棘も含めて美しい花
15歳の春は、残酷なほどに穏やかだった。
透歌が整えた学園の会計制度は、もはや個人の裁量では揺るがぬ堅牢さを備えている。
収支は四半期ごとに公開され、監査は外部貴族家から輪番制で選出、寄付金の用途は用途別勘定で管理される。名目だけの「善意」は通らず、証憑なき支出は一切認められない。
千隼の公務も同様だ。案件は優先度と影響度で分類され、決裁権限は段階的に設定されている。殿下が理解していようがいまいが、印は所定の手順を経なければ押せない。透歌は静かに、しかし確実に“理”で世界を縛り直していた。
その結果、千隼は暇を持て余した。
本来ならば彼が目を通すべき報告書は、要点だけを三行にまとめられ、判断は既に選択肢として提示される。
しかもその選択肢は、どれを選んでも致命傷にはならぬよう設計されている。千隼はそれを「自分がうまく回している証」と勘違いした。
実務の八割が透歌の手で処理されていることに、気づく知性も、疑う謙虚さもなかった。
そして、空いた時間に入り込んだのが——萌乃だった。
萌乃は無邪気に笑う。屈託なく、天真爛漫に。難解な報告書の代わりに、甘い焼き菓子を差し出し、「千隼様はすごいですね」と言う。根拠はない。
だが、千隼にとってはそれで十分だった。理解できぬ数字より、分かりやすい称賛。重たい責務より、軽やかな笑顔。天秤は、ゆっくりと傾いていく。
透歌は、その様子を正面からは見なかった。
ただ、予定表に“偶然”の余白を作る。千隼と萌乃が同席する行事を、自然な形で増やす。
会食の席次、視察の同行者、講義の班分け。
全ては「学園の活性化」「殿下の親民姿勢」という名目で整えられた。
誰も疑わない。疑えない。萌乃は、自分が物語の中心にいると信じている。千隼が自分に惹かれていくのは、運命だからだと。
——運命。
その言葉を、透歌はもう信じない。
宵は壁際から静かに見ていた。萌乃が千隼の袖を引き、殿下が頬を緩める光景を。本来透歌が居たはずの立ち位置に萌乃が入り込む様子に胸の奥に生まれる微かな棘を、宵は自覚している。
それでも表には出さない。透歌が選んだ道ならば、どれほど痛みを伴おうと支える。それが自分の在り方だと知っているからだ。
「殿下、次の公務ですが——」
透歌の声は澄んでいる。萌乃が隣にいようと、揺れはない。千隼は一瞬だけ煩わしげに眉をひそめるが、書類は既に整っている。
署名するだけで済む。考える必要はない。責任の重みも、実感はない。
「透歌は本当に頼りになるな」
その言葉に、萌乃は少しだけ目を細めた。自分の思い描く筋書きでは、透歌は次第に孤立し、感情を露わにして失策を重ねるはずだった。だが現実は違う。
透歌は静かで、完璧で、揺らがない。だからこそ、萌乃は焦る。物語は自分のもの。そう思い込んでいるから。
放課後、萌乃は殿下に言った。
「透歌様は、少し冷たいですよね」
と。殿下は曖昧に笑う。冷たい、というより、難しい。自分には分からない。分からないものは、遠ざけたくなる。分かりやすい温もりへと、心は流れる。
それでも透歌は、動じない。
夜更け、執務室の灯りはまだ消えない。断罪まで、あと三年。時間は有限だ。
制度はさらに強固にしなければならない。監査権限の二重化、議決手続きの透明化、貴族家間の相互牽制条項。法は感情に勝る。
理は物語を侵食する。透歌は知っている。
殿下が萌乃に傾くほど、政治的な均衡は崩れる。その崩れを吸収するための緩衝材を、今のうちに敷き詰めておくのだ。
窓の外、春の風が吹く。
宵がそっと紅茶を差し出す。
「透歌様、少しお休みを」
透歌は微笑む。
「あと少しだけ」
その横顔に、迷いはない。千隼が誰に惹かれようと構わない。必要なのは、三年後に生き延びること。その先で、宵と共に在る未来を選ぶこと。
一方、千隼は知らない。自分が中心だと信じている舞台が、既に組み替えられていることを。萌乃の笑顔に胸を高鳴らせながら、彼はゆっくりと、だが確実に、透歌の掌の外へと歩み出していく。
それは、透歌が意図した通りの距離だった。
「もうすぐ断罪だ。三年後。それまでの日は、あっという間だろうね」
「どうなさるつもりですか?」
「覚悟は決まってるよ。私はもう、『朝霧千隼の婚約者』ではなくなる決意をした。悪役令嬢として、断罪されてもいい」
「本当に?」
「当たり前」
宵は透歌の横顔を見る。
とても美しく成長した顔。観測者、という立場の自分を彼女は選ぶ選択肢を見ている。
「準備はほぼ整ったでしょ?正義を貫く準備と、私が自由を手にする準備」
「最後は悪役令嬢らしく散ってあげるわよ」
「そうですか」
来る三年後の断罪まで。




