散った飛沫は誰の血か
春の陽射しは柔らかいのに、学寮の空気は張り詰めていた。
夜会の一件以来、白鷺萌乃は以前にも増して周囲に囲まれている。慰める声、労わる視線、同情の囁き。
――可哀想な萌乃様。あんな疑いをかけられて。脚本が修正されたのではない。より強固に書き換えられたのだ。
そして今日、透歌は萌乃から直々に呼び出しを受けた。場所は人気の少ない温室。
「透歌様、お一人で」
その指定に、透歌は微笑んだ。
「宵。温室の外で待機なさい」
「承知いたしました」
宵は止めもしない。ただ一礼するその瞳はいつも通り、冷静で、深い。
(あなたは分かっているのね)
透歌は温室の扉を開けた。湿った空気と咲きかけの白百合の香り。中央に立つ萌乃は、今日も無垢な笑顔を浮かべていた。
「お忙しいのに、ごめんなさい」
「構いませんわ。ご用件は?」
透歌が距離を保ったまま立つと、萌乃は少し俯き、そして顔を上げた。その瞳には――底冷えするような憎悪が宿っている。
「どうして、邪魔をするの?あなたがいると、物語が進まない」
透歌の鼓動が一拍、強く打つ。
(やはり、あなたも)
「何のことかしら」
「とぼけないで。あなたは悪役なの。断罪されて、処刑されて、それで終わるはずだった。なのに、どうして笑っているの?」
歪むガラスの向こうで、萌乃の顔が歪む。
「わたくしは、わたくしの人生を生きているだけです」
「違う!あなたは物語の装置なのよ!」
その瞬間、萌乃の手が素早く袖口へ伸びた。銀色の光、小さなナイフ。透歌が反応するよりも早く、萌乃は――自らの腕を切り裂いた。
「……っ!」
鮮血が白い袖を染める。次の瞬間、温室に鋭い悲鳴が響き渡った。
「きゃああああああ!」
激しく扉が開く音。足音。萌乃は透歌の方へ倒れ込み、血に濡れた手で透歌の袖を掴む。
「透歌様……どうして……」
溢れる涙と震える声。完璧な演技。駆け込んできた学寮生たちが息を呑む。その中には、朝霧千隼もいた。
「何があった!」
「わたし……透歌様に……」
萌乃はそれ以上言わなかった。だが、状況は十分。透歌の袖には、はっきりと血が付着している。
(ここで取り乱せば、完全にあの女の勝ち。……落ち着きなさい、私)
透歌が深く息を吸った、その時。
「透歌様」
静かな声が、張り詰めた空気を割って入った。宵だった。いつの間にか温室の中に滑り込んでいた彼は、学内の決まりを破り、透歌の斜め後ろへぴたりと立つ。
「発言の前に、確認を」
冷静な声音に、千隼が鋭い目を向けた。
「楼來、これはどういうことだ」
「事実のみ申し上げます。萌乃様の傷は浅く、横一文字。これは典型的な自傷の角度です」
ざわり、と周囲が動揺する。
「透歌様との距離は三歩。刃が届く位置ではございません」
「……黙れ」
千隼が低く声を絞り出す。
「貴様は彼女の従者だ。主人を庇うのは当然だろう」
だが、宵は一瞬も怯まなかった。
「では、物証を」
宵が袖から取り出したのは、血の付着した小型のナイフ。その持ち手には――白鷺家の紋章が刻まれていた。空気が凍る。萌乃の瞳がほんの僅かに揺れたが、すぐにまた涙で曇る。
「違う……そんな……」
弱々しく首を振る。演技としては、どこまでも完璧だった。
千隼の視線が、透歌と萌乃の間で激しく揺れる。信じたいのは、どちらか。透歌は、その王太子の迷いを冷徹に見つめていた。
(殿下は、まだ選べない)
物語の強制力と、宵が提示した圧倒的な物証。その狭間で彼は引き裂かれている。
「わたくしは何もしておりません」
透歌は静かに言い切った。
「ですが、萌乃様が傷ついた事実は重い」
視線を、血に濡れた萌乃へと向ける。
「お大事になさって」
それは冷たいほどに、落ち着いた声音だった。同情も、焦りも、怒りすらもない。ただ事実を受け流す絶対者の風格。萌乃の頬が、一瞬だけ醜く引き攣る。
またしても、思惑がずれた。透歌が精神的に崩れないせいで、悪役令嬢を一方的に糾弾する断罪の舞台が完成しないのだ。千隼が重い口を開き、命じる。
「萌乃を医務室へ。……透歌、お前からは後で詳しく話を聞く」
完全に疑いが消えたわけではない。ただ、その場で罪を確定させなかった。今の透歌にとっては、それで十分だった。
「宵」
「なんでしょう?」
温室を出て、誰もいない廊下に差し掛かったところで透歌は呟いた。
「近いうちに、学内裁定会が開かれるわ。徹底的に勝ちに行くわよ」
「仰せのままに、透歌様」




