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蒼空

北方学舎が開設されて十日。


建物の端々にはまだ真新しい木の香りが残り、未完成の壁からは隙間風が忍び寄る。


机も足りず、床に膝をつく者もいたが、講堂を埋め尽くす熱気はそれを補って余りあった。


小さな子供、無骨な手をした職人、土にまみれた農夫、かつて天秤を振っていた元商人。

年齢も立場もバラバラな彼らを繋ぎ止めているのは、ただ一つ。


「学びたい」という、飢えにも似た純粋な意志だった。


その日の午後、一人の少年が遅れてその門をくぐった。


ボロボロの外套を羽織り、靴底は今にも剥がれそうなほど擦り切れている。


けれど、汚れ一つないその瞳だけが、冬の終わりの空のように異様なほど澄み渡っていた。


「……ここが、学舎?」


門番もいなければ、拒む者もいない。


ただ、すべての人に開かれたその空間へ、少年は吸い込まれるように足を踏み入れた。

講義は、静かな静寂の中で進んでいた。


文字の書き方、数字の数え方。教壇に立つ透歌が、黒板に一文字の数字を刻む。


「これは“十”という数です」


誰もが知る、至極単純な説明。聴講者の多くが納得の表情で頷く中、後方から一際静かに、けれど迷いのない手が挙がった。


「それは“十”ではありません」


一瞬、講堂の空気が凍りついた。


透歌はゆっくりと視線を向けた。そこには先ほど現れた、薄汚れた身なりの少年が立っている。


「……どういう意味かしら?」


挑発ではなく、純粋な問いとして透歌が返すと、少年はまっすぐ彼女を見つめて答えた。


「それは“十という概念”を示すための、ただの記号です」


ざわめきが波のように広がった。そんな屁理屈、誰も聞いたことがない。


だが、教壇の透歌だけは違った。彼女の瞳が、驚きと歓喜にわずかに揺れる。


「名前は?」


「……蒼空そら


透歌は一歩、彼の方へ歩み寄った。


「なぜ、そう思ったの?」


蒼空は少し視線を落とし、言葉を吟味するように、一言ずつ丁寧に紡いだ。


「数は、目に見える実体じゃない。リンゴが十個あっても、数え方を変えれば一山になる。でも、“十”ということわりそのものは、何があっても変わらないから」


傍らで控えていた宵が、小さく息を呑む。

透歌の口元に、柔らかな笑みが浮かんだ。


「面白いわ。本当に……面白い」


その後の蒼空は、嵐のようだった。


読み書きも、複雑な計算も、難解な論理問題も。


彼は誰よりも早く解き終えるだけでなく、その裏側にある「なぜそうなるのか」という構造そのものを、驚くべき速さで飲み込んでいった。


放課後、誰もいなくなった講堂で、蒼空は一人黒板を見つめ続けていた。


背後に立った透歌が、静かに声をかける。


「帰らないの?」


「……もう少し、考えたいんだ」


振り返りもせず、チョークの跡をなぞるその背中に、透歌はかつての自分を重ねていた。


「何を考えているの?」


「この街のこと」


蒼空が指差したのは、教科書の内容ではなく、窓の向こうに広がる景色だった。


「道の作り方、荷物の流れ、人の歩く向き。全部に無駄がない」


そして、彼はポツリと独り言のように付け加えた。


「でも、もっと良くなる。まだ伸びるよ、この街は」


重い沈黙。宵が鋭い視線で少年を射抜くが、蒼空は動じない。


透歌は、心の底から溢れ出す笑みを抑えきれなかった。


「蒼空。あなた、最高に面白いわ」


少年の瞳に、初めて戸惑いの色が混じる。そんな彼に向かって、透歌は未来を断言するように告げた。


「ここにいなさい。学びなさい。そして——いつか必ず、私を超えてみせなさい」


それは命令でも、単なる励ましでもなかった。


対等な「知」を持つ者への、最高級の敬意。

蒼空の瞳に、新たな、そして強い火が灯る。


「……やってやるよ」


その夜。


「危険だな。あの少年は」


月明かりの下、宵が低く呟いた。


「ええ、そうね」


透歌は頷くが、その表情はどこか晴れやか

だ。


「世界を変えてしまうほどの子よ」


「……また一つ、大きな火種が増えたな」


宵が懸念を口にすると、透歌はくすくすと笑って首を振った。


「違うわ、宵。あれは火種じゃない」


「——あれは、闇を照らす灯りよ」


数日後、王都。


「北方学舎に、異常な才能を持つ少年が現れました」


報告を受けた千隼の目が、冷徹に細められる。


「名前は?」


「蒼空、と」


しばしの沈黙の後、千隼は冷たく言い放った。


「……摘み取っておく必要があるな」


北の大地は、ただ豊かになったのではない。

人が育ち、思想が芽生え、そして今——「未来」そのものが、産声を上げたのだ。

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