのすべてを記憶に焼き付けるように、彼女は一歩一歩、終わりへと続く道を踏みしめた。
街を抜ける頃には、霧はより白く、密度を増していた。 一族の館を出たときよりも、ずっと重くなった始祖の剣を背に、アイリスはついに王都の境界――「霧の壁」の入り口へと辿り着いた。
生まれて初めてこの国を出るのだ。そこは音が乱反射し、距離感も方向も、そして自分が誰であるかという感覚さえも霧散させる白銀の迷宮だ。
アイリスは始祖の剣を背負い、霧の深淵へと足を踏み入れた。 一歩進むごとに、背後に残してきたマーサの温もりや、街の香りが遠ざかっていく。
代わりに肺を満たすのは、氷のように冷たく、無機質な静寂だ。
(……引き返すべきではないか)
霧が耳元で囁く。
それは決して「恐怖」ではない、女神が施したこの国の「加護」であり「祝福」故に、無垢な心配である。この先にあるのは、誰も見たことのない、そして誰も望んでいない「終わり」だ。
エヴァリアの民が数百年かけて拒み続けてきた毒を、自分一人の独善で持ち出して良いはずがない。 罪悪感が足首を掴み、泥濘のように彼女の歩みを遅らせる。
「はぁ、っ、は……」
霧の密度が増し、杖が地面を叩く音さえも不自然に吸い込まれ始めた時。 不意に、前方の空間がかすかに震えた。
それは「歪み」の不快な響きではない。極めて洗練された、かつて何度も共に研鑽を積んだ、あまりにも馴染み深い「静謐な剣気」だった。
「……そこまでだ、アイリス」
霧の中から響いたその声に、アイリスの心臓が大きく跳ねた。 彼女の数歩先、白銀のカーテンを割って現れたのは、一族の兄弟子であり、幼い頃から背中を追ってきたカインだった。
「カイン……兄様」
「館は今、騒然としているよ。始祖の剣が失われ、お前が姿を消したことでね。父上は『不浄の者』として追っ手を出すよう命じている。だが、俺が無理を言って先に出させてもらった」
まるで視界があるかの様に、カインの歩法には迷いがない。彼はアイリスとの間を、剣一振り分の距離にまで詰めて立ち止まった。 彼の纏う空気は、アイリスが今抱えている「不協和音」とは正反対の、透き通るようなエヴァリアの理そのものだった。
「アイリス、その剣を返し、俺と一緒に戻ろう。今ならまだ、俺がうまく話せる。お前はただ、霧に惑わされただけだと。……あの日、お前が斬った男のことは聞いた。あれは、ただの不幸な事故だ」
カインの声は、どこまでも優しかった。彼はアイリスが「死」という救済に触れたことを、一時の迷いや病のようなものだと信じようとしている。
「事故ではありません。私は……あの瞬間、確かに視たのです」
アイリスは震える手で、背負った剣の鞘に触れた。
「私たちが祝福と呼んできたものは、出口のない牢獄だった。終われないことが、どれほど残酷か……。カイン兄様、あなただって気づいているはずです。父様の瞳から光が消え、母様の声から温もりが失われていくのを。私たちは生きているのではなく、ただ、摩耗し続けているだけだと」
「……過ぎた言葉だ、アイリス」
カインの声がわずかに低くなる。彼は腰の剣――彼に許された「鉄の杖」に手をかけた。
「俺たちが守っているのは、女神の慈悲だ。お前が手にしているものは、それを根底から覆す『呪い』だよ。それを持って外へ出れば、お前は二度とこの国に戻ることはできない。……アイリス、俺にお前を斬らせないでくれ」
霧が、二人の間に重く立ち込める。 アイリスは悟った。カインは、彼女を救おうとしている。だが、彼が救おうとしているのは「エヴァリアの剣士としてのアイリス」であり、真実を知ってしまった「今のアイリス」ではないのだ。
カインがゆっくりと剣を抜く。その鋭利な振動が、霧を切り裂いてアイリスの肌を刺した。 アイリスもまた、震える指先で始祖の剣の柄を握り直す。
「ごめんなさい、カイン兄様」
彼女は、初めて自分から一歩を踏み出した。 それは、愛した故郷と、自分を愛してくれた人への、決定的な別離の告げだった。
白銀の霧の中、二つの剣気が激しく衝突しようとしていた。




