月は嗤っている
※本作品は既に「カクヨム」で連載し、完結した物語となります。
月は契約した。民は応じた。
――終わりを、手放した。
肉は朽ちず。ただ、歪む。
再生は続く。
祈りも、悲鳴も、やがて同じ音になる。
ゆえに剣がある。
終わらせぬために。
壊れきらぬように。
盲の剣士は、見ることなく、斬り続ける。
ある日――
刃は触れてしまった。
“在るはずのないもの”に。
それは、静寂。それは、冷たさ。
それは――終わり。
ひとつ、止まった。完全に。
月は、何を覆った。誰が、それを望んだ。
剣は、もう知っている。
ならば行け。霧の外へ。
終わりを思い出せ。
――それでも、月は嗤っている。
✴︎
エヴァリアの夜は常に霧のざわめきと共にあった 。
視界という概念を奪われたこの地において、世界を形作るのは、足裏を伝う土の脈動と、大気に溶け込んだ冷たい湿り気だけだ 。
アイリスは、愛剣の柄に指を添えた。
彼女の一族にのみ許されたその「鉄の杖」は、相手を屠るための牙ではない 。
それは、逸脱した生をあるべき場所へ留めるための、静かな儀式に等しかった 。
目の前には、かつて人間であった「それ」がいる。
繰り返される過剰な再生により、肉体は本来の姿を忘れ歪な塊へと変質していた。
本来なら、刃を突き立てれば押し返すような「生の圧力」が返ってくるはずだった。
月光に守られたこの国では、肉体は時間に抗い、瞬時に傷を塞ごうとするからだ。
だが。
「……軽い」
アイリスが放った一閃が、その歪な肉を断った瞬間、彼女の掌に届いたのは空虚だった。 いつもなら感じるはずの、粘りつくような再生の抵抗が一切ない 。
刃が触れたのは、肉ではなく、ただの「静寂」だった。
崩れ落ちた相手の気配が、霧の中に霧散していく。
それは再生の放棄。
この国が太古に女神と交わした「死の不在」という契約を、彼女の剣がわずかに切り裂いてしまった瞬間だった 。
「私は、終わらせたのではない」
彼女は、見えない瞳を虚空に向け、呟いた。
「終わりを……邪魔しなかっただけなのだ」
その日、アイリスの内に小さな亀裂が走った。 生とは、終わらないことと同義なのか。あるいは、終わりを受け入れる器こそが、命と呼ばれるものなのか 。
霧の向こうで、月の女神が冷たく笑った気がした。




