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月光に触れる剣  作者: 水色蛍
永劫の凪と救済の深淵
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第2話:『光なき碑文』

 エヴァリアという国を定義するのは、光ではなく「音の厚み」である。


 石造りの街並みは、風が通り抜けるたびに異なる音色を奏でるように設計されている。細い路地は高音の口笛を吹き、広場は低い唸りを上げる。


 盲目の国民たちは、その反響の差異によって己の立ち位置を知り、迷うことなく日々の営みを繰り返す。

 ここでは、灯火は何の意味も持たない。

 人々の生活を彩るのは、繊細な手触りの織物であり、複雑に調合された香草の匂いであり、そして何より、絶えることのない「再生」の予感だった。


 アイリスは、一族の館の地下にある「記憶の回廊」を歩いていた。

 ここは歴代の剣士たちの遺した言葉が、触覚で読み取るための隆起した文字――碑文として壁一面に刻まれている場所だ。


 彼女の指先が、冷たい石の表面をなぞる。


『我ら、月の女神の指先なり。終わりを遠ざけ、永劫を編む者なり』


 指先に触れる文字はどれも鋭く、迷いがない。しかし、アイリスにはそれが、自分たちを縛り付ける鎖の音のように聞こえた。


 アイリスの一族は、この国において唯一「剣」を帯びることを許されている。

 かつて、剣は「死」をもたらすための道具だった。

 だが、エヴァリアから死が失われて以来、その役割は変質した。剣は、肥大しすぎた生命を削ぎ落とし、秩序ある形に整えるための「彫刻刀」となったのだ。


 一族に伝わる剣術「月華の理」もまた、相手を倒すためではなく、相手の再生の律動を阻害し、強制的な静止――彼らが「凪」と呼ぶ状態――を創り出すための作法へと形を変えていた。


(……私たちは、何を保存しているのか)


 アイリスは、碑文のさらに古い層に指を這わせた。 そこには、現在の教義では決して語られない、削り取られた「欠落」があった。


 ある箇所を境に、碑文の感触が劇的に変化しているのだ。古い時代の文字は、もっと荒々しく、もっと「終わり」に対して自覚的であった。今の滑らかな、再生を肯定するだけの言葉とは明らかに異質な、切実な熱を帯びていた。


 今までも何度も確かめようとした、その歴史。だが決して碑文は答えてはくれない。


 一族に伝わる古い口伝には、こんな一節がある。


『真の剣は、月光に触れる時、命の重さを測る秤となる』


 だが今のアイリスには、その意味が痛いほどに理解できた。

 あの日、あの男を斬った時に感じた「空白」。

 あれこそが、かつて一族が守っていた「秤」の重みだったのではないか。 自分たちが女神から与えられたとされる「不死」は、実は、人間が本来持っていた「完成する権利」を奪われた結果ではないのか。


 アイリスの足が、回廊の最奥で止まった。 そこには、一族の始祖が使ったとされる、錆びることのない銀の剣が祀られている。 視覚のない彼女には、その剣がどんな色をしているかは分からない。だが、その剣の周囲だけ、空気の振動が止まっているのが分かった。まるで、その空間だけが「時間」という再生の円環から切り離されているかのように。


「……アイリス」


 背後から、低く、重い振動が伝わってきた。 振り返るまでもない。

 父だ。彼は、アイリスがこの禁じられた回廊に長居することを好まない。


「古い石に触れても、答えは出ない。我らの血は、女神の契約によって流れている。その流れを止めることは、エヴァリアそのものを否定することだ」


「父上、私は否定したいのではありません。ただ……」


 アイリスは、始祖の剣の方を向いたまま言葉を継いだ。


「ただ、私たちは『生きる』という言葉の本当の響きを、忘れてしまったのではないかと思うのです」


 父の呼吸が、わずかに乱れた。 それは怒りではなく、深い、底知れない「恐怖」の揺らぎだった。


 この国を支配しているのは女神の加護ではない。終わることができないという、根源的な恐怖なのだ。


 父の気配が遠ざかり、回廊に再び重苦しい静寂が戻った。


 アイリスは、震える指を始祖の剣へと伸ばした。


 この一族において、剣を抜くという行為は、単なる物理的な動作ではない。それは、エヴァリアという不変の円環に、鋭利な楔を打ち込むことに等しかった。


(なぜ、私だったのか)


 指先が鞘の銀細工に触れる。 代々の長老や、父ですら、この剣をただの重い「象徴」として敬ってきた。彼らにとって、この剣は鞘に入ったまま、何も斬らぬことにこそ価値がある「不動の理」だった。 だが、アイリスが柄に触れた時、剣は微かな振動を返した。


 それは拒絶ではなく、永い眠りについていた獣が、ようやく訪れた「終わりの気配」を察知して、自ら進んで目覚めたような、恐ろしいほどの従順さだった。


 彼女は幼い頃から、この国の音を「うるさい」と感じていた。


 人々が喜ぶ不死の脈動、絶え間ない細胞の再生が奏でる泥濘のような響き。他の者が「祝福」と呼ぶその音の中に、アイリスだけは、出口を失った魂たちが壁を叩くような悲鳴を聴き取ってしまったのだ。


 感受性が高すぎたのか、あるいは血の中に眠る「かつての人間」の記憶が、彼女を蝕んでいたのか。 彼女にとって、この国は最初から「欠落している」ように感じられていた。死という終止符を奪われた文章が、意味をなさぬまま永遠に綴られ続けている空虚。


(……あなたが私を選んだのか。それとも、私があなたを引き寄せたのか)


 鞘から滑り出した銀の刃。視覚なき彼女の感覚が、その刃の周囲だけ、空気の振動が完全に消失しているのを捉える。


 この剣は「再生」というエヴァリアの律動から切り離されている。 触れれば消える雪のように、あまりにも絶対的な無機質。


 一族の他の者たちが「生」というエゴを剣に乗せて振るう中、アイリスだけが、相手の痛みに寄り添うような「空虚」を持って研鑽を積んできた。その空虚さが、始祖の剣が抱える「死という救い」と共鳴したのだろうか。


 そのまま彼女は自室へと戻り、旅の支度を始めた。


 荷造りの一つ一つの所作が、彼女に「過去」を思い出させる。 手に取った厚手の外套は、昨年の冬に母が織り上げたものだ。母の指先が、自分の肩幅を幾度も測った時の掌の熱。父の指導の下で繰り返した、あの形骸化した剣の型。それらはアイリスの肉体の一部となって、彼女を育ててきた。


 しかし、支度を進める彼女の指先は、迷いを振り払うように動く。 この館に残る家族は、もう「摩耗」の極致にいる。彼らは真実を隠しているのではない。真実を理解するための「魂の余白」さえ、永劫の時間に削り取られてしまったのだ。


「捨てていくのではない」


 アイリスは、始祖の剣を腰に帯びた。

 通常の剣よりも重く、ずっしりとしたその質量は、これから彼女が背負う「死」という概念そのものの重みのようだった。


「私は、持ち帰らなければならないのだ。この国が、本当の意味で『生きる』ために必要なものを」


 月が霧の向こうで、最も青く光り輝く刻。 アイリスは館の裏口、古びた扉の前に立った。 鍵を開ける音すら立てず、彼女は夜の霧へと溶け込んでいく。


「さようなら、愛すべき停滞」


 背後に残された館の反響が、少しずつ遠ざかる。 初めて踏みしめる、一族の領地の外の柔らかな苔。 それは、未知という名の自由が、アイリスの足の裏を優しく、そして恐ろしく撫でた瞬間だった。

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