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王都の刺客

北方学舎の正午。冬の気配を含んだ風が窓を叩いているが、講堂の中は熱気に満ちていた。


黒板の前に立つ少年、蒼空の背中は以前よりも逞しく見える。彼がチョークを走らせるたび、数式や図形が新たな意味を持って、見る者の視界を広げていく。


「……以上の計算から、冬期における物流の最適経路は、従来の街道ではなくこの谷筋を通るルートになります。勾配は急ですが、除雪コストと時間を加味すれば、二十パーセントの効率化が見込めます」


その言葉は淡々としていて、飾り気がない。だが、最前列に陣取る商人たちは身を乗り出し、必死に羊皮紙へペンを走らせる。後ろに控える職人たちも、建築や機材の回転率に応用できないかと、食い入るように黒板を見つめていた。


かつて「子供の遊び」と揶揄された学びは、今やこの街を動かす不可欠な「動力」へと変貌を遂げていた。


しかし、その熱狂の中に、一つだけ異質な視線が混じっていた。


最後方の席。深くフードを被り、旅装束に身を包んだ男。彼は他の者たちのようにメモを取ることはなく、ただ、蒼空という存在そのものを値踏みするように、冷徹な観察を続けていた。


(……観察されている)


蒼空の手が、一瞬だけ止まる。


誰も気づかないほどの微かな空白。だが、蒼空の鋭敏な知覚は、背後に刺さる視線の鋭さを捉えていた。それは知識を求める者の瞳ではない。獲物を見定めた、狩人のそれだ。


授業が終わり、活気に溢れる生徒たちが講堂を去っていく。


蒼空が外へ出ると、そこにはすでに宵が待っていた。壁に背を預け、周囲をさりげなく警戒するその姿は、一見すればただの学舎の風景に溶け込んでいるが、その手はいつでも剣を抜ける位置にあった。


「今日は早いな、蒼空。区切りがついたか?」


「……はい。ですが、人が増えました」


「いいことじゃないか。お前の教えを求めて、遠くの村からも人が来る」


「……そうです。そう、なのですが」


蒼空の瞳には、明確な警戒の色が宿っていた。宵はそれを見逃さない。言葉には出さずとも、二人の間で「異分子」の存在が共有される。


夕闇が街を包み始めた頃。


蒼空は、あえて人通りの少ない学舎の裏手を通った。そこは街の喧騒から切り離された、石造りの壁が並ぶ静かな路地だ。


「蒼空」


低く、通る声が少年の足を止めさせた。


振り向くと、そこに立っていたのは昼間の男だった。近くで見れば、その衣服の質は隠しきれない上等なものだとわかる。


「……どなたですか」


「王都から来た。お前の噂を聞いてな」


男は皮肉な笑みを浮かべた。その一言で、周囲の空気が凍りつく。北の僻地までわざわざ王都から足を運ぶ理由は、ただ一つしかない。


男は静かに一歩、間合いを詰める。


「お前の才は、こんな吹き溜まりに収まる器ではない。数字で国を動かし、ことわりで世界を変える。それがお前の本質だろう?」


蒼空は無言で先を促した。


「王都へ来い。お前のために、最高の環境を用意してある。大陸全土の知識が集う大書庫、無尽蔵の研究資材、そして王の側近としての地位。望むものすべてがそこにある。この北の果てで、無知な連中に物流を説いて回るなど、才能の浪費でしかない」


男の言葉は滑らかだった。数多の天才を、その虚栄心をくすぐることで堕としてきた、洗練された「誘い」の言葉。


だが、蒼空の表情には微塵の動揺もなかった。


「いりません」


迷いのない、冷徹なまでの即答。男の眉がぴくりと跳ねる。


「……理由を訊こう。地位か? 金か? それとも王都が怖いのか?」


「ここで十分だからです」


蒼空は、空を見上げた。高く、どこまでも澄んだ北の空。


「ここで考え、ここで教える。それだけで僕の探求は満たされます。それに——」


少しだけ間を置き、蒼空ははっきりと言った。


「ここには、透歌様がいる」


その名を出した瞬間、蒼空の瞳に確固たる熱が宿った。


王都の栄華も、広大な書庫も、彼の心には響かない。彼にとっての正解は、彼という存在を最初に見出し、居場所を与えてくれた人の隣にしかなかった。


男の表情から、偽りの笑みが消えた。


「……そうか。交渉決裂、というわけだ」


その声が冷たく響いた直後、男の袖から冷徹な刃が滑り落ちる。


「なら、他国に渡る前にここで摘んでおくのが、王都にとっての正解だ」


最速の突き。暗殺に特化した無駄のない動き。


だが、その刃が蒼空の喉元に届くよりも早く、凄まじい金属音が路地に響き渡った。

火花が散る。


男の剣を弾き飛ばしたのは、影から躍り出た宵の愛刀だった。


「遅かったな。待ちくたびれたぞ」


宵の声は低く、そして殺気に満ちていた。


男は舌打ちをし、すぐさま距離を取る。


「……護衛付きか。それも、かなりの手練れだな」


「最初からだ。透歌に言われてな。お前のような野良犬が、うちの宝を嗅ぎ回るだろうと」


宵の動きは疾風のごとくだった。


男もまた訓練された戦士だったが、北の厳しい戦場で磨き上げられた宵の剣技は、洗練された王都の技を力でねじ伏せていく。攻撃を受け流し、重心を崩し、容赦のない一撃を叩き込む。


「ここは王都じゃない。甘えた剣を振るう場所ではないぞ」


宵の重い一撃が男の防御を砕く。男は壁に激突し、血を吐きながらも懐から煙玉を取り出した。


「……撤退だ。だが、これで終わったと思うなよ」


白い煙が路地を包む。煙が晴れたとき、そこには夜の静寂だけが残されていた。


「怪我はないか、蒼空」


宵が刀を鞘に納め、少年に歩み寄る。


「……ありません。すみません、僕のせいで」


その声を遮るように、足音が響いた。


駆けつけてきたのは、透歌だった。彼女は現場の惨状を一瞥し、すべてを察したように蒼空の肩に手を置いた。


「違うわ。あなたが優秀だから、王都があなたを恐れ、欲しがっている。それだけのことよ」


「透歌様……」


「引き抜きと暗殺を同時に仕掛けてくるなんて。あちらの連中らしい、合理的で反吐が出るやり方ね」


透歌は静かに、だが激情を秘めた声で告げた。


「いい、蒼空。あなたは何も気にせず、ここで学び続けなさい。北にいる限り、誰一人としてあなたを奪わせない。たとえ王都が軍を差し向けてこようとも、私が、私たちがあなたを守り抜く」


宵もまた、不敵な笑みを浮かべて頷く。


「当然だな。ようやく面白くなってきたところだ」


その夜を境に、北の空気は一変した。


学舎の周囲には私兵が配置され、街全体の警備も大幅に強化された。それは単なる防衛ではない。北が、王都という権力に対して明確に「否」を突きつけ、自らの未来を自らの手で守るという宣戦布告でもあった。


暗暗とした王宮の一室。


「報告。蒼空の引き抜きに失敗。護衛の介入により、暗殺も未遂に終わりました」


報告を受けた男——千隼は、椅子に深く腰掛けたまま、静かに目を閉じた。

怒りはない。むしろ、その口角は愉悦に歪んでいる。


「……そうか。透歌はそこまであの少年を囲い込んでいるのか」


彼はゆっくりと目を開ける。その瞳には、執着と野心が渦巻いていた。


「面白い。なら、姑息な真似はやめよう。正面から、根こそぎ奪い去ってやる」


夜の丘に立ち、透歌と宵は街の灯りを見下ろしていた。


「激しくなるわね、これから」


透歌の言葉に、宵は静かに頷く。


「ああ。もう引き返せないところまで来た」


「最初からそのつもりよ。北をただの避難所にする気はない。ここは、新しい世界の中心になる場所」


透歌は宵を振り返り、優しく、だが力強く微笑んだ。


宵もまた、その視線を受け止め、一歩近づく。


「守る。お前も、あの少年も、この場所も」


「ええ。一緒にね」


吹き抜ける風は冷たい。だが、二人の心には、決して消えることのない決意の火が灯っていた。


北の地は、選ばれた。


王都の標的として。


そして、誰も見たことのない未来の礎として。

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